25話 死
脱出してたらどうしよう……。
濡らしたハンカチを口元に当てる。
その状態で暗く人のいないショッピングモールを歩いていく。
途中、障害物を避けながらも二階へと続くエスカレーターを見つけた。
停止しているそれを歩いて昇っている時に、ふと考えてしまう。二人共、既に脱出している可能性があることに。もしそうなら自分の心情としては居た堪れない。
いや、脱出しているのが一番なんだけども!
「考えても仕方ないか。っごほごほ」
二階へとたどり着いた。
だが、出迎えてくれたのは煙だ。さっきよりも体に悪そうな色をしている。姿勢を屈め出来るだけ煙を吸わないようにした。そしてハンカチを口元に当てたまま、紙の案内図をポケットから取り出す。店の名前は確か……うん、ここだな。
現在地と目的地を確認したあと、再び足を動かす。
無事に店内へとたどり着く。
店の中は女性物の服やアクセサリーが散乱している。だいぶ歩きにくい状態だ。
それに煙の匂いもする。エスカレーター前に比べればマシだが、状況は悪化していると感じた。
不安と焦燥。
それを押し殺すようにして、黙々と店の奥へと進む。
奥へ奥へと進んでいる最中に倒れているマネキンが僕を見ていた。……もちろん錯覚だ。見ているように感じただけ。でも、そのマネキンが自分を嘲笑っているように見えてならない。『警察官の力を借りればよかったのに』『ここには誰もいない』そう呼びかけているようにさえ聞こえた。
現に少女や老女の姿どころか、声すら聞こえない。自分は状況に浮かれて大きなミスをしたんじゃ……。
否応なしに心臓の鼓動が高まっていく。
嫌な汗が吹き出していた。
……!
物音、それに話し声。
いくつかの音が聞こえた。
自分は息を潜め、心臓に手を当てる。
落ち着け、落ち着け、落ち着いてくれ。
「秋乃お嬢様。私を置いて先にお逃げください」
「できるはずがないでしょう」
右斜め前。
そこから聞き覚えのある声が聞こえた。
急いでハンカチをしまい、移動の邪魔になるハンガーラックや服を退けていく。
歩いた先には老女を支える、少女の姿があった。
「やっ。これで三回目だね」
少女は一瞬で表情を変えていく。
出会う前の苦しそうな表情は驚きへ。そして驚きは笑みへと変わる。
「この出会いはノーカンですよ。ノーカン」
少女に代わり、中腰の体制で老女――栗田さんの肩を支える。
そして少女がひと息ついたところで、今までの経緯を尋ねた。
すると端的にかつめちゃくちゃ早く話していく。絶対この子頭良い。けど自分の理解力が追いつかない……!
……つまり。
地震発生時に、お付きの栗田さんが少女を庇う。
倒れてくる棚から少女を庇った結果、栗田さんは怪我をして動けなくなる。
奥まった場所ということもあり、誰にも気づいてもらえない。
なぜ少女、助けを呼びにいかない? 少女も片足を捻っていて動くの大変。
だけど、なんとか通路まで頑張って動く。でもその頃には誰もいなーい。オッケェエエイ!!
……なにがオッケーなのかはともかく。
事情は理解した。
さて、どう動けばと考えていたところで、
「先輩こそ、どうしてここにいるんですか」
当然の質問をしてきた。
「助けに来たんだよ」
本心だ。
でも正直『一人で来ちゃった♪』のは失敗だったと思う。
火災が想像よりも酷くて焦っていたけれど、せめて警察官に事情を話してついてきてもらうべきだった。
この子も指摘するよねー……。
と思っていたら、予想外の返事をしてくる。
「先輩は悪い男ですねっ!」
ええ!?
