第三章 鴨川浮音、佐原有作、謎を追う①
「ずいぶん無茶なお願いしてくれるじゃない、そうそう簡単に許可を出せるわけないでしょう」
大学の正門を入った右手、うっそうとした林の中にある煉瓦造りの別棟に入っている「京国大タイムス」編集部で記事の最終確認を行っていた沢村は、応接室に招いた浮音の頼みをピシャリとはねのけた。
「そうケチケチせんといてェな。減るもんじゃなしに」
ロングピースへ火を点けようとして、応接室が禁煙だったのを思い出すと、浮音は袂へ箱を戻し、下手な照れ笑いを瑞月へ返す。
「浮音くん、だいたいあなた自分が何言ってるかわかってるの。ウチの名前を笠に着て勝手に動き回りたい、って言ってるのよ」
瑞月は静かな口調で、しかし、燃え盛る怒りの炎を目の奥にたぎらせたまま、組んだ足のつま先をひくつかせ、浮音と向かい合っている。
「チョイチョイ、誰がそないに物騒なことを言ったんや。僕はただ、『京国大タイムスの特派員として、しばらくある出来事について気ままに調査をしたい』と――」
「――それを世間じゃ『笠に着る』と言うのよ」
興奮して身を乗り出しかかっていた浮音は、瑞月の据わった物言いにすっかりたじろぎ、つぎはぎだらけのソファへ元の通りに収まってしまった。それきり、応接室は水を打ったような、異様な静けさにくるまれていたが、しばらくして瑞月が、
「――で、どんなことがあったの?」
と、徐に口を開いたので、浮音は待ってました、とばかりに事のあらましを話し始めた。
「昨日きみにしこたま酔わされた帰りに、間違えて北大路まで乗ってしもうたんよ。で、酔いざましにうどん手繰って外に出たら、すぐ近くの居酒屋から誰かが緊急搬送された。先刻近寄ったときのバカ騒ぎの具合から、おおかたどこかの大学のサークルが歓迎会でもやってて、イッキ飲みしたアホが担ぎ込まれたんやろうと思ってたんや。ところがどうや――」
すぐ近くの新聞ラックから夕刊を出すと、浮音はローテーブルの上に頁を広げ、社会欄のとある場所を瑞月に指し示した。瑞月は眼鏡を直し、しばらくその記事へ目を落としていたが、読み終わるとすぐに顔を上げ、妙な事件ね、と口元へ手を当ててつぶやいた。
「メチルなんて、普通の飲み方してたら絶対に混ざるシロモノとちゃうからな。なんぞ、このホトケさんに恨みのある人間が一服盛った、という風に考えるのが自然やろうと思うんやけど……どう思う?」
「――厨房で混ざった、という可能性はないのよね」
瑞月の問いに、今ンとこは事故じゃなさそうやで、と浮音が返す。
「けど、この時期はあっちゃこっちゃで学生の飲み会があるからなあ。事故か他殺か――それは抜きにしても、イッキ飲みの強要やら、酔って路上で騒ぐやらする奴は少なからずおるわけや。そういう連中の実態を突き止めて、これからより良き学生生活を送ろうとする新入生に向けて、一種の啓発活動をするというのは……必要なんやないの?」
「――確かに、タイムスの方でそういう啓発記事を組んでみるのは、有意義な取り組みね」
ラックへ新聞を戻しながら、瑞月も浮音の言葉に同意する。
「そうなると、どうしてもあっちゃこっちゃの居酒屋、とくに学生がよく行くような安いところへ取材に行かないといかんが、日頃ただでさえ忙しい記者の皆様に、これ以上取材の手間を負わせたら、学業の方にも差支えが出てしまう。――そこで、我々が特派員として取材をし、タイムスへ記事を提供しようと、こういうわけなんや」
「――あくまでもそのついでに、北大路の事件のことを追いかけたい。そういうこと?」
レンズ越しに光る双眸から視線をずらしつつ、浮音がその通り、と返すと、瑞月は斜めに座り直し、腕を組んだままで神経質そうに目をしばつかせていたが、やがて両手を振りほどくと、わかったわよ、とやや大儀そうな調子で、浮音の方へ向き直った。
「きちんとルポをあげてくれるなら、特派員に任命しましょう。ちょうど火曜日に編集会議があるから、その時議題に出しておいてあげるわ。もしそこで通らなかったら、その時は――」
そこまで瑞月が言い終わらぬうちに、浮音は荷物を抱えて立ち上がり、
「なアに、わかっとるわ。おとなしく手ェ引いて帰るよって……。ほいじゃ、さいなら」
