33話 彼は好きだと言えず
「好きだよ」
本能的に呟く。
嘘ではない。だけど、とても汚れている言葉だった。
岬ちゃんは水滴を振り払うようにして「違うの」と呟く。
「友達としての好きじゃないの」
わかっていた。
彼女が求めている好きは……恋人に向けるような好きだって。だけどそんな言葉は言えるはずがない。だから僕は珍しく先手を打っていた。無意識に。でも浅はかな言葉は彼女の真剣な言葉を前にして怯んでしまう。
暗い夜空に、冷たい雨。
先程よりも雨が勢いを増してはいたものの観覧車は回り続けジェットコースターもまだ動き続けていた。だというのに周囲に人影はなくて、ひたすらに冷たくて寒い。園内に設けられた大きな屋外照明が自分たちだけを照らす。
「僕には彼女がいるからそんなこと言えるわけが……」
「それでも欲しい。好きが、欲しいよ。付き合ってなんて言わないからおねがい」
照明の光を浴びた雨がシャンパンシャワーのように輝き降り注ぐ。
祝福するかのようなそれが今の自分には重い。光の雨に濡れるたび、体も心も重くなっていく。呪いのようにさえ思えた。頭に一つの考えが過ぎる。嘘をついてしまえばいい。好きだと言って岬ちゃんを抱きしめてしまえばいい。誰にもバレやしないし、岬ちゃんだってそれ以上を望むことはないだろう。それで手術を受けて未来が切り開けるのならそれは良いことだ。
……少し前なら、こんなこと考えることさえなかった。
いつからだろう。春休み前の自分と今の自分とでは違う自分になってしまったように思える。気のせいかも知れない、人から見たら微々たる変化なのかもしれない。でも僕は確かに変わってしまったように感じる。ただほんの少しだけ、以前の自分が言うな、抱きしめるなと抵抗していた。
冷たい風が吹く。
ジェットコースターの速さに煽られて吹いた風のように思えた。岬ちゃんが一瞬だけ星の見えない夜空を見上げたあと、らしくない笑みを向ける。
「冗談だよっ」
こんな状況では見たくなかった心が暖かくなるような笑顔。
「あ、でも手術は受けるから! それとまたワガママ言っていい?」
ジェットコースターに乗りたいと口にした。
乗り場に向けて楽しそうに歩き出し、笑顔のまま僕の横を通り過ぎていく。胸が痛かった。様々な気持ちを隠そうとする彼女の背中を追う。
途中、雨に濡れたシャツを着替えてはみたものの、体に染み付いた重さが抜けることはなかった。
梅雨特有の暑くて移ろいやすい天気。
あの日と違ってジメジメとしている雨が降っていた。それの影響もあって体育の授業場所は校庭から体育館へと変更された。ボールが宙を舞う。今日の体育は男女別々のバレーボールだった。
自分の試合が終わり、息を乱しながら壁際へと歩く。
持ってきておいたペットボトルを手に取り半分ほどの水を飲んだあと、タオルを首に巻きつけ、壁に背を預けて腰を落ち着ける。今日は僕にしては上手く動けたほうだと思う。基本トスをしつつ、一回だけスパイクも決められた。偶然だけど。運動神経が良くない自分にとって体育は苦手意識がある。今日の競技がサッカーであろうとバレーボールであろうとどちらでもよかった。でも強いて言えばサッカーがよかった。いくらか慣れているし、晴れたグラウンドの下で体を動かせば少しはこの気だるさもマシになる気がする。
嘘を嫌うはずの岬ちゃんが、僕に嘘を求めてくる。
試されているのだろうか? いや、本気だった。だからこそ気だるい。
重いため息を吐いている内に女子の試合が終わる。
その中で一際目立つ長身の子が僕に近づいてくる。普段なら逃げるなり他の男友達と話を始めて誤魔化したりするけれど動く気になれない。体育の影響もあってか一本にまとめられたオレンジ色の髪を揺らしながらずんずんと歩き、僕を見下ろす。
「へばってるわね、もやしっ子」
綺麗な足だった。
程よく筋肉もついており健康的な感じ。短いソックスとショートパンツなせいで普段よりも肌がさらけ出されていてちょっとえっち。足だけじゃなくて体もザ・モデル体型といった感じで隙がない、というかモデルか。うん、本当に綺麗だと思う。だからそっとしておいてください。頑張って目を逸らし、もやしっ子? 誰それ的な態度を取る。
