16 ヴィルディアスの罠
「宮内さん」
やや唐突に、八束は彼女の名を呼んだ。
「は、はいっ」
背筋を伸ばした奈央に、彼は軽く頭を下げた。
「和平交渉には、僕と山下、それから白石さんとで臨もうと思う。その間、三原さんの様子を見ていてもらえないかな」
「……分かりました」
奈央が神妙な顔つきで頷く。三つ編みにした髪が、僅かに揺れた。
トリックスターの正体が未来人だったというショックから、玲はまだ立ち直れていない。今もソファに横になり、ぐったりとしている。彼女を作戦に参加させるのは論外だ。
かといって、弱った玲一人を残して行くのも不安が残る。そこで奈央の出番というわけだ。まだ戦闘経験の少ない彼女には、トリックスターの戦艦に乗り込むより、仲間のサポートを任せる方が適切かもしれない。
「それにしても、ずいぶん大変なことになったな」
山下が伸びをし、凝った体をほぐす。世間話でもするかのような口調だった。
「まるで、俺たちが人類の代表みたいじゃないか。こういうのは、もっと偉い人に任せた方がいいんじゃないのか」
「現時点でトリックスターが最も脅威に感じている人類、それが僕たちだ。そういう意味では、僕たちが交渉に臨むのは自然なことだよ」
受け答えをしながら、八束はどこかもの寂しさを感じていた。
何故だろう、と自問自答する。答えはすぐに見つかった。
八束の発言に呆れたり、怒ったり、笑ったり。普段であれば感情豊かなリアクションを見せてくれる人物が、今日は押し黙っているからだ。
玲は苦しそうな表情で横たわり、目を閉じていた。やや不規則な呼吸に合わせ、胸が上下している。
(三原さん。少しだけ、待っていてほしい)
彼女へちらりと視線を向け、八束は密かに決意を固めた。
(明日の和平交渉で、何としてでもトリックスターと合意に達してみせる。そして、三原さんがもう戦わなくていい世界に変えるんだ)
彼自身、未来の人間たちを斬り捨ててきたことに、後悔の念を抱いていないわけではない。
悲しみのない世界をつくるべく、七つ道具に選ばれし戦士は新たな一歩を踏み出した。
「皆さん、気をつけて行ってきて下さいね」
時刻は正午になろうとしている。八束家のリビングにて、奈央は彼らを心配そうに見送った。
「大丈夫だよ。もし危なくなったら、すぐに戻るから」
にこやかに答え、八束が彼女の隣へ目を向ける。
「……それと、三原さんを頼んだ」
昨日ほど衰弱してはいないが、生気の抜けたような表情は相変わらずだ。虚ろな目で、何もない空間をぼんやりと見つめている。
『今の三原では使い物にならない。自分の信じる正義を失った人間を、戦士とは呼べない』
山下の台詞が頭をよぎった。
玲の代わりを探そうとする山下の方針は、あまりに乱暴だった。けれども、彼女が戦えなくなったのは事実である。八束も、それは認めていた。
もし、自分たちが地上を離れている間に、トリックスターが侵攻を進めようとしたらどうなるか。そのとき玲を守って戦えるのは、おそらく奈央だけだ。
話をしているうちに、テーブルの少し上の空間が歪んだ。陽炎のように揺らいでいるそれは、ヴィルディアスの形成したワープゲートに違いなかった。
(準備は整った。急いでこちらへ移動してほしい)
なじみ深い声が響く。八束は仲間たちと頷き合い、ゲートへ向かった。
今回の和平交渉には、人類の命運がかかっていると言っても過言ではない。したがって彼らも、できるだけフォーマルな服装で臨むよう努めていた―といっても、通っている高校の制服を着ているだけなのだが。
「じゃあ、行こうか」
「ああ」
「うん!」
はたして、三人の若き戦士は順番にゲートへ飛び込んだ。
あとに残された者のうち一人は、期待と不安を込めてその光景を眺めていた。
もう一人の目には、あるいは何も映っていなかったかもしれない。
