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第一章 おかしな同居人②

「――そんな言い方したせいで、さっきからずっとあなたの陰にいたのね」

 細い眼鏡のレンズ越しにこちらをにらむ瑞月に、浮音はすっかり縮み上がって、スイマセン……と目も合わせずにロングピースをふかしていた。

「すいません、僕も疑えばよかったんですけど……あんまり真に迫った言い方だったんでつい……」

 浮音の隣でお冷を飲んでいた有作が援護に回ると、瑞月は表情をゆるめ、

「佐原くんは別に謝ることないのよ。悪いのは浮音くんの方だから……」

 と、穏やかな表情を眼鏡越しにのぞかせてから、再び幼馴染である鴨川浮音をにらみつけた。大学裏の洋食店「キッチン瑞穂」の細長い店内の片隅で、浮音はかれこれ数分ばかり、瑞月を前に、借りてきた猫のようになりながら黙々と煙草を吸っている。

「黙ってるようなら、今日の支払いぜんぶあなたに押し付けるわよ」

「待ったっ、それだけは勘弁……!」

 吸いさしを灰皿へ押し当てながら、左手で待ったをかける浮音に、瑞月はやっとしゃべったわね……と微笑みながら答える。

「冗談に決まってるでしょう。そんな殺生なことしないから……」

 沢村瑞月は浮音の言葉とは裏腹に、知的な雰囲気をまとった穏やかで、美しい女性だった。大学新聞「京国大タイムス」の文化欄記者であり、学業の合間を縫ってあちこちへ取材に出かけているらしい彼女の服装は、ほんものの新聞記者と見まがうようなオフィスカジュアルのスタイルであり、和装の浮音と見事な対をなしていた。

「佐原くん、浮音くんの面倒見るのは大変でしょう。いっつもこんな調子だもの」

 浮音の新しいロングピースへ火を出しながら慰める瑞月に、佐原は少し苦笑いをしながら、

「いやあ、案外慣れるのは早かったですよ。まあ、講義をさぼるのだけはどうにかしてほしいけど……」

「相変わらず、さぼり癖だけは治らないのね。彼、予備校時代にもしょっちゅう授業をさぼっては、私に会いに京都まで遊びに来てたのよ」

「ちょいちょい、そないにしょっちゅう来とったように言わんでぇな。ほんのちょいとやで、ちょいと……」

 浮音の反論に、どの口が言ってるんだか、と素っ気なく返すと、瑞月はウェイターの運んできたお盆から人数分の飲み物を受け取り、めいめいの手元へ添えた。

「相変わらず、ワインは不得手みたいね。たまには付き合ってくれたっていいじゃないの」

 菊正宗の一合瓶で手酌をする浮音に、シェリーの入ったグラスを傾けながら瑞月が残念そうな顔をしてみせる。

「ウスターソースをジャブジャブにかけたトンカツには菊正宗が一番と、僕の字引には書いてあるねん」

 名物のトンカツ――というよりは本式にポークカツレツと呼んだ方がよさそうな――を引き合いに出す浮音に、瑞月は初耳ね、と、レンズ越しに目をくりくり動かす。

「そりゃそうや、たったいま改訂版が出たばかりやもの……」

 人を食ったような浮音の物言いを困った人ね、と笑いながら取り合うと、瑞月は入学を祝して……と前置き、グラスを高々と掲げた。そして、

「――美味しかった」

 浮音と有作が軽く一口ふれきらないうちに、瑞月はグラスに注がれた並々注がれたシェリーをひと息に飲み干し、悠々と唇にナプキンをあてていた。有作は目の前の出来事に頭がついてゆけず、グラスを持ったまま右往左往していたが、浮音は慣れたもので、

「――さすが、新年会で熱燗一升飲み干しただけのことはあるわなあ」

 と、頬杖を突きながら、文字通りなめるように菊正宗を味わっている。

「もうちょっと欲しかったのに、あなたたちやお母さんに止められちゃったのよね。もう少しで新記録が作れたのに」

 メニューの後ろの方に載っているワインを選びながら、瑞月は悔しそうに口をとがらせたが、浮音はそれを鼻で笑いながら新しいロングピースへ火を点ける。

「――麦茶感覚でウィスキーのストレートを飲むやつにこれ以上飲ませたらろくなことあらんからな。早死にするで、ほんまに……」

 浮音が空になったロングピースの箱をまるめて袂へひっこめ、代わりに封を切っていない箱を出そうとしたところへ、瑞月が吸いすぎはガンの元よ、と言って、浮音の手を制した。

「ヘッ、お互いさまや。肝臓か肺か、それだけのことやで」

 渋々箱を戻すと、浮音は瑞月の手をそっとテーブルクロスの上に置き、鼻からスッと紫がかった煙を吐き出した。有作と瑞月の視界が、目元に硫酸紙でも当てたように白く曇る。

「――佐原くん、いろいろ苦労するだろうけど、あまり甘やかさないでね」

「は、はあ……」

 有作は二人のやり取りを目の当たりにして、正直面食らっていた。同級生とはいえ、浮音は浪人生であるから、その幼馴染である瑞月共々、当然年上なわけである。ほんの一つ二つしか違わないはずなのに、二人の一挙手一投足が有作にはひどく魅力的にうつっていた。

