第一章 おかしな同居人①
「カモさん、ほら、早く起きないと遅刻するよ」
ふすまを細く開け、布団の中でモソモソと動いている鴨川浮音に声をかけながら、佐原有作は腕時計をにらんだ。移動時間を差し引きすると、講義までの余裕はあとわずかしかない。
「――先行っててェ。あとからおっかけるよって……」
「しょうがないなあ……。じゃ、行ってるよ」
ふすまを閉じ、今日日あまり見かけない木造の急な階段を下ると、有作はガスの元栓をよく確かめてから、建付けの悪い引き戸を両手で開け、外へ出た。
――これじゃさすがに、鴨川のおじさんに申し訳ないなあ。
世話になっている浮音の父親・正一のことが頭をよぎり、有作はどことなく浮かない顔をあげ、浮音の部屋の窓を見つめた。案の定、浮音が動いている様子はどこにも見受けられず、レースカーテンの白い生地がガラス越しにちらつくばかりだった。そのまま家を離れ、停留所でバスを待っている間も、有作はもしかすると浮音が支度を済ませてやってくるかもしれない……という淡い期待から何度か家の方角へ目をやったが、彼のトレードマークである和装と、カラコロと軽快な音を鳴らす朴歯の下駄の音は一向に現れないまま、渋々、やってきた市バスの中へ飛び込むのだった。
結局、浮音が大学に現れたのは講義が済み、昼休みになってからだった。学生食堂でうどんを手繰っているところへ、耳なじみのある下駄の音がしたのに気づいて有作が顔を上げると、きちんと身支度を整えた浮音がやあ、お待っとさん、と悠々たる調子でこちらへ寄ってくる。
「結局、今日も欠席だったねえ」
丼を引っ込めながら、有作が渋い顔で釘を刺す。
「――いやあ、どうにも起きる気力がわかんでなあ。そもそも初回から、あんまりおもろない講義やったからなあ。おもろいモンやったら、きちんと早起きするんやけど……」
どこかの喫煙所か、ともすると喫茶店でモーニングセット片手に一服してきたのか、愛飲している煙草・ロングピースの甘い香りを漂わせながら、浮音はテーブルの上に置かれたメラミンの湯呑とアルマイトのやかんを取り、二人分の麦茶を湯呑に注ぎ入れた。
「鴨川のおじさんにお世話になってる手前、きちんと引っ張り出さないといけないんだけどなあ……」
一人ごちると、有作は隣の椅子に置いたリュックサックの中からカーボン紙で写しをとった講義のメモを浮音に渡し、ノートとっといたよ、と呟く。
「あら、わざわざ取っといてくれたんかいな」
すまんねえ、と、うやうやしく写しを受け取る浮音に、
「留年させたらさすがに気まずいからね。次はしっかり出てよ、カモさん……」
と、有作は忠告をしたが、肝心の浮音は気のない返事をしつつ、革の学生鞄の中へ写しを放り込んだだけだった。それからほんの少しばかり、しょうもない世間話に興じていた二人は、予鈴の鳴ったのを聞いてからそれぞれの講義がある教室へ移ったが、講義の最中も、有作は浮音のことが気にかかって仕方がなかった。
――まさか、さぼってどこかに遊びに行ったりしてないだろうなあ。
きちんと出る、と本人は言うものの、いざ講義が済んで家に戻れば、あまり面白くなかったから途中で抜けた、とか、どうにも気分がのらんかったから、喫茶店でコーヒー飲んで、そのまま河原町で玉突きしてから丸善を冷やかしてた、などということが、入学してからのほんのわずかな間に何度もあったので、有作は浮音の出席事情などに関してはほとんど信用をしていなかった。言ってしまえば、有作の言葉も一種のポーズのようなものなのである。
――でも、実際のところ、頭はいいんだろうなあ。いつも、何かしら本を読んでるし……。
しかし、日頃何かしらの本を袂や帯、鞄の中に忍ばせており、壁の一面をすべて覆う巨大な本棚の中に納まった東西の書物を、居間や客間、部屋の薄暗がりの中で読んでいる上に、人と話せばそれがどんな相手でも、当人が好きだという音楽や映画、俳優などについての知識もひと通り、あるいはそれ以上の量を持っており、複数とっている新聞やニュースなどから得る国内情勢・海外情勢の事情なども、ちょっとした一般人が知るには十分すぎるほどの質を誇っている浮音の頭が鈍いとは、有作にはとても思えなかった。
講義が面白くないといってさっさと遊びに出かけてしまう浮音のことを、有作は本心から叱れず、むしろその膨大な知識量からくる一種の「飽き」を、うらやましくすら思っていたのだった。
――でも、やっぱり食事ぐらいはきちんと一緒に食べたいんだよなあ。ラップかけとくのも面倒だし……。
それだけは今度きちんと伝えておこう、と思うと、有作は背筋を正し、改めて講義の方へ集中するのだった。
講義が済んでから、浮音がとっている講義の教室へ向かうと、ちょうど出てきたばかりの浮音が、こちらに気づいて手を振っていたので、有作は急いでそばへ近寄った。
「今日はきちんと出たで」
「それが当り前じゃないか、ほこらないの」
じゃれるように肘鉄を食らわせると、浮音はやや大げさに苦しんでみせてから、あ、そうそう、と前置いて、
「今まで話しとらんかったけど、実はこの大学に僕の幼馴染がおってなあ。入学式のあとにちらっと会ったきりやったから、金曜あたりに一緒に食事でもどうか、って、さっきメールがあったんよ」
「――ああ、なるほど。じゃ、その日はそんなら僕の分だけ夕飯は支度しとけばいいね」
炊事や洗濯などの一切を請け負っている有作がいつもの調子で答えると、浮音はちゃうちゃう、と首を振ってみせ、
「それがなあ、むしろ君に会ってみたいってことなんよ。だから、佐原くんも一緒に来てほしいんや」
「えっ、僕に? いったい、相手は何者なんだい」
自分に会いたいという相手について尋ねると、浮音はどことなく浮かない顔で、こう答えた。
「――大学新聞の編集員の、沢村瑞月っていう才媛や。酒も強けりゃ気も強い、怖いお姉さんやで……」