第二章 新歓コンパの悲劇②
晩の疲れが出たのか、珍しく遅くに目を覚ました有作が階下へ出ると、居間の畳に腹ばいになり、煙草をふかしながら朝刊を広げていた浴衣姿の浮音がおはようさん、と顔を上げた。ちょうどNHKのラジオが十時の時報を告げた、薄曇りの土曜日の朝のことである。
「――珍しいねえ、カモさんが早いなんて」
「なあに、たまにゃこういうこともあるんよォ」
読み終えた新聞をたたみ、定位置になっているマガジンラックの中へ押し込むと、浮音は首筋をもんでから、飯にしようやあ、とあくび交じりにつぶやいた。
二日酔いの気配がない浮音に安心しながら、有作がハムエッグの支度を始めると、パンの袋をガサガサ言わせていた浮音の口から、ふっとこんな言葉が漏れた。
「――昨日のアレ、全然記事がないんや」
「……へ?」
振り返ると、浮音は冷蔵庫のオーブントースターの中へ、四枚切りの分厚い食パンを放り込んでいるところだった。そののどかな様子にまるで似合わない、先刻の同居人の言葉に有作が顔をまじまじのぞき込むと、
「ほれ、昨日北大路で、居酒屋から誰かが担ぎ出されとったやろ。てっきり、どこぞの大学のサークルの新歓で、イッキ飲みしたやつが急性アル中になってで運ばれたんかなあ……と思って、新聞を片っ端からみとったんよ。ところが――」
「どこにもない、ってわけ?」
有作の問いに、浮音は首筋を掻きながらそういうこっちゃ、と口をとがらせながら返す。
「テレビやラジオも確認したけど、そないなニュースは出とらんかったし……」
「軽症で済んで、そのまま帰ってったんじゃないかなあ?」
「――そう考えた方が無難かもしれへんなあ。あ、ハムエッグは半熟で頼むでェ」
フライパンの中のハムエッグの焼け具合に注文を付けると、浮音はそのまま、冷蔵庫の中にしまってあったバターやジャムを持って、テーブルへ戻っていった。それきり、食卓に着いた有作を前に浮音はその話題に触れることはなく、映画でも行こうかあ、と、いつもの調子で休日の過ごし方を提案してくるのだった。
結局、その日は天候の不安定なのも手伝い、昼に近所の中華料理店からとった出前を受け取りに玄関先へ出たほかは家の中から出ることなく、めいめいの部屋で本を読んだり、居間で洗濯物をたたんだりしながら、悠々たる休日を過ごしていた。
が、その静けさは案外早く、もろく崩れ去ってしまった。あと少しで午後の三時になろうという頃、居間のテレビで天気予報をボンヤリ見ていた浮音が、ふかしていたロングピースの吸いさしを灰皿へこすりつけながら、もらった羊羹、まだあったかいなァとつぶやいたので、座卓の上でグラフ誌の温泉地特集へ目を通していた有作はページをめくる手を止め、まだあったはずだよ、と返した。
「ぼちぼち三時か……。茶ァ淹れるから、羊羹の支度頼むわ」
「はいはい」
浮音が手近に置いてあった茶櫃を開けて、ポットの中のお湯の具合を確かめているうちに、有作は背後にひかえている茶箪笥の左側、ガラスの代わりに網を張った一角から銀紙にくるんだ羊羹を出し、ひと口大に切り分けだした。
「――おや、ちょうど来たらしいなあ」
急須へ湯をまわしていた浮音が首を上げ、玄関の方へ目を向ける。有作が新聞屋さん? と聞き返すと、
「たぶんそうやろ。行ってくる――」
と、浮音はお土産を持って帰ってきた親を出迎える子供のような足取りで、玄関先へと急いだ。
五分ほどして、夕刊の束を抱えた浮音が戻ってくると、先に羊羹をつついていた有作はずいぶんかかったねえ、と浮音へ声をかけた。
「いやあ、あとからあとから新聞カブが来るもんで、なかなか戻ってこれんかったんよォ」
大毎新聞の一面へ目を通しながら、浮音はほどよくぬるくなった緑茶へ舌を近づける。背後に積まれた輪転機の熱が抜けきらない新聞の山からは、湿気た外気と混ざった濃い香りが漂っている。
