第三章 鴨川浮音、佐原有作、謎を追う③
「あんなこと言っちゃって、本当に大丈夫だったのかいカモさん」
その晩、有作は夕食の済んだ食卓を片付けながら、食後の一服を楽しんでいる浮音に思いの内を明らかにした。
「――なあに、大丈夫よォ。しかしまあ、警部さんがあないに焦るとこ見ると、よっぽど上からせっつかれとるんやろうなあ。この頃の府警は検挙率が鈍いから、ずいぶん世間の目ェが冷たいんよ」
「だからって、あんな言い方しなくても……」
有作が反論すると、なに、あれくらいでちょうどええわ、と、浮音は吸いさしを灰皿へ押し付けながら同居人の口を制する。
「あの一言でハッパかけられて、ほんまに犯人が逮捕されたら儲けモンや。感謝されこそすれ、怒鳴られる義理はないやろ。明らかになった事件の真相を知って、僕はウキウキ、世間はニコニコ、これでも構わんのや。だが――」
新しいロングピースへマッチの火を当てると、浮音は唇から煙を漏らしながら、
「ここまで来たんや、出来ることなら僕の手で真犯人をとらえてみたいもんやな、とは思ったりする」
「そんな、推理小説みたいにうまくいくのかなあ」
皿をどかし、台拭きをまわす有作の怪訝そうな顔に浮音はどこか鈍い調子だったが、まあ、どうなるかなあ……と言い残すと、煙草の箱と灰皿を持って、浮音は二階へと上がっていってしまった。
――警察に迷惑かけて、大目玉でもくったらどうするつもりなんだろうなあ。
流しに向かい、食器へ洗剤をたらす有作は、昼間の出来事ですっかり自信を失っていた。最初のうちは興味本位でくっついていたが、牛村警部のような強烈な人物が現れてきたのでは少々事情が違ってくる。なにせ相手は、京都府警に属する警察官なのであるから――。
「――ここまで来たら、なるようになれ、って感じだなあ」
スポンジを使う有作の手は、どことなく重いものであった。
翌日、午前の講義が済んだ有作は浮音と共に渦中のアド研ことO大広告研究会を訪ねて衣笠の方へ行く予定であったが、直前になって瑞月に呼び出され、浮音だけが現地に行くこととなった。あとに残された有作は瑞月とともに、大学の裏手、吉田山の東側にある民芸調のカフェ――というよりは茶房とでも言った方がよさそうな店――へ足を踏み入れ、大学の時計台がよく見える、店の一番奥の席へ腰を据えた。
「ごめんなさいね、急に呼び出してしまって」
千代紙張りの表紙をあつらえた品書きを差し出すと、瑞月は有作に、浮音との約束を反故にさせてしまったことを詫びた。
「いいんですよ、たぶんカモさんだけでうまくやってくれるだろうし……」
渡された品書きを眺め、有作は瑞月の注文と一緒に、クリームあんみつと抹茶のセットを店員に命じる。その手際の良さに瑞月は感心し、いい旦那さんになりそうね、と有作へつぶやいた。
「いい旦那さんかあ。さしずめ、流行りの主夫ってやつですかね」
「まあ、そういう言い方もできるわね。お掃除や食事の支度、いつも佐原くんがやってるんですってね。ちょっと前に浮音くんから聞いたわ」
自分の湯飲み茶わんに土瓶のお茶を注ぎながら、瑞月がまじまじと顔をのぞき込むので、有作は照れて、すっかり赤くなってしまった。
「分担も考えたんですけど、僕がやった方が早いみたいで……」
「彼、ぼんぼん育ちでその辺は不得手だもの。幼馴染がお世話になってます」
芝居がかった調子で机に手をつく瑞月に、そんなァ、と有作は恐れおののき、まあ、灰皿の始末だけはカモさんにしてもらってます、と伝え、瑞月を安心させた。
「そこだけはキチンとしておかないと、ますます冗長するから、躾の方はお願いするわね。実家にいたころ、浮音くんたらスタンド灰皿があふれるまで手を付けなかったのよ」
「わ、そりゃすごい……。あ、でも、部屋はそれなりにきれいにしてるけど、カモさん放っておくとパカパカ吸うから、あっという間に灰皿が埋まるんですよね。徹夜明けの読書のあとは、部屋の中が紫がかって見えて困ります」
「まあ――」
有作の報告に瑞月は顔をしかめ、早死にされたらおじさんたちが悲しむわね、と、窓の方を向いてつぶやいた。少したって二人の頼んだ甘味が届くと、有作と瑞月はとりとめもない世間話をしながら、時折聞こえるウグイスの鳴き声に耳を傾け、ゆったりとしたひと時を楽しんだ。
「今日は来てくれてありがとう。楽しかったわ」
会計を済ませて店を出ると、瑞月はガウチョズボンの裾をはためかせ、有作の方へ向き直り、礼を述べた。
「あらためて、あなたという人が浮音くんにとって欠かすことのできない存在だとわかったわ。これからもひとつ、よろしくお願いします」
「やあ、僕でよかったら……がんばります」
さして特別なことはしていないのに、とは思いながらも、有作は悪い気もせず、そのまま瑞月と共に山を下り、大学へ戻った。そのあとで受ける予定だった講義が休講になってしまったので、しばらく図書館で時間をつぶし、二冊ばかり本を借りてから夕焼け空の下を急ぎ、家へと戻った。
鍵のかかっていない玄関の戸を引くと、有作は足元の三和土の上に下駄が二つ、歯を上にして転がっているのに気づき、それを手に取った。
「カモさん、いるのかい」
どこをどう歩いたか、あちこちに青葉や泥のついた下駄を外で軽くはらうと、有作は靴を脱ぎ、居間の方へふらりと入り込んだ。だが、肝心の浮音の姿は見当たらない。うっすらと温もりの残った下駄が玄関先に放り投げてあったばかりである。
「カモさん、ただいまー」
近所迷惑を気にかけて声を張り上げると、有作の頭の上でバタバタと動く足音が響き、階段の方から新聞を手にした浴衣姿の浮音が慌ただしく降りてきた。風呂にでも入っていたのか、浮音の髪はうっすら湿り気を帯びている。
「やあ、ただいま。聞き込みの方、どうだった?」
ところが、浮音はそれにこたえるでもなく、新聞を有作の眼前につきつけ、えらいことになった、と顔を青くして連呼した。
「赤線引いたとこを見てみぃ。あの警部、とんでもないことをしでかしてくれた……」
「いったいどういうことだい、カモさん――」
そこまで言いかけて、紙面の赤鉛筆の枠の中へ目を落とした有作は、思わず後ろへのけぞった。そこにはかなり大きめの活字で、次のような見出しが組んであった。
北大路大学生変死事件、容疑者確保
現場の居酒屋店員、犯行を自供す