003 取り敢えず戻ろう、いや急いで戻ろう
本気を出して何かに挑んだ経験は、自分の場合はあまりない。せいぜい3才の頃に、ドイツ語とフランス語を勉強しようとして辞書を睨んだ時くらい。何故勉強しようと思ったのか、今でも分からない。ただ、これは言える。
あの後お婆ちゃんに褒めちぎられた。今は食べられない、美味しい찰떡を沢山作ってくれた。
んでもって、辞書は1年かけて読み切った。苦行でしかなかったけど、あのお蔭で、英語イタリア語スペイン語ラテン語ロシア語はすぐ覚えられた。10言語覚えても、使う場所なんてないけど。
無駄な回想は止めて今度こそ寝よう、そうしよう。
って、駄目!! 馨のこと放り出しているじゃん!! すぐにでも起きなきゃ!
……目が覚めた。見慣れない天井が視界に入る。そう言う自分はベッドの上で寝そべっている。
どうやら保健室のようだ。なお、養護の先生はお出かけになられている模様。
カーテンから漏れる光から判断するに、今は11時半くらい。魔窟入りしたのが9時頃だから、だいぶ寝落ちしている。
馨は何しているんだろねー。気になるねー。途中で放り投げた体になっているけど、もしかして帰ってしまったかしらん。
そろそろスクールバスの第1便が出る時間だし、帰ってもおかしくはないよな。申し訳ない。
しかし、そうだとしたら、鞄はどうなっているんだ。見る限りベッドの横にもないし、取りに行けと。
後輩を放置した罰としてそうしろと、なるほど。よし、取りに行くか。
10分経った。まだ動けない。徹夜続きの所為で、体にガタが来たらしい。首から上しかまともに動かない。困った。
まだ養護の東江先生は帰ってこない。いた所で、声が嗄れてカーテン越しで相手に届かないけどさ。
隣に生徒がいる様子もないから、万事休した。真面目に困った。
やることも特にはない。ぷよぷよでも積もうか。
ところで思ったけど、「アルマゲドン」とか「シルベスタギムネマ茶」とか言っても通じないような。うーん。
まだパン4円の方が有名か。会計52円です!
さて、ぷよネタなんて通じないほうが普通なので、この話はここで止めておいて。
これからどうしようかな。本当に何しよう。
軽く悩んでいると、保健室のドアが開く音がした。
「はあ、疲れる。私、何やらかしたと言うの。ちゃんと人命救助に貢献したじゃない。カフェインは別に違法でも何でもないってばのに、あーあ、あの理事ぶっ飛ばしてやりたいわ、全く」
聞いても得しない悪態を吐きつつ、先生が入ってきた。
うーん、実際に一発ぶちかましたらいいと思うんだけど、どうでしょう。
ともあれ助かった、これで鞄を取れる。
声が出ないから、頭を枕に打ち付けて音を出す。
「あら? 起きたの?」
起きていますよー、だから助けて下しあ。
「ごめんなさいね、理事に捕まってて持ち場を離れてしまったわ。責めるなら、理事にしてちょ」
先生はそう言いながらカーテンを開けて入ってきた。
あーうー、うん。何でもいいから助けてちょ。
「――光莉ちゃん? それとも光莉さん? まあいいけど、あなた相当無茶をしていたようね。馨ちゃんから聞いたわ。しかも声まで嗄らしちゃってるし」
痛い。ペン先で手の甲を攻撃するのは、止めて欲しい。
そして、できればちゃん付けじゃない方でお願いします。知っていて弄ってくるのは、流石に嫌です。
「感覚はあるから、単に筋肉痛かしらね? 普段動かないからよ」
動かないということはないけど、筋肉痛するほどの無茶はまだやっていない。多分そうじゃない。
「さて? 携帯持ってる? 学校の決定で、生徒は全員帰さないといけなくなったの」
残念なことに親が迎えに来るとは思えない。この時間だとどこかに出かけている。畑でも見に行っているかも知れない。そんでもって自力で帰れなければ、またとやかくうるさい。
しかし、そうか。あれ程の事件があったら安全確保で、そりゃ生徒を家に帰すわな。号外で報道されているだろうから、お姉ちゃん、これ知って発狂していそう。
はぁ、益々帰りたくない。宥めるの本当に疲れるし。とはいえ。
「タクシー呼んでください」
安全が一番優先される課題だ。
辛うじて掠れた声でそれだけ出すと、先生は驚いた顔をしながら頷いた。
……変な親なのです。
「ところで鞄はどこかしら?」
恐らく図書館奥の魔窟かと。
「図書館から馨ちゃんが運んできたということは、図書館にあるかな?」
よく分かりましたね、先生。
ってか、馨がわざわざ運んだの? 自分を? ……これは後で礼を言わねば。
「じゃ、もう少しくそこで待っててね」
まあ、動けないしそうするかね。
タクシーに乗って家に帰ると、病院で手当てを受けてきたお姉ちゃんが迎えてくれた。包帯が痛々しい。
「……4徹なんかするからよ」
とか言いつつもちゃんとタクシーの中から部屋まで引っ張ってくれた。うん、本当にごめんなさい。
「あんた、今日は寝ときなさい。動けないし」
はい、大人しく寝ます。
起きた。お腹空いた。部屋は静まり返っている。
うーん、体内時計だと22時っぽいけど、さてどうしようか。右を見るとお姉ちゃんがすぴすぴ寝ている。左には誰もいない。千鶴がこの時間まで寝ていないのはあり得んだろうし、親の部屋でも行ったか。
寝たら体が動くようになったから、やはり徹夜が原因だったようだ。
お姉ちゃんを起こさないように部屋から出る。1階に降りると電気が点いていた。誰がこんな時間にここにいるんじゃ。
とか何とか思っていたら、ただの一樹だった。
納得。
大方、家事でもやらされているんだろう。手入れ不届きの罰として。
見ると、シンクの掃除をしている模様。てか、遅過ぎ。あれくらい、ひょいってやって、さくってやって、くるんってやればいいのに。
意外と不器用? 見本を見せた方がいいんかね。
キッチンに入る。
「あ、」
一樹に構わず激落ちくんを奪う。棚からリンゴ酢も取り出す。
「こんな感じでぽんぽんぽんってやると速い」
言いながら酢をばら撒き、激落ちくんで水垢、基、石灰を落としていく。
何? 酢だけでも落ちるって? 君、撹拌って知っている? 混ぜ混ぜした方が、化学反応はより速く進みやすいんだよ?
つまり人類の経験知。無駄にはすまい、成功への道のり。
……何を言っているんだか。
まあでもこの方が速いのだ。これは経験則から正しい。
「……いや、知っているけど、摩擦力の限界を知りたかった」
……。スマソ。
「そりゃ悪いことした、すまんの」
今やるべきことなのか、小1時間くらい問い詰めたかったけど、しかし、よく考えてみよう。逆に今以外このようなチャンスは来るのかどうか。
有り得んな。お姉ちゃんが全部勝手に、家事を済ませてしまうのだ。
暇潰しと言えばそうだけど、そんな暇を潰せる機会は……うん。
「……流すか」
「ごめんね、一樹」
結局ご飯は食べないで、そのまま寝ることにした。
찰떡(ツァルトク)とは、餡子をたねにした焼き餅のこと
甘さがとても美味しいので、是非作ってみて下しあ