第四章 「そいつは犯人じゃない!」①
連絡を受け、瑞月が浮音たちの家を訪れたのは、それから小一時間ほど経った後のことだった。いくらか落ち着きを戻した浮音は浴衣から羽織に着替え、気ばらしにロングピースをむやみにふかしており、有作がほっと胸をなでおろしているところへ着いた瑞月は、編集部で読んだ夕刊の記事のことを、おそるおそる浮音へ尋ねた。
「――犯人、捕まったのね」
ロングピースをくゆらせていた浮音は、宙に輪煙を吐くと、
「せやけど、こりゃどう見てもモノホンと違うで。二人とも、もう一度この記事をみてみ」
と言って、二人の手元へ大毎の夕刊を突き出した。有作が戻ったのが五時過ぎ、京都市内にある新聞社の夕刊が届くのが大抵三時ごろだから、その間に届いた記事にはきちんと、浮音によって目が通され、丁寧に赤鉛筆の囲い書きがしてある。大毎の記事は、次のようなものであった。
大学生変死 犯人自供
事件現場の居酒屋店員確保
十五日に北大路で発生した大学生・太田健治さん(二一)の変死事件について、京都府警北警察署は今朝、太田さんの友人で、事件現場となった居酒屋の従業員、アルバイトの大学生・東美嘉容疑者(二二)が出頭してきたことを取材中の報道各社へ明らかにした。捜査を担当した京都府警本部・牛村警部は「店の中にあったアルコールを用いたと自供している。動機に関しては目下取り調べ中」と語り、捜査のさらなる進展が期待される。
「この東っちゅう店員はたしかに、当日店に入っとったバイトの一人なんや。それはコピーしてもらったシフト表が証明しとる」
二人が顔を上げると、浮音は袂からシフト表のコピーを出し、テーブルの上に広げた。浮音がつけたらしい、蛍光ペンの箇所には、確かに「東美嘉」と、名前が書きいれてある。
「せやけど、警察や保健所が人を総動員して調べて、厨房や奥の倉庫にあった燃料アルコールに手を付けた跡はないとすでに証明されてるんや。そうなると、この東の証言はやや疑わしい――」
灰皿に置いてあったロングピースを手に取ると、浮音は渋い顔をしながら煙を吸い込んだ。
「そういえば浮音くん、あなた今日、O大まで聞き込みに行ってきたのよね。なにか気にかかるようなこと、なかったの?」
瑞月が話の矛先を変えると、浮音は灰皿へ灰を落としてから、あるにはあった、と、不思議に浮かない顔をして答えた。
「死んだ太田、かなりかぐわしい奴やで。そもそもアド研の別名からして怪しげなんやから、当人の評判も知れるというものや」
「アド研の別名……?」
有作の問いに、一拍ためてから、ネル研なんて言われてるそうやで、と浮音は素っ気なく返す。
「もちろん、ウブなネンネと違う方のネル、や。広告産業なんかに入りたい女子学生をたぶらかして、OBや男子部員なんかがさんざん甘い汁を吸ってるらしい」
浮音の言葉に、瑞月が下劣ね、と吐き捨てるようにつぶやく。こういう手合いのサークルはずいぶん前から白昼の下に晒されてきているはずだと有作たちは思っていたが、現実はそう甘くない様子だった。
「となると、死んだ太田って学生はそういう風に慰み者にしてきた女の子たちから相当恨まれてるんじゃないかい」
一度席を離れ、お茶の支度をしていた有作が問うと、浮音はその通りやろなあ、と、腕を組んだまま返す。
「九分九厘、そう見積もって差し支えなさそうや。この重要な情報をタレこんでくれたのは、O大のカフェテリアで会った三間坂さんという子でな。とうの昔にサークルからは抜けて、いまはアド研の被害者を少しずつ集めとるそうや。瑞月ちゃん、これはデリケートなテーマやけど、書きようによってはタイムス始まって以来の特ダネになるやもしれんで」