「無視すんな」
体育座りしていた足を軽く蹴ってきた。
おうふ。
でも負けない。視線は合わせません。
自分の態度を見て一瞬ムッとしたあと、悪戯っ子の笑みを浮かべた。
「私の体操服姿に見惚れちゃった?」
「言ってて恥ずかしくない?」
「生意気」
もう一回足を蹴ってきたあと、隣に遠慮なく座ってくる。
「座席指定料五千円になります」
「ありがとう。貰っとくわ」
僕が払うのか……やるな。
感心していると皇さんが呆れたように言う。
「最近毒を吐くようになったわよね」
「そうかな……うーん……確かにそうかも」
仲が良くなった証拠かもしれない。
僕は人に心を許せば許すほど言葉に遠慮がない、毒を混じえる傾向にある。認めるのはなんだか悔しいけれど皇さんに気を許しているのだろう。ただこんなこと口にしたら絶対にからかわれるから黙っておこう。うん。
「あっつーぃ」
手で仰ぎながらペットボトルを手に取る。
ペットボトルには意識高そうなパッケージが貼られていた。デトックスとか酸素とかそんな感じのやつ。僕があれを手にすることはないだろう。コートを見るとちょっと前まで先頭に立って弾を弾き返す機械と化していた巨人・野山が相手チームのブーイングを受け後ろに下がらされていた。可哀想に。でもたぶん後ろに居ても厄介だと思う。
「ねぇ、岬が手術を受けるって聞いたんだけど」
「明日受けるみたいだよ」
水を飲み終えた彼女が問いかけてきた。
動揺を隠すため他人事のように答える。
「そう」
青い瞳が向けられる。
足が長い分、座高が低いのだろう。あまり身長差がないはずなのに僕を見上げる形になっていた。
「あんたが焚きつけたんでしょ」
ペットボトルを手に取り、水に口をつけた。
「あの子、手術とか注射とかそういうの全般苦手とか言ってたのに急に受けるなんておかしいもの」
皇さんは視線を外しコートに目を向ける。
並行して行われていた別の女子の試合も終わりが見えてきた。
「できる限りのことはしてやりなさいよ」
「……もちろん」
重苦しく返答する。答えはもう決まりつつある。
「まぁ、でも、何かあるなら相談してもいいから」
照れくさそうに頬をかく仕草が新鮮だった。
「もっと色々聞いてくるかと思ったよ」
「それはその、あれよ」
「ダリアも反省してるってこと」
「楓!?」
楓さんが会話に滑り込んでくる。
洒落た青いタオルで汗を拭いながら皇さんの右隣へと座った。
「反省……なるほどね」
「なにあんたも納得してるのよ!」
僕の頭を惚れ惚れするような動作で叩く。
「ちょっと楓さん、お宅の子まったく反省していないみたいですよ」
「愛情表現、愛情表現」
ため息を吐く皇さんの前で、僕達は拳をコツンと合わせる。
「あんたら無駄に呼吸が合ってて面倒臭いったらありゃしないわ」
僕も楓さんも弱い。
皇さんと一対一で話しているときはボコボコ(誇大表現)にされている。いくらか反撃するようにはしているものの、それでも基本は皇さんペースで話が進む。だからこそ、楓さんが来た時は一緒に彼女を陥れるようにしていた。……なんてことはないのだけど、自然とそうなることが多い。なるほど確かに呼吸が合っているのかもしれない。ちなみに楓さんと二人っきりになると少し気まずかったりする。人って難しいね。
「ところでダリアたち何の話してたの?」
「あーこいつが入院してた時にできた共通の友達がいんの。その子が手術するから……それが成功したら焼肉パーティーでもしないかって話してたわけ」
「へぇいいね」
男子の試合も終わったらしく、野山と目が合った。手招きをする。こっちに来ようか迷っている様子だったけれど諦めてチームの中に紛れ込んだ。女子苦手だし、仕方ないか。というか隠れきれてない。スポーツ刈りにした頭がぴょこんと飛び出ている。木を隠すなら森なんて言うけれど彼にはやっぱり通用しない。
「その友達って女の子?」
「ええ。レンと同じくらい可愛い子よ」
「なら私もその焼肉パーティーに参加したいな。レンくんとも女子会してみたかったし」
「ちょいちょいちょい」
体育を終え、更衣室に戻ってきた。