「一人で何紙もとってるのはウチぐらいやろうしなあ。新聞店も大変やろうよ」
手を休め、羊羹へフォークをさしながら、浮音は販売店の苦労をねぎらう。
「そうかもしれないね。まあ、悪い客じゃないのかもしれないけど……」
積まれた一部、帝都新報に手を伸ばすと、有作は夕刊特有の小さなテレビ欄の方を上にして、夜に何か面白い番組がないかと目を通しだした。
「――おや」
浮音が息の詰まったような声を上げたのは、有作がテレビ欄のBS放送のあたりに差し掛かった頃だった。めぼしい記事がなかったのか、スポーツ欄や文化欄を飛ばして県域の社会欄、三面記事のところへ目を落としていた浮音が、反芻するように活字の上に指を動かしているのに気づいた有作は、どうかしたの? と身を乗り出して尋ねる。
「この記事見てみぃ。昨日の北大路のやつで間違いないと思うんやが……」
大毎の夕刊を有作へ押し付けると、浮音は畳の上から夕刊各紙を座卓にあげ、乱暴に紙面を手繰った。そして、同じ社会欄の上から下へ指を這わせると、やっぱりなあ……と、浮音は目をぎらつかせ、手近のロングピースの箱をさぐって火を点け、一筋の煙を天井に向かって吐いた。
あっという間の出来事に、夕刊を押し付けられたまま茫然としていた有作は、なにがあったんだい……と恐る恐る聞き返す。
「――ああ、すまんすまん。まだ読めとらんかったか。そこの、野々田ショウユの広告の隣に載ってる記事なんやけどな……」
先刻までの鬼気迫る表情は消え、いつも通りに煙草をくゆらす浮音の口ぶりに安心し、そっと件の箇所へ目を落とすと、有作は大手醤油メーカーの広告の隣にある記事へ意識を集中させた。記事は、次のようなものであった。
新歓の悲劇・大学生毒殺か(北大路)
十五日(金)夜十一時ごろ、北区小山町の居酒屋「大漁旗」で行われていたO大学広告研究会の新入部員歓迎会の席上で同研究会所属のO大生・太田健治さん(二一)が突如倒れ、駆け付けた救急車によって最寄りの堀川病院へ搬送されたが、その後死亡が確認された。当初、太田さんの死因は急性アルコール中毒によるものと思われたが、病理解剖の結果、直前まで飲んでいたビヤカクテルの中にメチルアルコールが混入していたことが判明し、所轄の北警察署では目下、事故死から他殺へと切り替え、犯人の行方を追っている。
「カモさん、これ――」
ほんの小さなものではあったが、おとなしい有作の神経を刺激するのには十分すぎるほどの衝撃が記事には含まれていた。
「十中八九、昨日の一コマで間違いないやろうなあ。時間も合うし、場所も合う……」
ロングピースをふかしながら、浮音は有作と目も合わせずに向かいの壁をにらんでいたが、やにわに立つと浮音はそのまま二階へあがり、普段使っている鞄と、革の速射ケースに入ったカメラを携えて玄関先へと向かった。
「カモさん、どこ行くんだい」
「例の居酒屋や。どうも気にかかってしゃあない」
鼻緒へつま先を通していた浮音が背中越しに返すと、有作はしばらく迷ってから、僕も行くよ、と叫ぶように言い放った。
「――こりゃあ、僕の勝手な自己満足やで」
「見に行くのがカモさんの自己満足なら、くっついていくのだって僕の自己満足、ってことになるでしょ。構わないかな?」
有作の返しに浮音はあっけにとられていたが、やがて割れ鐘のような声でゲラゲラと笑いだし、こいつは傑作や、と目元の涙を拭いながら膝を打った。
「確かにその通りや、そんなら断る理由もないな。地下鉄で行くから、財布だけ持ってきぃ。外で煙草吸っとるわ」
「わかった、じゃ、支度してくるよ――」
有作が階段を駆け上がり、部屋のふすまを閉めた音がしたのを確かめると、浮音はのっそりと腰を上げ、玄関の戸へ手をかけた。
どこかで市バスのとぼけたようなクラクションが、パァ、と鳴った。