「驚いたわ、雀が鷹に化けるなんて……」
途中から鞄の中へ入れてあったレコーダーを出していた瑞月は、録音を止めると、手のひらでしばらく機械を持て余していたが、
「浮音くん、三間坂さんと会う機会を設けてくれないかしら。北大路の件はともかく、アド研の乱行はこっちで追いかけられるから」
「――それがええやろうねえ。こっちから話をつけとくよって、万事まかせとき」
太鼓判を押すと、浮音は自信たっぷりに瑞月の方を向いたが、その表情は決して明るいものとは言えなかった。
「にしても、東はいったいどういう了見で警察に出たんやろ。そもそも彼女はS大生で、接点らしい接点は思いつかんし……」
フィルターを切れんばかりに噛みながら、浮音はくせっ毛の頭髪をかき回し、いらだたしく座卓の天板を指ではじいた。そんな浮音を気にし、有作が冷めたお茶のお代わりを出そうと湯呑に手をかけた、まさにその時であった。玄関先に置いてある、普段めったなことでは鳴らない鴨川・佐原邸の固定電話が、けたたましいベルの音を響かせだしたので、三人は思わず顔を見合わせた。が、浮音は心当たりがあるのか、すぐにその場を離れて相手としばらく話していたが、やがて針金で束ねてあった電話線を伸ばすと、居間まで黒電話を引っ張ってきた。
「瑞月ちゃん、例の三間坂さんや。君のことを伝えたから、話しとってくれ。僕と佐原くんはちいと、外の空気でも吸ってくるわ――」
それだけ言うと、浮音は袂へ必要なものを押し込み、有作を連れて家をあとにした。
「なにせ問題がデリケートやからな。女だけにしとかんとあかんわ」
今出川の通りまで出たところで、浮音がようやく口を開いたので、有作はやっと家を離れた理由に気が付いた。普段に似合わず、案外鴨川浮音という男はマメなところがあるようだった。
「――怨恨がらみの殺人、しかも怪しい奴はごまんとおる。だが、どうも接点の見えないやつが犯人だと名乗り出た……。この事件、なかなかに入り組んどるで」
西陣に向かう市バスを見送ると、浮音はしぶとく空に残る夕焼雲をにらみ、闇の中へ身を投じるわけか……と、意味深なことをつぶやいたので、有作は息をのんだ。
「せやけど、その暗がりに太陽をぶちこまんことには、今度の事件は解決せえへん。こらァかなりの手間になるけど、佐原くん、きみ、着いてこれそか?」
背の高い浮音から見下ろされ、有作は少したじろいだが、やがて意を決し、やると思えばどこまでやるさ、と、自信たっぷりに微笑んでみせる。
「――たしかに、義理が廃ればこの世は闇やもんな。しかしまあ、『人生劇場』はちいと古すぎやせえへんか?」
「あはは、バレたかあ」
それまで張り詰めたような顔をしていた浮音がようやく笑ってくれたので、有作はそのことに安心し、いくらか肩が軽くなるのを感じた。
どこかの寺の境内で、七時を告げる梵鐘が鈍い音を響かせていた。
思いがけず、東美嘉の素性が明らかとなったのはその少しあと、三間坂と瑞月がタイムスの編集室で面会を果たした直後であった。
「驚いたなァ、東は転入生やったんかいな」
瑞月との話し合いも済んだあとで、三間坂に呼ばれた浮音と有作は、彼女の口からもたらされた情報の数々に、メモを取る手がなかなか止まらずにいた。北大路の変死事件の容疑者として世間の注目を集めているS大生・東美嘉は同じO大にいた三間坂の知り合いであり、アド研に絡んで大学が嫌になり、同じ専攻分野を学べるS大の編入試験を受けていたのだという。
「東がバイトに入ったのは暮れの十二月。それ以前のことは誰もきいとらんから、わからんかったんやなあ」