と、有作を伴ってそのまま応接室を出、編集部から足早に去っていった。まるでつむじ風のような浮音の振る舞いに有作が戸惑いながらも後を追いかけると、正門のところまで黙々と急いでいた浮音がピタリと止まり、有作の方へ顔を向けた。
「――心臓止まるかと思うたで。長い付き合いやけど、扱いにくい子や……」
それまでの涼しげな顔が崩れ、浮音は満身創痍、といった表情でため息をつく。
「これでもしダメだったら、どうするの?」
「さあてねえ。ま、その時はその時で別の方法を考えよかねぇ。――とりあえずこの件は火曜日までお預けや、帰って夕餉にしようや……」
有作は浮音の言葉に呆気にとられたが、他に何か言うことも思いつかず、彼の後をついて、二〇三系統の停まるバス停向けて、ゆっくりと歩きだすのだった。
瑞月を通してあげられた取材計画は編集会議を通過し、その日のうちに取材用の特派員証を受け取った浮音と有作は、講義がすべて終わるとさっそく、夕闇迫る百万遍、元田中の居酒屋へ繰り出し、ルポをまとめだした。
といっても、実際に店で飲み食いをするわけではなく、前もって電話をしてOKの出た店の店員に聞き込みをする、というだけの簡単なもので、一軒当たりはものの十五分もあれば済んでしまう。一時間半ほど店をまわった浮音と有作はそれに物足りなさを覚えながら、メモをまとめるのもかねて元田中の小さなそば屋へと入った。
「――案外アッサリしてるもんだねえ。これじゃ、一週間もすれば終わるんじゃないの?」
運ばれてきた番茶をすすりながら有作が言うと、メモの清書をしていた浮音は手を止め、その方がありがたいけどなあ、とシャープペンシルを回しながら答える。
「建前上は、こっちがメインの取材ってことになってるからなあ。僕はこっちをサッサと片して、北大路の件にメスを入れてしまいたいんよ……」
「なるほどねえ……。で、そっちの方はいつ行く? これからだと混んでるだろうし……」
壁に貼り付けられた品書きを仰ぎ見ながら有作がつぶやくと、浮音は懐へ手帳をしまい込んでから、いや、この後いくつもりやで、と即座に返した。
「カモさん、正気かい。居酒屋はこれからが書きいれ時なんだよ。邪魔しちゃ悪いよ」
「まあまあ、みなまで聞きィな。僕らが行くんは、閉店間際のひと気のない時間帯や」
「なんだって――」
有作が身を乗り出すと、浮音はあたりの様子を見てから、
「どこの店でも、これから帰ろうというときに来た客にはアイソが悪いもんや。せやけど、そいつに何かしらの目的があってきてるんなら、ジリジリ待たせるよりはさっさと言うこと言って追い返した方が楽ってもんやないか――。そこを突くンよォ」
口角を吊り上げ、にやりと笑う浮音に、有作は呆れたような顔で意地が悪いなぁ、と返す。
「なあに、これも知的好奇心を満たすためや。おかげでここ二日、退屈せんで済んどるんやから、ありがたいことやで」
言われてみれば、このほんのわずかな間で浮音の生活具合はかなり変わっていた。けだるげに講義に出て、合間合間の休憩のときだけひどく生き生きとしているのだけは変わらないが、少なくともいつもよりは威勢がいいような気が、有作はしてならなかった。
――この熱心さを、もうちょっとだけ授業の方に向けてもらえればいい学生なんだろうけどなあ。
そんなことを言っても馬耳東風だとあきらめると、有作はそばを通りかかったアルバイトの店員を呼び止め、二人分の注文を命じるのだった。
そばを平らげると、二人はいったん今出川の家に戻り、身支度を整えてから、どこの居酒屋ものれん時になる頃合いを見計らって再び夜の街、「大漁旗」のある北大路の大谷大の学生街へと繰り出した。
「――らっしゃいッ」
威勢のいい声に迎えられ、「大漁旗」の中へ入ると、先だっての事件が災いしてか、店の中は居酒屋につきものの酒肴や煙草のにおいがせず、軒先から厨房までの空気がひどく澄み渡っていた。どうやら人入りもよくないらしい、と悟ると、浮音は有作をつれて、厨房の手前にあるベニヤ細工のカウンターへ腰を据えた。
「――生ビールとコーラ。あと、ここにのっとる『本日のお造り』頼んますわ」