自身のロッカーの前に立ってナンバープレートの下部に設けられた認証装置に人差し指を当ててロックを解除する。汗で湿っている体操着を脱ごうとしたところでスマートフォンにメールが届いていることに気づいた。
午前中なのに珍しい。
ゲームの宣伝かなと思いつつ気になってしまったので、画面を開く。送り主は秋ちゃんだった。思わず唾を飲み込む。皇さん達とのやり取りで少しだけ軽くなった心が再び重くなる。件名には『婚約に関して』と書かれており、本文は『明日の十九時、ショッピングモール跡地で大事な話があります ※遅刻厳禁!』と記されていた。奇しくも岬ちゃんの手術日と同日だ。急な話だけれど頃合いだとは思う。
もう、答えは決まりかけていた。
イエスか、ノーか――彩乃ちゃんと別れるか、死ぬか。シンプルな話だった。イエスと答えて秋ちゃんと婚約を結べば生きる可能性が生まれ、その代わりに彩乃ちゃんと別れる必要があるだろう。ノーと答えれば僕は二ヶ月後には死に、その代わりに彩乃ちゃんを裏切らずに済む。汗の臭いがショッピングモールでの火災を思い出し、その苦しみから逃れるように飲んだ水の冷たさが遊園地での出来事を思い起こさせ、ある事に気づいた。秋ちゃんと岬ちゃんとの一件は別物なはずなのに、ある一つの共通点で繋がっている。それは僕の返答次第で彼女である彩乃ちゃんを傷つけることになるという点だった。
……
陰鬱な気持ちになっていると、隣から声をかけられた。
「今日はシューしないのか」
野山は野太く無骨な声で可愛らしいことを言う。
手には制汗剤を持っていた。
「じゃあ、やりますか」
スマホをロッカーに置く。
そして彼と同じ青いパッケージの制汗剤を手に持って掛け合いっこをする。淡々と黙々と。ベタつく汗の感触は消えて行き、爽やかな香りに包まれていく。普段は身長百九十cmの男とキャッキャ言いながらやっているが今日はそんな気分になれず、静かにそれを終えた。
「……」
傍から見たらどう思われているんだろう。
普段はキモく、今日はヤバいと言ったところだろうか。といっても体育を終えたあとのロッカールームはみんな騒々しくてテンションが高いから気にも留めてないか。だいたいの人が似た者同士だ。
制服のズボンを履き、シャツを羽織ったところで尋ねた。
「もし僕がこれから人に酷いことをするって言ったら、野山は止める?」
意味のない相談かもしれない。
でも幼馴染の意見は気になったし、なにより自分を気遣ってくれたであろう野山に感謝を伝えないのは申し訳なく感じた。彼はスポーツ刈りにしてある頭の汗を拭いたあとに口を開く。
「止めないだろうな。そういうのは……苦手だ」
瞳を合わせながら申し訳なさそうに言った、
なんとなく予想していた言葉に思わず笑ってしまうと慌てて言葉を続ける。
「酷いことをするのはお前だろう?」
「えっ、ああ」
「なら止めない」
シャツのボタンを締めながら言葉の意味を思案していると、いくらかの間を置いたあとに彼がチラリとこちらを見て声を出す。
「水原が人を殺したりはしないからな」
「……信頼してくれてるってことね」
いくら酷いことをすると言っても限度が見えている。
きっと野山はそう言いたいのだろう。わかりづらいけど、彼からの信頼がほのかに伝わってきた。確かに限度はあるし、それをするだけの理由はある。でもそれでも酷いことには違いない。もしかしたら、
「例え水原が誰かに酷いことをしてしまっても友達であることは変わらん」
僕の考えを遮るかのような言葉だった。
不器用だけど誰よりも優しい野山の言葉が嬉しくもあり、辛くもあった。自分の出した答えが本当に正しいのかと心の中で問いかけるていると、恥ずかしがるように俯きながら着替えていた彼が僕を見てサムズアップをする。
「たった一人のアニ友だからな」
「こりゃ台無しだ」
笑っているとまたしても連絡が届く。
……彩乃ちゃんからだった。『今日一緒に帰りませんか?』と書かれている。最近は彼女から誘ってくれることが随分と増えた。積極的になってくれたという見方もできるけれど、一時期ほぼ無意識に近い形で避けていたせいな気がする。火坂に指摘されてからは避けないように努力をしていたけれど、消えない傷跡のように今もなお残っているのかもしれない。
酷い彼氏だ、本当に。
