第四章 「そいつは犯人じゃない!」③解決編
件の長封筒の中から出てきたのは、緑のロウに筆記体のKの字をあつらえた、立派な封蝋つきの西洋封筒だった。
「――わざわざ二重にしておいたの?」
用意周到さ、というよりはきざったらしいやり口に瑞月が呆れていると、
「まあ、何があるかわからんからなあ。あ、これで開けちゃって」
浮音は帯の中へ押し込んであった薄手のナイフの刃を出して、瑞月へ手渡した。カミソリほどの刃渡りのナイフで封を切ると、向こうが透けて見えるほどの、柔らかい手触りの便箋が姿を見せたので、有作は思わず息をのんだ。
「じゃ、ここはひとつ、第三者である佐原くんに読んでもらいましょ」
「え、ええっ」
戸惑いを隠せない有作だったが、他の誰かに押し付けることもかなわず、瑞月から受け取った便箋を開き、順繰りに読み始めた。
「――この中に記されているのは、近いうちに捕縛されるであろう北大路変死事件の真相に関する『一説』である……」
そこで一度は止まった有作を、浮音は咳払いで促す。ふたたび文面へ目を向けると、有作は、ゆっくりと、手紙の朗読を再開した。
「――現在犯人として出頭している東美嘉が真犯人でないという事実は、まずだいいちに、事件翌日に行われた現場検証が雄弁に物語っている。消毒用ではないメチルアルコールは普段店の奥にしまわれており、その容器などに最近何者かが手を付けた様子が見受けられなかった以上、東の『店の中のものを使った』という証言には重大な欠陥がある。
くわえて、旧知である三間坂千沙が知る、東美嘉の素行は特に重要な事項だった。用心堅固、石橋を叩いて渡る性格の彼女が、恨み連なる太田を前にして怒りを爆発させることは大いにあり得るが、その復讐劇ははたして突発的な凶行――しかも人目のある厨房の中で、ビヤカクテルを作るふりをして毒物を仕込むこと――によるものであろうか?
これに関して言えば、『不可能ではないが彼女がやるとは思えない』という結論しか、現時点では導き出せない。では、はたして誰が太田のシャンディガフへアルコールを仕込んだのか? しかも、その犯人を東が庇う意味とはなにか?
事件当夜の様子を改めて整理し、その上で出されるのは『当日、歓迎会の席上にいた学生が毒物を仕込んだ』という仮説である。
極端な話ではあるが、アド研ことネル研の性質を考えると、入学からひと月近く経ったその間に、太田やその他何某かの毒牙にかかった女子学生が少なからず存在するはずだ。そして、その中に殺意を抱き、隙を見て復讐を果たそうとする人間がいないとどうして言い切れるのだろう?
そしておそらく、東がそんな真犯人をかばって出頭したのは『毒の混入が事情を知った東の眼前で、慌ただしい厨房の中でひっそりと行われたから』ではないだろうか。『大漁旗』のトイレは店員と客の兼用で、それが一度外へ出た、裏口の真隣りにある。だから、ちょっとお手洗いに、とでも言って席を離れてしまうことは誰にでも可能だったのではあるまいか(もしかすると、犯人はあらかじめ店の店員の服装まで調べておいて、簡単な変装の上で裏口から厨房へ忍び込んだという可能性も否めないが、これは余談に過ぎない)?
だが、そこで運悪く犯人は東に見つけられてしまったが、奇しくも彼女は今の自分と同様に、かつて太田に慰み者にされた被害者の一人だったのである。
ひょっとすると、東は厨房から様子を見ていて、太田の存在に気づいていたのかもしれない。そして、東は犯人の忍ばせていた毒物と、客でありながら厨房へ忍び込むという奇妙な行動の意味に気づいて凶行を黙認し、事件後に彼女の代わりに自分が犯人として名乗り出、太田と、その周辺の人間を破滅の道に追いやろうとしても、別段不思議はないのではなかろうか――」
「――ハイ、そこまでっ」
有作から便箋を取り上げると、浮音は顔を真っ赤にして、こないな恥ずかしい文章やったんかいな、と、消え入るような声でつぶやいた。
「午前の講義の後に受け取ったから、もしかしたらそんなこともあるかも、とは思っていたけど……。浮音くん、あなた相変わらずの名文家ね」
「なにが名文家やぁ、恥ずかしゅうてかなんわ……」
手で顔を覆い隠す浮音の指の端からは、真っ赤に上気した耳たぶがのぞいている。その一種滑稽な姿に有作が笑いをこらえていると、瑞月が悪かったわよ、と謝りながらこう続ける。
「――浮音くんには申し訳ないけど、この推測は六段階ならSマイナス、ってとこね」