羽織の袂をはためかせながら注文をする浮音を、大学生らしいアルバイトの店員はめずらしげに見ていたが、オーダーを受け取ると、そのまま厨房の方に元気よくメニューを伝え、ビールサーバーの方へと向かった。
「はい、お待ちどおさまです」
露のしたたる中ジョッキを受け取ると、浮音は突き出しの枝豆をつまみながら二口ばかりビールをあおっていたが、コースターの上にそっとジョッキを置くと、暇そうに流しの具合を確かめているアルバイトに、ちょいちょい、と声をかけた。
「――僕ら、京国大の新聞部のもんなんやけど、ちっとお時間もらえませんか?」
「えっ、タイムスさんの……」
京都市内なら、大学以外の大きな本屋やスタンドに置いてあるから、京国大タイムスの名前はよその学生でもよく知っていた。K大の学生だというアルバイトの青年は浮音から事情を聞くと、奥で焼き鳥の仕込みをしていたクマ髭の店長と、もう一人の専門学校生の女の子を引き連れて、浮音たちのそばのテーブルへと腰を下ろした。
「――いやあ、この前はひどい目にあいましたよ。書きいれ時だっていうのに、土曜日の午後はまるまる、警察署で潰す羽目になりましてね」
毎年、春先に起こる各大学のサークルの悪行を聞き終えたあと、よもやま話の流れから先日の話題が店長から出ると、浮音はしめたとばかりに、それは災難でしたなあ、とねぎらいの言葉をかけた。
「新聞にも出てましたなあ。なんでも、強いアルコールが飲み物に混ざってたとかで……」
うっすら酔いのまわった口でそのことへ触れると、店長はいやいや、弱りましたよ、とカブリを振り、
「イッキ飲みならいざしらず、今度のは毒物混入ですからね。衛生管理に問題があるんじゃないかっていうことで、保健所と鑑識班が夜っぴいて検査したんですが、ビールサーバーはまるっきりのシロでした。問題のシャンディガフはお兄さんが飲んでる生中と、同じ口から出てるんですからね」
店長がジョッキを指さすと、浮音は手に取ってビールを一口含んでから、うん、おいしいと笑顔で返す。その言葉に店長以下のアルバイトたちがほっと胸をなでおろすと、浮音は唇についた泡をそっと指で拭ってから、
「せやけど、そうなったらいったいどこから入ったんでしょうなあ。なんせ、消毒用のアルコールやのうて、燃料用のアルコールですから……」
「それなんですが、実は、冬場のチーズフォンデュなんかに使う燃料アルコールが裏の倉庫にしまってありましてね。念のため検査をしてはもらったんですが、巷に出回っている量産品なので、完全に同じものかどうかまでは……」
店長の言葉に、浮音は携帯を取り出し、画像検索で出てきた燃料アルコールの黄色い瓶の写真を店員たちへ見せる。案の定、同じものだと分かると、浮音は首をしゃくり、そりゃ難儀ですな……と言って帯の中へ戻した。
「化学製品やとなおのこと、品質を一定に保ってあるから割り出しにくいでしょうなあ。――ときに、お二人は当日、バイトで入ってらっしゃったんですかいな」
浮音の問いに、アルバイトの二人は顔を見合わせてから首を横へ振り、店長がいや、この子たちは違いますよ、と付け加えた。
「その日は金曜日で人の入りも多いから、アルバイトの子は多めに入ってもらっているんです。なんなら、その子たちにも話をしてもらいましょうか?」
「いいんですか、そこまでしてもらって……」
有作が驚いて店長の顔を見ると、店長は髭をなでてから、なにせ評判が落ちてますからねえ、としおれた声で店の中を見回した。
「根も葉もないことでも、悪評って言うのはたちまちあちこちに広まりますからね。人死にが出たって言うんで、今日までに宴会が五件もキャンセルになってるんです。ここはひとつ、タイムスさんにうちが潔白であることを世間に知らせてもらえれば……と思いましてね」
「たしかに、人がこんことには死活問題ですからなあ。任せといてください、タイムスの全力を挙げて、『大漁旗』さんの無実をお伝えしましょう」
そう言って浮音は胸を張ると、店の無実を知らしめることを約束し、店長と固い握手を交わした。そのまま、閉店まで二、三杯ひっかけると、浮音と有作は店員たちに見送られ、店を後にしたのだった。