「だって命も省みずに私を助けに来てくれたんですよね。もう彼女さんだっているのに、それを捨ててまで……!」
「違うから。彼女と一回外に出てから戻ってきたの。彼女第一優先です」
そこは誇っていいと思う。
店の外へ出るまで僕は確かに彼女のことだけを優先していた。今は……。
「あーなんだ。そうなんですね、残念。まぁでも一途な感じの方が好みですよ。ということで私に乗り換えませんか? 今なら浮気相手を三人までなら許容します」
「携帯会社の乗り換えキャンペーンじゃないんだから」
あのサービスもう廃止されたし。
というか一途が好みなのに、浮気は許容しちゃうのか。
「でも、あくまで自分が本妻なんだね」
「もちです。二番とか三番とか趣味じゃないので……んんっ」
少女が小さく咳き込む。
「場も和んだことですし、そろそろ行きましょうか」
濃さを増していく煙を払いのけた。
そして立ち上がり、僕に手を差し出してくる。
「水原先輩、力を貸してくれますか?」
「もちろん」
少女の手を握り、力強く頷いた。
停電しているモール内。
その中で僅かに光を発している白地の通路誘導灯。
天井に吊るされたそれは光だけでなく、行くべき道も教えてくれる。
「ふぅ」
お馴染みの非常口マークを目印に、避難階段のある場所へと向かう。
「栗田さん、体が落ちそうだったりしませんか?」
「いいえ。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
実はいま栗田さんを背負いながら歩いている。
非常に体の軽い人だけれど、それでも人を背負って歩くのは大変だった。普段心をおんぶしてはいるが、状況のせいか、その時の何倍も疲れを感じる。でも泣き言は言っていられない。足元に散乱した物やガラスに気をつけながら、ゆっくりと確実に進んでいく。
途中、後ろを歩く少女を見た。表情は余裕そのものだけれど、右足を引きずっている。あの状態だとガラスで肌を切りかねない。
「手を貸そうか」
人を背負ってはいる。
でも手を貸したり肩を組むくらいならできるだろう。
それでこの子がもう怪我をせずに済むのならと思ったが……
「先輩が二人になったら考えますよー」
明るい口調で断られた。
強い子だなと感心していたら、避難階段が見えてくる。
だが、さっきとは違い扉が閉まっていた。おそらく最後列を歩いていた店員が閉めたのだろう。
まさか、鍵まで閉めてないよね……。
不安を感じながら扉へと近づき、ドアノブを捻る。
「……」
開かない。
だけど感触からして、鍵が閉まっているわけじゃなさそうだ。
栗田さんを近くの柱に下ろして、もう一度チャレンジする。
捻りながら押す。
それを何度か繰り返すうちに徐々に扉が開いていく。
傍にいる少女の応援を受けていると、開いた。
……一人分だけ。
人が一人通れる分だけのスペースしか開かなかった。
それ以上は何度押そうがビクともしない。
「地震で立て付けが悪くなったんですかねー」
そうだと思いたい。
決して僕の力が非力だとかそういうわけじゃないはず。最近は鍛えてますし!?
扉が悪いよー扉がと文句を言っていたら、突然。
力が抜け視界が霞む。
が、次の瞬間には元に戻っていた。
「……」
少女に中の様子を確認してくると告げる。
そして、扉の中へと体を滑り込ませながら入った。
密閉された避難階段。
重苦しさは感じるけれど、特に問題はなさそうだ。
二人の元へ戻ろうとしたところで、三階から男性が駆け下りてくる。
「避難誘導係なんて一生出番がないと思ってたのにな……っと、まだ人がいたのか!」
二階へと降りる途中で男性が立ち止まる。
白いコックコートを着ているあたり、コックさんなのかもしれない。
だけど帽子から服まで全部びしょ濡れだった。そんな僕の視線に気付いたのか、男性が口を開く。
「スプリンクラーの水を浴びてな。といっても、防火シャッター含め機器の一部が真っ当に作動しなかったせいで、こんな大火事になっちまったが」
男性は頭を抑えながらボヤいた。
「それで君は二階から避難しようとしてる口か?」
「あっはい。元々は三階のフードコートにいたんですが……。三階の火事ってそんなに酷いんですか」
「まぁな。三階の半分は火の海だ。各店舗の調理場を一つにって効率化が仇になったな」
他にいくつか話を聞いたところで、男性が話を断ち切る。
「君も一緒に早く避難しよう。ここは安全だろうが、長くいるもんじゃない」
「わかりました。でも連れが二人いて、その内一人が動けない状態で」
男性がガクッと肩を落とした。
そして階段を下り僕の元までやってくる。