薄暗い場所に着地し、八束は辺りを見回した。
すぐ横には、山下と薫も立っている。全員、無事にワープを成功させたようだ。
固い床には、微細な震動が走り続けている。遠くからはエンジン音らしきものも聞こえる。本当にトリックスターの戦艦へ乗り込んだのだ、と実感する。
「……よく来てくれたね」
暗がりから、金髪に栗色の瞳をした青年が姿を現す。彼は身なりが良く、上等そうなスーツを着こなしていた。
七つ道具を介して話すときと比べ、声にエコーはかかっていない。だが、彼が誰であるかは明白だった。
「私が案内しよう。ついてきなさい」
踵を返し、ヴィルディアスはつかつかと歩き出した。
ラゼのように醜悪な外見をしているのかと思いきや、その予想は大きく外れた。見たところ、彼は普通の人間である。
「はい」
協力者の後を追う八束は、このとき何の疑念も抱いていなかった。
船内の狭い通路を歩いていたところ、いきなり開けた空間に出た。
ライトの光が降り注いでおり、眩しい。目を細めた三人を、トリックスターの幹部たちが出迎える。
「エドマ様。七つ道具の所有者たちをお連れしました」
彼らの前に跪き、ヴィルディアスが頭を垂れた。
「うむ」
エドマと呼ばれた男は、鷹揚に頷いた。身振りで、ヴィルディアスに「下がって良い」と伝える。
(この男が、トリックスターの王か)
彼と相対し、八束は冷静に観察を行った。
全身の筋肉が大きく隆起し、それを紅の皮膚が覆っている。どうやら体の内部から高熱を発しているらしく、彼の周囲にある空気は僅かに揺れて見えた。
マグマのごときエネルギーを体内に閉じ込めた、剛力無双の戦士。数々の戦いを乗り越えた猛者の風格と、圧倒的な力を誇る強者の威風を兼ね備えている。
玉座に腰掛けたエドマ。彼の後ろには、ラゼともう一人の幹部も控えている。西洋の甲冑に似た鎧を身につけ、重武装した戦士だ。
(……怯んじゃ駄目だ。僕たちは、別に彼らと戦いに来たわけじゃない。お互いが共存できる可能性を探すために、ここにいるんだから)
自らを奮い立たせ、八束はこちらの主張を伝えようとした。
しかし、それよりも早く、エドマの低い声が響き渡る。
「単刀直入に言おう。お前たちの所持している『盗人の七つ道具』を、全て我々に渡せ。そうすれば、命だけは助けてやる」
「……何を言ってるんだ?」
まるで話が違う。八束は呆然としていた。
自分たちとトリックスター幹部との話し合いの場を、ヴィルディアスは設けてくれたのではなかったか。そのための根回しを行う、と約束してくれたのではなかったか。
「トリックスターは、今の人類と和平を結ぶ気はないと言いたいのか?」
「……和平?」
「そうだ。君たちは未来人で、僕たちは今の人類だ。どうして人間同士で争う必要があるんだよ。お互いが共存できる可能性が、きっとあるはずだ」
エドマにとって、和平とは初めて聞く単語のようだった。たちまち、彼は八束たちへ嘲笑を向けた。
「戯言を言うな。この時代の人類が築いた文明を根本から破壊しなければ、未来の破滅は避けられない。滅びの歴史を変えるためなら、我々はどんな犠牲も厭わない!」
明らかに、何かがおかしい。
「おい、どういうことだよ。説明しろ、ヴィルディアス」
いてもたってもいられず、山下が声を荒げた。
だが、彼が視線を向けた先で、美青年の姿は忽然と消えていた。
ついさっきまでは、エドマの前に跪いていたはずである。一体、いつ行方をくらましたと言うのか。
「……ねえ、山下君。私たち、もしかして」
彼の制服の袖を引っ張り、薫は怯えた声を出した。その台詞の続きは、あえて口にせずとも容易に推測できた。
今や、八束は確信を得ていた。
自分たちはヴィルディアスに騙され、まんまと敵の本拠地へ連れ去られたのだ。