34話 他人の死
自分事のように心臓が高鳴っていた。
午前八時三十分、岬ちゃんの手術日。
手術直前ということもあり、先程までいた見舞い客は僕を除いて去っていった。皇さんはモデルの仕事へ行き、子供達も看護師さんに連れられて小児科病棟へ。何人もの見舞い客が訪れたものの、両親の姿はなかった。想像していたよりもずっと仲が悪いらしい。
沈んだ気持ちを悟られないよう、笑顔で話しかける。
「退院したらなにがしたい? とりあえずお見舞いに来なかった人達をボコしに行く?」
協力するよ!
冗談を言ってみると彼女は笑いながら否定をした。そしてベッドから僅かに体を起こして口を開く。
「まずは服を買いに行きたいかな」
「なるほど、今はネット通販で買ってる感じ?」
岬ちゃんは小さく頷く。
今日の彼女はクリーム色の手術着を着ていた。普段は病院の中でも私服を着ていたから違和感を感じる。いや……ほっそりとした彼女がそういう服を着ると似合いすぎていた。嫌な考えだ。
「もう何年も通販でしか買ってないの。だからお店に行って、試着して、その上で買ってみたいなって」
通販だと変なのを買っちゃうこともあるから。
岬ちゃんは傍にある衣装棚から一着の服を取り出す。青い、真っ青で、ひたすらに青い服が出てきた。デザインという言葉を忘れてしまったかのような服だ。彼女が言うには光に透かすと模様が見えるらしい。背伸びをして天井の照明にかざすと――かなり近づけると僅かに見えたが……。
「こりゃ普通に着てたら見えないね」
「写真で見るともう少し薄い青色で和柄がしっかり描かれてるんだよ」
「み、見えない」
再度照明に近づけてみるものさっぱりだった。
先程までの考えを振り払うかのように笑う。病室に笑い声が木霊する。先日までは相部屋だったけれど、ちょっと前に退院したため実質一人部屋だった。だから遠慮せずに笑った。
「もう結構ショックだったんだよ」
茶色の瞳を細めながら抗議してくる。
「ごめんごめん。そうださっき皇さんとの会話で――聞いてたと思うんだけど、岬ちゃんの手術が成功して退院できたらお祝いに好物の焼肉を一緒に食べに行こうって話してて……どこか行きたいお店とかある?」
「あ、うん! 実はもう調べてて」
スマートフォンの画面を見せてくる。
響谷市にもある激安焼肉チェーン店だ。焼肉店とは名ばかりのなんでもある系の食べ放題店で、肉はカチコチに冷凍されていて固いし、おまけに寿司も固い。あのお店で一番美味しいのは綿あめだと確信している。ただ安いし、色々とふざけられるから思い出しては行ってしまう。でもお祝いで行く場所かと問われれば……うーん。
「もう少し高いお店でもいいよ? 岬ちゃんの分は皇さんと折半するし」
「ううん、ここがいいの」
岬ちゃんは物思いに耽るようにして瞳を閉じる。
その表情が楽しげだったから「なら、そうしようか」と答えた。彼女は微笑みながら頷いたあと、窓際へと視線を移した。
「……私ね、もう一つやりたいことがあるの」
ぼんやりとした空から雨が降り続けている。
早朝から降り始めたらしい。ここへ来るときには既に降っていた。夏らしくない冷たい雨。少しずつ勢いが増しているように見えた。
「昔、病院で黒い猫を看病していたんだけれど、蓮くんに話したことってあったかな?」
「黒い猫……あーっと、喧嘩した時に少しだけ」
気まずくなり頬を掻くと岬ちゃんも乾いた笑みを浮かべる。
「あの時はごめんね」
「こっちが悪いんだし、自分こそごめん。それでやりたいことって?」
話を促すと彼女は小さく頷いたあとに口を開く。
「その猫を探しに行きたいんだ。二年前――高校一年生へ成り立ての頃に病院で足を怪我している子猫を見つけたの。少し変わってて体は真っ黒なんだけど尻尾の先端だけ白くて、名前はブラシって……勝手に私がつけたんだけどね、毛がブラシみたいに尖ってたから」
岬ちゃんは可笑しそうに、でも寂しそうに話を続ける。
「病院には内緒で駐車場近くの目立たない所で看病……っていうと大げさだね。毎日餌をあげてたりしてたんだ。首輪とかもなかったから野良猫だったんだと思う。それから二ヶ月くらい、ちょうど今くらいの雨がよく降る時期にいきなり姿を見せなくなったの。怪我も治ってきて、最初みたいにふしゃーって警戒することもなくなって仲良くなれたかな、なんて思ってたら突然いなくなっちゃって」
「雨に濡れるから別の場所に移ったとか?」