「どこにいるんだ。俺も手伝う」
「扉の先にいます」
「了解。……はぁ、二階の誘導係は誰だったかな」
飯でも奢ってもらいたいもんだ。
彼は嘆きながらも扉の先へ抜けようとするものの。
「入らない……し、扉も開かないのか」
控えめに言っても結構な巨体。
僕がギリギリ通れる隙間だから、そりゃ厳しい。
男性に、怪我人を扉の途中まで自分が運ぶことを提案して、二人の元へ戻る。
「先輩、どうでした?」
栗田さんに寄り添いながら尋ねてきた。
それに対して、移動に問題はないこと。店員さんがいることを話す。
そしてその店員さんが力を貸してくれるため、栗田さんを先に避難階段へと移動させることを伝えた。
「了解です。なら、私も協力しますね」
少女が手招きする。
駆け足気味で少女とは逆方向、栗田さんの右側にしゃがむ。
そして栗田さんを中心に三人で肩を組んだ。
「「せーのっ」」
掛け声と共に栗田さんを立ち上がらせる。
「よしよし、確実にいきましょう」
その言葉に頷き、歩く。
少女とは不思議と呼吸が合い、扉へとすぐにたどり着く。
そこで扉の先にいる男性と目が合い「おっ来たな」と声をかけられた。
あとは僕と男性がいれば大丈夫だろう。
少女にそれを伝え、離れてもらった。
「水原様、ありがとうございます」
「困った時はお互い様ですよ」
笑顔を浮かべながら、男性へと引き渡していく。
「申し訳ありません。お嬢様」
「私を庇って怪我をしたのだから、気に病まないで」
組んでいた肩を徐々に外していった。
その代わりに男性が栗田さんとガッチリ肩を組み、避難階段の方へと連れて行く。
といっても、扉と壁との間に余裕がないため、だいぶ遅い速度だ。
だが、僕と組んでいた肩は完全に外れ、栗田さんは無事に避難階段の方に移れた。
自分たちも扉の先へ進もうとするが――
――地震だ
立っているのが精一杯な強い揺れ。
「クソッ!!」
男性の叫び。
それと同時に扉が猛烈な速度で閉まって、自分の腕が挟まる……!
「先輩っ!」
声と共に、後ろへと引っ張られる。
揺れも相まって僕は尻餅をついてしまう。それは少女も同様で顔をしかめながらお尻をさすっていた。
……
揺れが収まる。
強い揺れの地震だったが、長い揺れの地震ではなかった。
隣にいる少女を見て、安堵のため息と共に感謝を告げる。
「ありがとう……」
神へと感謝するかのように気持ちを込めた。
この子が僕を引っ張ってくれなかったら、今頃自分の腕は扉に挟まれて悲惨なことになっていただろう。
イヤな場面を想像したせいで冷や汗が出てきた。
……って、
「扉が閉まってる」
僕は立ち上がり、ドアノブを捻って押す。
だけど開く気配がない。少女も服の汚れを払ったあと、同じ行動をするがダメそうだ。
「開きそうにもありませんね」
少女は扉に背中を預ける。
そして、状況的に店員さんを責められませんが、と前置きした上で、
「安全簡単な避難方法は消えちゃいました」
あっけからんと事実を口にした。
灰色の扉が、さっきよりも重く厚く感じられる。
「まっ、栗田は無事に避難できるでしょうし」
良しとしましょうっ!
場の空気を切り替えるように、明るい声で言った。
……これは僕も負けていられないな。気持ちをなんとか切り替え、次の脱出方法について話をする。
「僕が入ってきた道から脱出するのは、どうかな」
自分の提案に、少女は深く頷く。
どうやらこの子も同じ方法を考えていたらしい。
「その道に障害ってありました? 例えば、近くまで火が迫っていた、煙が濃かった……」
言葉を聞き、煙が濃かったことを伝える。
それと火の手も確認できなかったことを話した。
「濃いといっても先輩が通って来れたわけですし」
少女は艶やかな唇に人差し指を置く。
一瞬天井を見上げたあと、扉から勢いよく離れる。
「じゃあ、早速行きましょう! 道案内お願いできますかね?」
可愛らしくウィンクをしてきた。
僕は「もちろん」と返事をするものの、動かない。
じっと少女の足を見たあと決める。
「乗って」
少女の前に行き、中腰になった。
「どうしたんですか、いきなり」
「……僕を助けた時に、足、更に痛めたでしょ」
肩越しに少女を見る。
さっきも右足を引きずってはいたけれど、今は地面に足を付けることさえ辛そうだ。扉に背中を預けた時も右足だけずっと、僕が気づかなさそうな範囲で、小さく宙に浮かせていた。
表情には出していないけれど、相当辛いはずだ。
そう考えていると少女が僕の肩に手を置く。
「そこまで甘えられません。……肩、貸してくれます?」
「大丈夫、なんだよね」