一緒に帰ろうと返信したあと野山が苦い表情で呟く。
「火坂なら……」
彼はそこで言葉を断ち切ろうとするが、僕はあえて心の中で言葉を続けた。
火坂ならこれからすることを止めるだろう。
帰り道。
道は夕焼けに照らされ、雨の匂いが残っている。
僕達は授業を終えたあと商店街へ寄り道をし、適当にお店へ寄ったあと、彩乃ちゃんを家まで送り届けるために肩を並べながら道を歩いていた。
「夏みかんのフローズンジュース、おいしかったですね!」
彼女が笑顔を浮かべる。
「雨は降るけどジメジメと暑いからね。さっぱりすっぱりなジュースを飲むと幸せな気持ちになる」
「同じ気持ちです。でも、すっぱりってなんですか? ふふっ」
彩乃ちゃんが笑い、僕も笑う。
放課後は彼女と過ごすことが定番になっていた。今日みたいに賑わいのある商店街へ寄ることもあれば、カラオケやゲームセンターと徒歩で行ける場所ならどこへでも行った。休日もなるべく一緒にいるように努めていたつもりだ。……それでもなお避けようとする自分の心がわからない。
「今日はカラオケに行かなくていいの?」
一緒にいる時、彩乃ちゃんはいつも笑ってくれている。
時に恥ずかしがったり冗談交じりに怒ったりするけれどそれでも笑っていた気がする。そんな彼女が一番輝いている時は歌っている時だ。断言できる。最高に幸せな笑顔を浮かべていた。
「はい、時々歌えればそれで充分ですから」
寂しげな横顔、看病をしていた時に見せた苦しそうな表情と重なる。
何に苦しんでいるのか知りたかった。でもそれ以上に彼女の歌を聞く最後の機会を失ったかもしれないことが残念だった。身勝手過ぎるか……。
この話題を変えようとしてか彼女が口を開く。
「そういえばレンくんは文系と理系どっちに……?」
「……文系かな。国語や社会の方が点数高いし」
「あっ、私もです。えへへ」
今年の秋に選択するはずだ。
何十年か前はもっと早く文理の選択をしてたみたいだけれど、今では垣根が低くなったとかなんとかで選択時期が遅くなった。受ける授業の内容も大学生になる前の予習的な内容だと聞く。自分がそれを受けることはないだろうけれど……少なくとも彩乃ちゃんと一緒に受けることはない。
未来の話をする度に心が痛かった。
ふとした雑談の一つ一つがトゲのように刺さっていく。少し前なら気にすることなんてなかったのに。痛みから逃れるようにして遠くを見つめる。
――安楽死施設
炎のように赤い。
白い外観だったはずのそれは夕焼けの空の下で色を変えていた。全てを燃やし尽くすような赤色。背後にある夕陽が滲んで揺れているように見えた。あの死を象徴するかのような場所が怖くてそれからも逃れようとして視線を下げると施設の手前にある公園が目に付く。
「あれって」
彩乃ちゃんも気づいたようだ。
僕の腕に軽く触れたあと指を差す。公園の中には火坂らしき人物がいた。出入り口の方を見つめながら一人で真っ直ぐと立っている。僕達は自然と足を止めてしまう。すると、まもなくして一人の髪の長い女の子が現れた。制服からして同じ学校の子だろう。火坂とその子がいくらか会話をしたあと、彼は頭を下げ、女の子は地団駄を踏んだあとに容赦なく頬を叩いた。彼は頭を下げ続け女の子は「信じられない!」という声と共に公園を去っていく。
「レンくん……」
何があったのかと目で問いかけてくる。
距離が遠くて詳しい会話内容はわからない。でも想像は出来た。いつもの女性問題だろう……。仲裁に入ったり別れたあとに苦情を言われたことはあったけれど、実際の別れ話の場面を見るのは初めてだった。火坂は酷いことをしたのかもしれない。でも僕には女の子と自分自身に真摯に向き合っているように見えた。
僕達は無言で歩くことを再開し、公園の横を通り抜ける。
「……」
彼女が火坂のいる方へ視線を向ける。
横を通り抜けたとき彼は未だに頭を下げ続けていた。
「レンくん、私のことなら気にしないで――」
「好きだ」
「えっ」
衝動的な行動。
彩乃ちゃんの手を引き路地裏へと連れ込む。住宅街の家と家の隙間にある小さな、それこそ人がギリギリすれ違えられるかどうかさえ怪しい。そんな暗くて狭くて人気のない場所で彼女を抱きしめた。