「私もそう思ったんだけど、元から屋根のある場所だったんだよね。ただちょっと寒くて寂しい場所だったから……」
彼女の瞳の先には駐車場があった。もしかしたらここから見える場所に猫はいたのかもしれない。
「だから、うん、知りたいんだ。元気にしているか」
儚げな彼女を励ませるように、でも嘘はつかないように言葉を選ぶ。
「見つけられるよ、きっとね」
「……うん、ありがとう」
話が終わると同時に扉を叩く音がした。
岬ちゃんが存在を知らせるように声を出すと看護師たちがストレッチャーを動かしながら入ってきた。もう手術の時間らしい。
「蓮くん、お見舞いありがとね。またよければ来て――」
「お気遣いありがとう。でも最後まで付き添うよ」
これ以上に大切なことはないし、手術を進めたのは自分だから。
岬ちゃんは言葉を聞いて、僕の手に白くほっそりとした手を重ねる。そして「気にしなくていいんだよ」と言い、少し間を置いたあとにお礼を口にした。彼女から手術の時間は六時間程度だと聞いた。長いけれど、秋ちゃんとの用事には余裕を持って間に合うだろう。あの火事のような出来事ことが起こらない限り。僕達のやり取りを見てか、看護師さんの一人がやるぅと言わんばかりに肩を小突いてくる。
「あはは……」
苦笑いをしているうちに、看護師たちは岬ちゃんの手首に取り付けられているタグのチェック等をテンポよくこなしていく。そして日常会話をしつつ彼女をストレッチャーへと乗せ、開かれた扉の先へ向けて動き出す。
……
心の中でホッと息が漏れたことに気付く。
岬ちゃんに『好き』を求められなかったからだと思う。
覚悟は決めてきた。それでも嘘をつく回数は少ない方がいい。きっとそうだ。
ドラマとは違う。
岬ちゃんを乗せたストレッチャーはゆっくりと安全な速度で運ばれていく。途中でエレベーターに乗り込む。黒い空が見える。降りたあと、再び先程と同じ速度で進み始めた。
隣を歩きながら岬ちゃんに声をかける。
「こういう時に何を話せばいいかわからないもんだね」
自分の心情をそのまま話してみた。
彼女が緊張しているのなら適当な話題をポンポンと出すつもりだったけれど、表情を見る限りとても落ち着いているように見える。……瞳も変わらない。老人のように穏やかな瞳だった。
「無理に話さなくても大丈夫。そばにいてくれるだけで、すごく嬉しいもの」
岬ちゃんが優しく笑う。
対照的に悲しい考えが頭を過ぎった。これだけ落ち着いている理由は何度も手術を受けているからこそなのかもしれない。そう思うとやり切れなくなって言葉に希望を込める。
「今回は、きっと、大丈夫だから」
僕はできるだけ明るい笑顔を浮かべながら口にした。
でも表裏が入れ替わるかのように彼女は寂しげに微笑む。通り過ぎた病室からテレビの音が漏れ聞こえる『本日は雷を伴う大雨が予想されており――』窓を見ると黒々とした雲が群れをなしていた。通路に規則正しく設けられた四角形の窓が視線から外れては、戻ってくる。僕たちが動いているからだ。パラパラ漫画のように窓の景色はうつろう。雲はより黒くなり、雨粒はより地面に落ちていく。今にも雷の音が聞こえてきそうだ――
「手を握ってもらってもいい?」
「……もちろん」
夢中になりかけていたそれをやめて、岬ちゃんの手を握る。
柔らかくも小さな手だった。手のぬくもりから、最初に出会ったときの事が思い出される。見も知らぬ自分に優してくれた。苦しんできたのに誰のせいもせず優しさを持ち続けた彼女が報われて欲しいと心から思う。
「ありがとう……」
彼女は視線を往復させる。
握り合った手と顔を見ては思案するような表情を浮かべる。それは寂しげな表情にも見えたし、嬉しそうな表情にも見えた。次第に決心したかのような表情に切り替わっていく。僕の心臓から軋むような鼓動が聞こえた。
手術室に到着する。
前後にいた看護師たちが離れる。前にいた二人は手術室の扉を開けるため、後ろにいた一人は医者から声をかけられて。
一瞬の間――
「蓮くん、好きです。愛しています」
――答えは決まっている。
「…………っ……ぁ」
言葉が前に出てこない。
岬ちゃんの苦しそうで泣きそうな表情、看護師たちが戻ってきたこと、自分の笑顔が引き攣り歪んでいってしまっていることが、いらない情報ばかりが頭に入ってくる。
手は離れ、岬ちゃんが手術室へと運ばれていく。
ダメだ! このままじゃダメだ!!