「辛いのは否定しませんけど歩けますよ」
心配性ですねと明るく笑う。
声を聞いて、少女にぶつからないようゆっくりと立ち上がり、振り返った。
左腕をそっと握る。その腕を僕の首に巻きつけるようにしたあと、少女の時計――左手を押さえつけるようにして自分の左手を重ねた。
「それじゃあ、行こうか」
隣の少女に確認する。
ミントアッシュの髪が揺れ、甘い香水の匂いがした。
そして秋を想わせるような茶色い瞳が自分を見上げてくる。
「私の名前は秋華院 秋乃。気軽に、愛を込めて『あき♥』って呼び捨てにしてくださいね!」
「秋ちゃん、ハンカチはある?」
予想通り煙が濃くなってきた。
体を少し屈めた状態のまま、ハンカチを取り出す。
「気休めにはなりますか」
ポーチから大人びたハンカチを取り出し、口に当てる。
……どうでもいいことだけれど。
時計もハンカチもちょっと前まで中学生だったとは思えない、落ち着いた物を使っている。
そんなことを言い始めたら服装からして学生離れしているわけだが。
まぁ今考えることじゃないか。
なんて思いながら、僕も口にハンカチを当てる。
……
それから数分の間。
二階エスカレーターへと向かうため、薄暗い通路を無言で歩いていたら、
「どうして呼び捨てじゃないんですか!?」
理不尽なことで怒られた。
「いや、さっきの流れで『あき♥』なんて呼んだら相当な浮気者だと思うよ」
「――あっ、今のもう一回お願いします」
スマホを取り出す少女。
それを冷ややかな目で見たあと、足元を見る。
右足はもとより左足も辛そうだ。ハイヒールが奏でる特有のカツカツとした音も元気を無くしていた。
とはいえ彼女は相変わらず元気な感じがする。
うーん。
また「おんぶしようか」と尋ねたら嫌がりそうな気がするしな。
だけどまぁ、念のためと聞いてみた。
「大丈夫ですって。というかスマホが壊れててショックを受けています。なので、もう一回呼び捨てにしてください!」
「秋ちゃん、本当に大丈夫?」
「んもうっ、大丈夫です! 先輩のバカ!!」
罵倒されてしまった。
あぁ、そういえば彼女である柑崎さんは未だに苗字呼び。
近いうちに下の名前で呼べたらいいなぁ……。
通路を歩きながら、しみじみと思う。
「おんぶしようか?」
「おんぶおんぶって、そんなにおんぶしたいんですか……?」
ちょっと引きます。
そう言ってあきちゃんは顔を遠ざける。
「心配なだけだよ」
「う……」
彼女は苦い表情を浮かべた。
「ねっ、素直になろう」
正直本当に心配だ。
この子とは短い付き合いだけど、感情を隠せてしまうタイプのように見えた。長年無表情系幼馴染と一緒にいたおかげで、そういうのは何となくわかる。心の場合はあの静かな状態が素だから、また違うけど。
なんにせよ心配だった。
そんな気持ちが伝わったのか、彼女は口を開く。
「わかりました。あまり貸しは」
そこで口を止め、足も止めた。
「甘えたくはないんですが、甘えます。先輩の母性には負けました」
「僕、男」
父性! 父性!
訂正を求めるものの、秋ちゃんは無視をする。
そして組んでいた肩を外す。その際に彼女が仰向けに倒れそうになるが、手を咄嗟に掴めたおかげで事なきを得た。
彼女はお礼を言ったあと手を離し、小さなショルダーバッグを投げ捨てる。
「だいぶ、高そうだけど……」
「いいんですよ。私が怪我をしたり死んだほうがよっぽど損失大きいですから」
そう言って黒のジャケットも投げ捨てた。
白いシャツが涼しげに揺れる。
「豪快だね」
感心するような呆れるような声で呟く。
でも、服や荷物を捨てたおかげで随分と身軽そうだ。
……口には出さないけど、服を捨てたのは僕の負担を少しでも減らすためなのだろう。
「はい! あの服重いですし、先輩のために捨てました。えへっ」
うーーーーん、口に出さないほうがよかった。
野山ならこう言うだろう『あざといのは死すべし』と。
そんな自分たちの内心は露知らず、
「というわけで、甘えさせてください~」
秋ちゃんが飛びついてきた。
それを必死に受け止めたあと「これだっこじゃん」と突っ込む。
気の抜けるやり取りを終え、改めておんぶをし、歩くことを再開する。
二階エスカレーター前に到着した。
ここを降りれば東側出口までもう少しだが……。
一階を見下ろすと、火の海だった。
「出口って、あっちの方であってますよね」
秋ちゃんが指をさす。
それに同意すると、彼女は僕の背中を上手に使って高い位置から出口の方を見下ろしていく。
「あーダメですね。別の出口から避難しましょう」
紙の案内図ってありますか?