手帳を閉じて懐へ押し込むと、浮音は三間坂の方に向き直り、いや、よう教えてくださいました、と改めて礼を述べた。
「犯人逮捕の一報を耳にした時、名前を知って驚きました。でも、本人の性格から言って、どうしても私にはあの子が犯人だとは思えないんです」
「と、いいますのは……?」
有作の問いに、三間坂はベリーショートの髪から出たイヤリングを揺らし、
「彼女、行き当たりばったりに物事を進めるのが嫌いな、すごく慎重な性格なんです。出かけるようなことがあれば、しっかり時刻表まであたっておかないとだめなタチで……」
「そうなると、ここに出てるみたいな思いつきの凶行とは思えないわね」
ラックから朝刊をとると、瑞月は北大路事件を伝える一面の下の方の記事を見せるべく、頁をテーブル一杯に広げた。記事を読むまでもなく、「犯行は突発的なものと自供」という見出しが、本人の写真と一緒に躍っている。
「――三間坂さん、あなたどう思います? 東さんが誰か別に犯人を知っていて、それをかばっているとか……」
編集部員が出した安い紅茶をなめながら、浮音が三間坂へ話を振る。
「さあ、どうでしょう。でも、そうなってくると美嘉と真犯人が顔見知り、っていうことになりますし……」
「でも、肝心の東さんは二回次を前に編入試験を受けているのよ。同級生ならとにかく、新入生歓迎会の席にいる一回生じゃあ、難しいんじゃないかしら」
瑞月の助け舟に三間坂も同意してみせたので、浮音と有作は顔を見合わせ、ため息をついた。この出来事が物語っているのは、容疑者の数が膨大なうえに、範囲もかなり広くなってくるという容赦ない事実であった。
「ややこしいことになったなァ。せめて数人ぐらいに絞れたら、話は早いんやけど……」
ラックから抜き取った、ほかの朝刊の記事へ目を通しながら、浮音はしきりに目をしばつかせている。が、何を思ったか手を止めると、まてよ……と、天板へ両の手をついたまま、浮音は掛け時計の秒針のまわるのをじっと眺めてから、徐に手を離した。
「三間坂さん、おたくの大学の学生街って、あの辺と、たしか千本のあたりでしたかいなあ」
「ええ、そうです。市立図書館の本館に近い、あの辺りがそうですけど……」
天井を見上げながら風景をそらんじる三間坂へ、浮音はなおも続ける。
「――どないでしょ、下戸も酒飲みも等しく集まるようなメシ屋か飲み屋、ご存じありませんかいなァ。アド研とかに来るような連中が集まりそうなとこ……」
最後に浮音がつけくわえた一言に、三間坂は眉をひくつかせ、どういうことですか、と聞き返した。問いかけに浮音は、他の三人にそっと顔を近づけるよう告げると、衣擦れ程度のささやき声で、ある考えを打ち明けた。
「浮音くん、あなた正気なの。そんな方法、普通じゃないわ」
瑞月の高い声に浮音はまあまあ、と手を出してなだめる。他の二人も同じような反応で、
「――そんな方法で、ひっかかるのかなあ」
「でも、他に方法らしい方法も見つからないし……。鴨川さん、ひとまず二日ください。そうしたら、ちょうどいい場所がわかると思います。それを決めたら、じっくり打ち合わせましょう」
「それがよさそうやな。ほな、今日はこれにて解散解散……と」
ソファから離れると、浮音は尻元を払い、瑞月共々三間坂を送るべく、大学の東側にある裏門へ向かった。そして、吉田神社の門前で休憩をしていたタクシーを呼び、三間坂を送り出すと、浮音は瑞月と有作の方をむいて、こう言い放つのだった。
「――ちいとばかり、世間より早い鮎解禁になりそうやでぇ」
笑顔の浮音は、新しいおもちゃを得た子供のような表情に満ち満ちていた。