「おや、そりゃどういうこっちゃいな」
Sマイナス、という言葉が気に障ったのか、顔をあげて自分をにらむ浮音に、瑞月はこういうことなのよ、と前置いて、あらましを語り始めた。
「――あの二人、今回の事件以前に面識があったのよ」
「いったい、どういうことです」
有作が割って入ると、瑞月は少しよどんだ口ぶりで、
「最初に太田たちにいたぶられた夜、土浦さんはこの『大漁旗』へ来てたのよ。そのときにはもう東さんは太田たちの存在に気づいてて、ずっと厨房の奥に引っ込んでたそうなの。で、しばらく経った事件当夜、新入生歓迎会の顔ぶれに彼女の姿を見つけた東さんはあることに気づいた」
「――恨みを抱いた女の顔をしてる、土浦伊織にやな」
それまで口を閉ざしていた浮音が、誰とも目を合わせずにぼそりと呟く。
「嫌な話ね、他人の顔が、自分のかつての表情に似てて、それに気づいてしまうなんて」
「――じゃ、つまり、犯行当夜は裏口で気づいた東さんが、事情を把握したうえで土浦さんを素通りさせたってわけですか」
二人の言葉の意味を汲んだ有作は、背中に一筋の冷たいものが伝うのを覚え、戦慄した。
「早い話がそういうことね。で、彼女、やっぱり浮音くんの言った通りに店員そっくりな恰好をして、忍び込もうとしたところを東さんに見つけられたそうなのよ。あとは知っての通り……」
つまりは女同士の第六感が抜けてたわけ、と、補足すると、瑞月は足を組みなおし、ため息をつく。浮音は一言、なるほどなあ、と呟くと、ベニヤ張りの壁に背を預け、グイと奥歯をかみしめていた。
「ときに瑞月ちゃん、彼女が落としたの、なんやった?」
そっぽを向いたまま浮音が尋ねると、瑞月は腕時計へ目をやりながら、
「買ったばかりの腕輪だったんですって。どこでなくしたかわからなくて困ってるうちに、私たちの仕掛けた『ルアー』にかかった、ってわけ。もっとも、本物はまだ見当たらないけど……」
「――案外、鮎釣りは簡単やったなあ」
身を起こして向き直ると、浮音は少し前に、三間坂を通して広めたある「噂」の仕掛けの具合に満足し、にやりと口角を上げた。浮音が「鮎釣り」に例えていたのは、ニセの情報で犯人をおびき出す、という作戦だった。
「変装をしていれば、何かしら体から外すようなものがある。それに、そうでなくても疑心暗鬼から、よそでなくしたはずのものがなんでか現場にあるような、そんなソワソワした気になってまう――。犯罪者の心理ってのは、案外善良に出来てるもんなのかもしれへんなあ」
そこまで言ってから立ち上がり、軽く伸びをすると、浮音は瑞月や有作を促して戸締りをし、切り欠きの入った裏口から「大漁旗」を出た。そしてしばらく、黙り込んだまま烏丸通りを歩いていた浮音は、ふっと立ち止まると、瑞月の方を向いて静かに、
「瑞月ちゃん、三間坂さんを通して、土浦さんに伝えといてくれへんか。腕輪はたぶん風呂場か、洗濯物を置く水回りにあるんやないかな、って」
瑞月がどうして、と聞き返すと、浮音はいったん視線をそらしてから、こう付け加える。
「――大役をつとめたあとの人間が、汗の一つもかかへんわけがない。帰宅してから風呂かシャワーのどっちかは使うやろなあ、と思うて……」
「ああ、なるほどね」
瑞月が手帳へ言伝を書き留めたのを見ると、浮音は通りがかったタクシーを呼びとめ、瑞月と有作を座席に押し込み、街灯りの乏しい北大路を逃げるように出立した。
今出川で有作と降りると、浮音は瑞月へ五千円札を渡し、ほな、気ぃつけて、と言って、裏通りの方へ引っ込もうとした。が、すぐに瑞月に呼び止められてしまい、浮音は苦い顔で車の方を振り返った。
「なんや、早よ帰りぃ」
ロングピースに火を点けながら浮音が声をあげると、瑞月は窓を下ろして、
「――さっきの評価、訂正しておくわ。Sプラス、特優よ」
奇妙な物言いに、浮音がロングピースを手に掴み、そりゃ、車代の分かいな、と聞き返すと、瑞月はフッと微笑み、
「――大役を果たした後の女の気持ちがきちんとわかってるようだから、その分足しといたのよ」
そこまで言ってからウィンクを返すと、瑞月は運転手に車を出すよう命じ、あっという間に浮音の視界から離れていってしまった。
「――かなンなあ、こればっかりは……」
そのまましばらく、浮音はタクシーの去っていった烏丸通りの暗がりを、ロングピースを指に挟んだまま、飽きずにじっと見つめていた。
点々とともる街灯が、冷気に濡れて青白い光を放つ、ある闇夜のことである。