岬ちゃんのそばへと駆け寄る。看護師たちに止められるが、それを振り払って岬ちゃんの手を握る。言え! 言え! 言え! 手術室の重苦しい雰囲気も、周りの声も関係ない。 言え! それが彼女を助けるたった一つの方法だ! 生きるために、嘘をつけ!!
「………………っ!」
思い浮かぶのは、彼女の顔だった。
全てが終わった。膝から力が抜けて地面へと座り込んでしまう。あぁ、好きという言葉一つすら吐けないほどに僕は彩乃ちゃんが好きだったのか。
顔を上げると視線が合った。
先程までの決心を固め強ばっていた表情は消え、穏やかな表情を浮かべている。
「えへへ。本当に、好きになっちゃった」
手術台へと運ばれていく――
赤い光が点灯し、手術中の文字が浮き上がる。
結局、僕は岬ちゃんになにもしてあげられなかった。せめて手術が終わるまで近くにいよう。そばにあったソファーに座り込む。疲れが波のように押し寄せてくる。もう立ち上がれないような気がした。
手術が始まってから十分後、岬ちゃんの両親が現れた。
母親の方が軽く会釈をしてくる。一度だけ顔を合わせたことがあったが覚えていたらしい。……どうして手術が始まってから来るんだよ。そう思いながらも頭を下げる。
無限のように感じる時間だった。
一回だけトイレに行き、それ以外はただ待ち続ける。口の中は乾いていた。向かい側にいる両親も似たようなものだろう。この場には僕たちしかいない。重い空気のまま、会話を交わすこともなく、雨の音だけが響き続けた。
そこに、白い閃光が走る。
部屋を白く染め上げたあと轟音が鳴り響く。雷が落ちたのだ。
赤い光が消える。灯台の光が消えるように。
月光が差す夜だった。
忌々しい存在であるピアノの前で頭を垂れるようにして座り込む。もうあの日から一週間が経った。岬ちゃんが亡くなった時に、まるで自分自身も死んでしまったかのように気力が沸いてこない。
手術自体は成功したと医者は言う。
現に予定していた時間通りに手術は終わった。だけど、最後の最後で息切れをするかのように亡くなったそうだ。彼女の父親は烈火の如く怒り、医者や病院を罵倒した。僕はそこに割って入り、あなたにそんなことを言う権利があるのか、子供の手術日だというのに遅れて来てる奴の言うことかと恐らく冷静に言った。
今度は矛先が僕に向かい――何処かで岬ちゃんが手術を受けるきっかけになった奴だと知ったらしい――自分達も娘も受け入れていたとか他人が勝手に首を突っ込んだせいでと文句を言う。図星だった。僕が首を突っ込むことさえしなければ、彼女はまだ生きていた。罪悪感に押しつぶされそうにながら、同時に怒りも生まれていた。岬ちゃんの本当に求めていたものに少しだけ気付けた気がしたから。応えられなかった自分の不甲斐なさと本来応えてあげなくちゃいけなかった存在が許せなくて――最終的には殴り合いになり、医者がそれを止め『亡くなった人間の前で恥ずかしくないのか』と口にし、そこで一度は終わりを迎えた。
雨が降る中を呆然としながら歩いて自宅へと戻る。
その途中で少しだけ落ち着いて、せめて通夜や葬式に出たいと思い、病院で今後の手続きをしているであろう彼女の両親の元へ向かう。先程まで殴り合ってたような間柄だ。身内のみで行うと言われ門前払いをされてしまった。……それでも会いたい、さよらなを言いたい? 自分でも表現できないような感情に突き動かされて、家へと一度帰ろうとしている両親の後を追い、家を見つけ出す。先川という珍しい苗字だったから見つけ出すのは難しくなかった。何度もお願いをしたが断られる。それでも諦めきれなくて、大雨が降る中をびしょ濡れになりながら地蔵のように立ち続けた。振り返ってみればあの時の自分は無意味な努力をして苦しんで、その苦しみこそ許しに繋がるんだと体でそう感じてたのだろう。
最終的には警察官に補導された。
両親はもうこの世を去っているため親権者のおじいちゃんに連絡が届き、遠方で迎えに行くのが深夜になってしまうという理由で、誠彦さんに迷惑を掛けることになってしまった。少し考えればわかることを僕は考えようとしなくなっている。車で揺られ、餅月家のシャワーを借りて夕食を取ったあとに、誠彦さんとこずえさんに暫く家で住むようにと言われた。上辺だけ返事をして、その日の晩だけお世話になって、早朝には家へと帰った。自分自身がおかしくなってしまっているのはわかっていた。自身を制御できてないし、先のことを考えようともしない。どんな迷惑をかけるかもわからない、だから近くにいることはせめて避けたかった。