「あ、あの、その」
戸惑う彩乃ちゃんの声を聞きながら、心臓の音を重ね合わせるように強く抱きしめる。互いに言葉はなくなって、どちらの音とも区別がつかない激しい心臓の鼓動と熱くなっていく吐息が頬にぶつかり合う。彼女が僕の腰周りにそっと手を置き、僕もまた柔らかな体を抱きしめ続ける。永遠に続きそうな時の中で、彼女が呟く。
「私も好きです……」
残酷だった。
付き合う前よりもずっとずっと彩乃ちゃんを好きになっている。抱きしめて、胸が痛いほどにドキドキして、好きだ好きだと叫んでいた。きっと彼女も似たような想いだろう……。いっそそれが自惚れならよかったのに、僕も彼女もあるいはどちらかが嫌いだったり無関心であれば、普通に別れられた。
「……」
少しだけ抱きしめる力を弱めた。
そして隠れがちな瞳を見るために前髪を手で軽く払い除けながら、黒曜石のように輝く黒い瞳を見つめる。綺麗で、好きだった。彼女も恥ずかしがりなら視線を返してくる。そこで気づいた。彼女が瞳というより口元を見ていることに。今までのどんなタイミングよりもキスをするまでの距離が近い。
「彩乃ちゃん」
「は、はいレンくん」
彼女が目を強く閉じて、顔を上向きにした。
いきなり抱きしめるなんてことをしたせいだろうか。自分でも驚く程に緊張していない。それこそ何度もキスをしたかのように自然と出来てしまう気がする。彩乃ちゃんの瞳を見つめたまま、左手を後頭部の方へ回しながら右手で彼女の体を抱き支え――頭の中で映像が浮かび上がる。ショッピングモールでの火災、燃え尽きようとしている命。死にたくない、死にたくない。死にたくない!
「ははっ……」
肩の力が抜ける。
「帰ろっか」
その言葉に、間の抜けた声が返ってきた。
僕は彩乃ちゃんの手を握りながら路地裏から飛び出す。夕陽のオレンジが目を差した。手を離す。彼女は頬を赤く染めながら隣を歩いてくる。答えは決まった。ならこれでよかったのだと思う。
乾きつつあるレンガ造りの道を歩いていると、反対側から若い夫婦が歩いてきた。仲睦まじそうに肩を並べながら結婚記念日の話をしながら横を通り抜けていく。
……
自分の歩く速度が速くなっていることに気づき、彼女の歩調に合わせて速度を緩める。
「ありがとうございます。優しい彼氏さんが出来てわたし幸せ者ですね。看病してくれた時も嬉しくて」
何度目かになる感謝の言葉に薄く微笑む。
すると彼女はこちらを恥ずかしそうに見上げ、少しだけ躊躇ったあとに僕の左腕を抱きしめながら体の力を少しだけ預けてくる。昔のことを思い出す。付き合う前は彼女の隣を歩こうと必死に頑張っていた。そんな前のことじゃないのに、今では遠い昔の思い出のように霞んでいる。
それから十分程で、彼女が一人暮らしをしているアパートが見えてきた。
「彩乃ちゃん、そろそろ着くから」
「あっ……もう着いちゃうんですね」
「ああ」
そっと重みが消える。
「送ってもらってありがとうございます。その、よければお茶でも飲んでいきませんか? 変な意味じゃなくて! 前に試飲したら美味しかったので……あなたにも知ってもらいたいんです」
学生鞄から先ほど商店街で買った茶葉を見せた。
ダイダイの花を乾燥させたものらしい。
「…………ごめん、実はこれから用事があるんだ」
「そ、そうですよね。いきなり誘っちゃってごめんなさい。あのっ、ぜんぜん気にしてないので! また今度お時間がある時に一緒に飲みましょうね」
「……それじゃあ」
彼女に背を向ける。
「レンくん……?」
僕はどんな表情をしているのだろう。
自身の長く伸びた影を踏みながら来た道を戻る。明日全てが終わったら話をすると決めた。
『返信が遅くなってごめんなさい。行きます』
メールを送り、ポケットにスマートフォンを強引に突っ込む。
それからひらすらに何も考えないようにして歩いた。
岬ちゃんに好きだと告げ、秋ちゃんと婚約を結び、彩乃ちゃんと別れる。
ふと、視線を感じた気がして後ろを振り向く。
「燃えている」
彼女にも夕日にも、あの施設にさえも背を向けていた。
それは先程よりも赤く黒く燃えている。黒煙が空へと立ちのぼっていく。もう少しで夜だ。雨の降る匂いが微かにした。




