第74話 緊張が氷のように静かに溶ける
こんにちは魂夢です。お久しぶりです!まだ本調子じゃないですけど、とりあえず投稿します。
扶桑花と話をして、一週間。胸に残った蟠りを吐き出せたからか、ひどく勉強は捗ってくれた。おかげでそれなりに自信はある。
気味が悪いくらい静かな教室。席には全員が座っているにも関わらず、皆各々参考書を読むなり問題を解くなりしていて、珍しく誰も口を開いてはいなかった。
「はぁ……」
朝のやけに明るい日差しを受けながら参考書をめくりつつ、俺はため息をつく。自信があるとは言え、柳に勝てるかと聞かれれば……素直に首を縦に振ることはできないであろう。
この三週間、俺はずっと机に向かってきた。その努力が力になっていれば、なんて……。そんな俺らしくもない、散々バカにしてきた考えが頭の中で渦巻いている。
でも……扶桑花のことを思えば、それすらも吹き飛んで、胸の中にじんわりと温かい物を残した。
「よーしお前ら、教材直せー」
若干気怠そうないつもの声で、小原先生は言う。時刻はテスト開始まで五分と言うところだった。
参考書の内容を全て確認し終えて、俺は本を閉じる。同時にパタンという音が静かな教室にいくつか生まれた。
先生がテストを配布し始めて、俺は息を呑む。このテストに全てがかかっているのだと、改めて実感したのだ。今の今までのぼっち部での生活も、俺の過ちも、そして……努力も。
全てはこの時のためだったかのような、そんな気がする。
「初め」
鐘が鳴り、先生の声で俺たちは一斉にプリントを裏返す。息を整えるよりも先に、問題に目を通した。
いつもより筆圧高めに問題を解いていく。どれもこれも見たことやったことのある問題ばかりなはずなのに、負けてはならないという気持ちが不安を煽った。
何度も解き直して、何度も見直して。そんなことをやっていたらすぐに鐘が鳴ってしまう。そして次のテストまでまた教材を舐めるように見て、すぐテスト。そんな日を四日続けた。
「今日でテスト終わりだが、みんなお疲れ」
小原先生が言っているのを聞き流しながら、俺はどこか適当なところに視線をやったまま、早まろうとする心臓の鼓動を如実に感じている。
ダメだったかもしれないと、そう思えば思うほど、何も考えられなくなって、顎がカクカクと震えてしまいそうだった。
終礼も終わって、皆が各々どこかに消えていく中で、俺は立ち上がることができずにいる。
あの問題の途中式を間違えていたら? あの暗記を微妙に間違えて覚えていたら? そんなどこからともなく湧き出てくる不安に押し潰されて、泣き出してしまいそうですらあった。
「……松葉くん」
そっと耳元で囁くような声で、恋綺檄は俺の名前を呼ぶ。その声音は水のように、スルスルと耳に入り込んできた。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
できることはやった。最善を尽くした。努力を……した。それでも、不安を払拭できない俺が何とも情けない。歯を食いしばってその隙間から息を漏らすことで、俺は必死に悔しさを抑えた。
多少ざわついた教室に入り込む昼前の日はまだ強くて、俺の影は濃くなる。
「でも、松葉くんは頑張ったよ」
俺の前にしゃがみ込んで、目を合わせる恋綺檄。彼女の全てを見通しているようですらある碧眼は、太陽光を柔らかく屈折させ、光っているようにも見えた。
頑張った。確かに頑張ったよ。けれど、それは結果までの過程でしかない。頑張ったから、努力したから、だからお情けで合格にしてもらえるのは小学生低学年までなのだ。
「頑張ったって結果が出てないなら……意味ねぇだろ」
机に突っ伏して、何も見ないように、何も視界に入れないように努める。なんだか、あれだけ余裕そうに努力宣言をしておきながら今不安を抱えている俺が、あまりにも透き通った恋綺檄の瞳を覗き見るのは憚れた。
握った手に力を込める。まるで何かを失わないように。そして、今までの思い出や、日々を宝箱に入れて鍵をかけるように──。
すんと、洟をすする音が聞こえて、数秒後それが恋綺檄のものだと気付く。控えめにゆっくりと顔を上げると、恋綺檄は目尻に涙を溜めて、泣く寸前であった。
「ごめんね……。私が、やり過ぎたから……そんな考えになっちゃったんだよね……」
「……違ぇよ。事実、現代社会じゃ基本結果主義だろ」
言い終えて、口の中でモゴモゴと出かかった言葉を止めた。
もう帰ろうかと思って立ち上がったその時、俺の鼻を恋綺檄の匂いがくすぐる。そしてその直後、俺の胸に何が抱きついてくる。
「恋綺檄……?」
声をかけても彼女は反応してくれず、ただ深くゆったりとした呼吸をするだけだった。
緊張が、まるで氷のように静かに溶けていく。やがて無意識のうちに俺は彼女の背に手を回していた。けれど不思議と狼狽えることなく、落ち着いていられた。
「……ありがとう」
何か話そうと思って、そう言ったわけじゃなかった。ただただ自然に、胸の中にあったものが抜け出ただけだ。
……いつもなら、きっと困るであろう恋綺檄の行動は、なんでか俺に、もう少しだけこうして……、彼女を感じていたいと思わせた。