おかしくなってはいたけれど、昨日までは学校へ通っていたのだ。
何をしたとかそういったことは殆ど覚えていない。だけど岬ちゃんが死ぬ前と同じように振る舞えていたのだろう。スマートフォンに残っているチャットの会話内容は日常会話のみだ。事情を知っているであろう皇さんも視線を度々向けてきたけれど、深く聞いてくることはなかった。心配をかけたくなかった、皆に彩乃ちゃんに……。それも限界を迎えて今日は学校を休み、一日中ピアノの前で座り込んでいた。最低限の連絡はしてある。学校や幼馴染たちを含めた友達、そして彩乃ちゃんに、季節はずれのインフルエンザを患ったと説明した。家へ来るなとも言ってある。約束を破ってしまった秋ちゃんにも連絡は入れてある。電話は受け取ってもらえず、メールをしたところ『事情は伺っています。お気になさらず』と返ってきた。
「あ、そうだブリューに餌をやらないと……」
いや、心に預けていたんだ。
ここ数日でうさぎのブリューを彼女に預けていたこと思い出す。その時に誠彦さん達に適当なことを話した。安心してもらうための方便をついたのだろう。いくらかは安心しているように見えたけれど、じきになにかしてくるかもしれないが、別にどうでもいい。
誰もいない、何もない場所で、一つだけ存在感を示しているものがあった。
月光を受けた黒く艶めくピアノ。
神秘的な美しさすら感じる。
だけど忌々しいものだった。こいつさえなければ僕は『ピアノを再びやる』なんて一言を発することはなく、運転中の父親が手元を狂わせるなんてことはなかった。あの事故さえなければ両親は死ななかったし、あの日にショッピングモールへ行くことなく、岬ちゃんと出会うこともなく死なずに済んだ。
本当に死んでしまった……?
岬ちゃんの死には現実感がない。まだどこかで生きているようにさえ思える。それでもどうしようもない、やるせない怒りが胸の中に満ち溢れる。一週間溜め込んできてしまった感情が抑えきれない。
「くそっ」
ダンボールを手で払い除ける。
中から白い楽譜や音楽関係の物が散らばる。それを見て更に気持ちがイライラする。立ち上がって他のダンボールを蹴り付け、そして楽譜を踏みつける。赤いカーペットの上に白い楽譜がめり込んでいく。
「くそくそっ……クソッ!」
何度も何度も踏みつけたあとに、空になったダンボール箱をピアノに向かって投げつけた。
「僕が悪いのか!? 岬ちゃんに手術を勧めておきながら、好きの一つも言えない自分が悪いのか!? ……そうだ、僕が悪い。でもあの親だってそうだ!! 手術を受けることを許可しておきながら手術前に顔すら見せてやらない奴がまともなはずがない。あいつらが岬ちゃんに――好きだよ、愛しているよって言って抱きしめてあげればきっと彼女は最後まで……」
誰のせいにもできないことだってわかってる。
だけど胸に込み上げてくる熱があった。ピアノ椅子を両手で手に取り、それを叩きつけようとしている物を見た。怖くて辛くて目を逸らし続けていたもの。今はそれ以上に憎かった。父親も僕も愛用していたそれに向かって――
――振り下ろす
何度も何度も振り下ろした。
屋根も鍵盤も壊れていき、美しかったそれは見るも無残な状態へと化す。酷く疲れた。楽譜の上へと全身を預ける。もう怒る気力すらない。代わりに虚しさと苦しさで胸が詰まりそうになってその痛みを吐き出すかのように涙が出てくる。岬ちゃん……。罪悪感ともう会えない事への苦しさで頭がおかしくなりそうだった。なのにもう体を動かすことはできない。ただただ地べたで苦しみ続けるしかない。僕が死んだ時も誰かがこんな苦しみを味わうのか……?
彩乃ちゃんだけには、させたくない。
見知らぬ誰かとして死にたい。
眠かった。
今まで考えていた事の全てがどうでもよくなるくらいに眠い。目がかすむ。壊れたピアノの上には欠けた朧月が漂っていた。
打ち切り完結とさせて頂きます。
今までお読み頂きありがとうございました。