「――ねえ、白ワインぐらいならいいでしょう。これなんかおすすめよ。こっちは赤ワインのわりに、案外あっさりしてるのだけれど……」

 メニューにならんだワインの名前を指さす瑞月に、浮音は菊正宗の瓶を右手で握ったまま、

「くどいなァ、紅白やっとんのと違うで。ワイン飲むぐらいなら、こいつと心中した方がましや」

「あら、言ってくれるじゃないの」

 二人がむきになっているところへ、折よくウェイターが人数分のトンカツを運んできたので、有作はほっと胸をなでおろした。が、長い付き合いの瑞月が浮音に対して奥の手を持っていないわけがなく、セームでよく磨いたナイフを受け取ったところへ、

「――ボーイさん、アルパカ・ソーヴィニヨン・ブランを一本と、菊正宗を一升分運んできてください」

「おい、キクマサ一升、誰が飲むんや」

 ロングピースにむせかえる浮音に、瑞月はウェイターの後姿を見送ってから振り向き、浮音くんに決まってるじゃない、と座った目で言い放つ。

「言葉通り、菊正宗と心中していただきましょうか。浮音くん、前に言ってたわよね。『鴨川浮音に二言はない』って……」

 座った目で自分の顔を見つめる瑞月を、浮音は指の合間の吸いさしから灰をこぼしながら唖然と見つめていたが、やがて覚悟を決めたのか、

「――佐原くん、帰り道は頼んだで」

 と言って、先に届いていた菊正宗をラッパ飲みしてから、キツネ色に揚がったトンカツへウスターソースをかけまわし、フォークを突き立てたのだった。

 二人の間に、どことなく怪しげな雲が立ち込めるのを、有作は恐れおののきながら感じ取っていた。

 

 勝負は、瑞月の圧倒的な勝ちであった。トンカツと一緒に開けたアルパカの白に始まり、おすすめだというポートワイン、スパークリングワイン、丹波のワインを紅白両方、長野の小さな酒蔵の葡萄酒を瓶単位で開けてゆく瑞月の顔色が変わらないのに対し、浮音は五合あたりからどんどん顔が赤くなり、合間にふかすロングピースを持つ手つきも怪しくなってきていた。そして、どうにか約束通りに一升一合、十一本目の菊正宗の瓶を空にすると、火照った顔を有作へ向けて、帰り道、頼んだァ、と言ったまま、彼の胸元へ倒れこんでしまった。

「浮音くん、無理心中だけはやめてね」

 空になったグラスを置き、テーブルの端に置かれた伝票を手にすると、瑞月はレジスターのそばに控えているボーイに真新しい一万円札を渡し、

「佐原くん、悪いけれど浮音くん、まだ意識があるうちに運んであげてくれないかしら。いざとなれば、タクシーに乗れるぐらいの額は彼のお財布に入っていると思うけれど……」

「――アホ、まだキチンと歩けるわい」

 水差しのお冷を飲みながら、浮音は焦点の定まらない目で説得力のない叫びをあげたが、頭がひどく痛むらしく、こめかみへ手をあてたまま再び仰向けに倒れこんでしまった。

「この調子じゃ、二日酔いは確定ね。肩貸すから、ゆっくり行きましょ」

 うっかり吐かれでもしないように気を使いながら、瑞月は有作と息を合わせ、浮音を店から担ぎ出し、どうにか往来のある東大路の通りまで運び上げた。

「じゃあ、私はこっちだから。またそのうちに会いましょうね」

 瑞月の姿が近衛通りの暗がりへ溶け込んでいったのを見届けると、有作は浮音に肩を貸し、ゆっくりとした足取りで近くのバス停まで向かった。

「――ほんまに、魔性の女やで」

 夜風を受けるうちにいくらか正気を戻したのか、浮音はベンチにもたれたまま、袂の中を探った。

「魔性かどうかは知らないけど、酒豪なのは間違いないね。水でも飲むみたいに開けちゃってたもん」

 気を遣って背中をさすりながら有作が答えると、大丈夫やで、と言って手を離させてから、浮音はロングピースへ火をつけ、火口を二、三度瞬かせながら紫煙を巻き上げた。

「しかし、今日は幸いやった。君という同行人がおらんかったら、むきになって二升開けようとしとったかもしれん」

「どうしてまた――」

「どうしてって、そりゃあ決まってるやろ。きちんと同居人を家まで送り届けにゃいかんのやから……」

 浮音が言い終わらぬうちに、バス停に据え付けられた回転式の接近表示機が回り、市バスの到着を二人へ告げた。

「ちょうどええ、このまま乗ってった方が楽や」

 目の前でドアが開くと、浮音は有作を伴って中ほどの席へ腰を下ろし、そのままヒューズでも飛んだように窓ガラスへもたれてしまった。有作はしばらく、浮音が吐き戻したりしないかを気にし、彼の様子を見守っていたが、足元から登ってくるエンジンの振動と熱気にいつの間にか瞼が重くなり、浮音ともども、舟をこぎだしてしまった。

 ところで、瑞月のペースに合わせようと気を張ってすっかり疲労困憊していた二人は、あることを確認していなかった。バスの行き先である。

 二人を乗せた祇園回りの市バス・二〇六系統は、普段乗る二〇三系統が止まるはずの百万遍西のバス停には止まらず、元田中の踏切を超え、高野橋を渡り、終点の北大路目指して夜の古都をひた走っていた――。


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