序章 ある午後の訪問者
「感心しませんねえ、約束の時間に寝坊するだなんて」
「いやぁ、深酒はするもんやないねえ。ついつい、遅くまで眠ってしまうからよろしゅうない……」
客間のソファに腰を下ろし、シャープペンシルの芯をとがらせている三宅薫ににらまれると、鴨川浮音はうっすらと水気の残る髪をなで、慌てて巻いたのかきつく締まっていた帯を手で直し、詫びを入れた。ある土曜日の、薄曇りの日差しが窓からふんわりと差し込む午後のことである。
少し前に彼女の通う学校で起きた奇怪な事件の捜査のために招聘された、「素人探偵」の鴨川浮音と知り合った彼女は、捜査資料を提供する見返りに、その筋ではよく知られている浮音のあまり知られていないとあるエピソードを掘り出すべく、彼とその有能なる相棒・佐原有作青年が住んでいる今出川の町家へとやってきたのだが、とうの浮音は前日、知人と遅くまではしご酒をしていて薫との約束をすっかり忘れており、布団の中で二日酔いの頭を抱えているところだった。
「ごめんね、僕がうっかり、三宅さんの来るのを忘れていたばっかりに……」
氷を浮かべたアイスティーを運んできた有作が詫びたので、三宅は謝ることないですよ、と彼を慰め、
「悪いのは、大事な用事の前の晩に深酒なんかする鴨川さんです。断るのも付き合いのうちですよ」
「ハハハ、高説ごもっとも……と言いたいが、なじみの誘いは断りにくくてな。この頃いろいろあったもんで、話が盛り上がってしまったワケやな」
そう言って、ロングピースへ火をくべる浮音を一べつすると、三宅はロングスカートのすそを巻き込んでおいてある、ソファの上の鞄からハトメで綴じたA四判の紙を取り出し、浮音や有作の手元へそっと滑り込ませた。
「――お話にうつる前に、こっちで調べたお二人の簡単なプロフィールをご確認願えますか。全部載せるわけじゃないけど、間違いがあるといけませんから……」
「ええっ、プロフィールを……?」
有作は驚いて三宅から受け取った自身や浮音のプロフィールを読み始めたが、その内容は精緻極まるものであった。おおよそ、その内容というのは次のような具合になる。
鴨川浮音……二十才。大阪府出身。関西実業界の雄・鴨川正一氏の次男。大阪六桜学院中・高卒業。浪人生活ののちに京都国立大へ入学。現在は父・正一氏の旧友・佐原信三氏の令息・佐原有作と京都・今出川の町家で同居中。
付……ヘビースモーカーであるが、酒は付き合い程度、あまり強くはない。和装は母方の祖父母の趣味に影響を受けたもの。
佐原有作……十八才。新潟県出身。公務員・佐原信三氏の長男。市立西南中学、県立二高を経て京都国立大学へ現役合格。現在、鴨川正一氏の令息・鴨川浮音と同居中。
付……父・信三氏と鴨川正一氏は大学の同窓。学生時代に起業の支度を進めていた正一氏へ信三氏が援助をしたことへの恩返しがしたい、ということから、学資・生活費の面倒をすべて正一氏が受け持っている。
日頃ジャージスタイルで通しているのは、着るものを考えなくともよいからとのこと。
「こりゃすごい、よく調べたもんだねえ」
読み終えたプロフィールをテーブルの上に戻しながら、有作は浮音の方へ顔を向ける。
「ほんまやで、気にくわんぐらい細かく書いてあるわ……。まあ、どこから情報が出たかは、だいたい見当がつくけどな」
フィルターに歯を食いこませ、しきりに目をしばつかせて浮音も同意してみせたが、どうやら彼には情報の出所が分かっている様子だった。
「――張り込みでもして、僕や佐原くんの共通の知人に京国大タイムスの編集部員が居ることを掴んだ。そして、クドい迫り方で情報を得た……こんなとこやろ?」
「ご名答! もしかして、タレコまれてました?」
三宅が照れながら返すと、当然よぉ、と言いながら、浮音は吸いさしを灰皿に押し付ける。
「なんせ昨日、こっちがツブれるまで飲んでた相手が、君のネタ元なんやからなあ。――大学新聞・京国大タイムスの編集部員・沢村瑞月。この名前を知らんとは言わせへんで……」
「――やっぱり、鴨川さんの方がウワテだなあ」
浮音の余裕綽々、といった調子の笑顔を前に、三宅はいさぎよく両の手を挙げた。日頃ゴシップを求めて東西奔走している高校生新聞記者とはいえ、まだまだ浮音ほどの肝の座り具合を三宅は持ち合わせていない様子だった。
「まあ、それはそれとして、ですよ。捜査資料の分はきっちりお話ししてもらいますからね、お二人が手掛けたっていう『最初の』事件のこと……」
だが、コロリと表情を変えると、三宅はシャープペンシルの芯を研ぎ、その舳先を眼前に控えた鴨川浮音と佐原有作へ向け、鞄の中から出した真新しい大学ノートの背を開く。
「――ずっと気にかかってたんですよ。絶賛売り出し中の名探偵・鴨川浮音の初陣はどこでおこったなんて事件だったのか、って。図書館の縮刷版なんかを見てもそれらしい事件がなかったけど、ほんのちょっと前に、行きつけのお店でアルバイトしてる、三間坂ってお姉さんがちらっと、こんなことを漏らしたんですよね」
「――北大路である事件があったとき、犯人を捜すのに動いた和服姿のへんてこりんな男がいた、ってかい?」
ロングピースの箱を探り、中身がないことに気づいてしょげてみせながら浮音が返す。
「そこまでは言ってませんでしたけど、浮音さんは相当印象深かったみたいですよ――」
「へえ、なるほどなあ」
心当たりがあるのか、煙草の箱のフィルムをほどきながら、浮音は目を意味ありげに動かしている。
「――ま、そこまで掴んだんや、きちんと話しときましょ。佐原くん、異論は?」
茶菓子などを広げてた皿を下げようとした有作は手を止め、まかせとくよ、と言って、部屋を出て行ってしまった。
「ノー・プロブレムやと。ほいじゃ、話しますかな」
真新しいロングピースの煙を悠然と吐き出すと、鴨川浮音はうちくつろいだ様子で、おもむろに話を始めた。
「ちょうど、大学に入ったばかりの頃のことでなあ――」
二人の元を訪ねてきている女子高生・三宅薫については前作「七条大橋の魔女」をご参照ください。