彼女は体を元の位置に戻しつつ聞いてくる。自分は彼女を支えながら、ポケットにある案内図を取り出し、差し出した。
「さっすが先輩!」
背中を机にして何かを書き込んでいる。
……はぁ。
「ごめん。まさか火の手がここまで広がっているなんて」
さっき通った時は大丈夫だったんだけど。
秋ちゃんに言い訳混じりの謝罪をした。
「状況は変わるものですから。それにどう対応するかが重要です。それと」
淡々とした声色から、いたずら気な声へと変化させる。
「先輩だけなら、あの出口からでも避難できると思いますよ?」
「あはは……一緒に脱出しよう」
「そう言ってくれると信じてました! これからは運命共同体です!」
秋ちゃんが案内図を渡してきた。
それを受け取って、彼女にも見えるように広げる。
「東側出口ではなく、この丸で囲んだ正面出口から避難しましょう」
「北側出口の方が、正面出口より近いんじゃない」
一応指摘してみた。
すると彼女はペンで図をつつきながら、正面出口を選んだ理由を説明してくれる。現状、どの階よりも被害が少ない二階通路をメインに移動できること、そしてエスカレーターを降りてから出口までの距離が比較的短いこと。それらを踏まえた上で、移動時間が十五分から十二分に変わっても大差がないと話した。
「なにより、もう消防車は来ているはずなんですよ。通報から遅くても十分程度で来ますからね。ここが僻地で、他所でも火災が起こっていることを考慮しても、三十分以上経ってます。これでいなかったら怠慢ですよ! 怠慢!」
冗談混じりに文句を言ったあと彼女は「消防車が来ている前提の話ですが」と話を続ける。
「大型車両や緊急車両はまず正面出口に来ると話を聞きました。ですから、消防隊員の人が最初に突入する場所は……」
「正面出口ってわけね」
「そういうことです。運がよければ途中で拾ってくれるかもしれませんし」
どうですか?
秋ちゃんは自分のプランでいいかどうか尋ねてきた。
……時間をかける場面ではないが、店員さんに聞いた話をしておく。
「図には載っていないんだけど、三階のフードコートの先――西側にある調理場から火事が発生したみたいなんだ」
「つまり、西側に近づく正面出口は危険って話ですよね」
理解が早かった。無言で頷く。
「正直、ここで救助を待つのもありだと思います。煙もまぁ恐らく問題のない範囲でしょうし、元の避難階段付近まで戻ればあってないようなものですから」
彼女は言葉に力を込める。
「でも、待つのは柄じゃありません。待って状況が改善するのは遭難した時くらいだと思ってますから!」
思わず昔の笑顔を浮かべてしまう。
……元々どう脱出するのが正解かなんてわからない。
なら、選択肢を出し切った上で、彼女が納得している方法を用いて脱出するのが一番だと思う。
「それじゃあ早速、正面出口に向かおうか」
彼女を背負い直し、黒煙渦巻くモール内を移動していく――
視界が霞む。
煙を吸いすぎたせいだろうか、体も重い。
そういえば、火災による犠牲者の多くは煙が原因なんて話を聞いたことがある。
――違う
病気のせいだ。
確かに進むたび黒煙は濃さを増している。だけど、彼女は至って平気そうだ。
なにより時折起こる脱力感、目のかすみは薬を飲まなかった時の症状そのものだった。
死を近くに感じる。
「せんぱぁいー私を落とす気ですか。あ、もうある意味落ちてますけど」
冗談を返す余裕はなかった。
謝罪をし、なんとか背負い直す。
あぁ。ジワリと脂汗がにじみ出ていく。
首筋から、背中から。力の抜ける頻度がドンドンと高まっている。
でも、おかしくないか。食後に薬を飲み損ねたとはいえ、たかだか一時間程度でこんなに重い症状が出るなんて。
……いや、そもそもこの状況がおかしいんだ。常識で考えるのは間違っている。
僕は、自分の病気を甘く見ていた。
「そういえば、どうしてこのモールに?」
話す余裕なんてない。
けれど、悟られないためにも話を振る。
「視察です。社長として」
思わず「社長?」と聞き返した。
「ええ。といっても、小さな会社ですけどね。父が所有していて、母が社長をやっている会社の、更に分社化させた小さな小さな会社。言っちゃえばお勉強のための会社ですね」
熱い息をこぼしながら話を続ける。
表情は見えないけれど、どこか楽しげだ。
「始まりは、親が私に箔を付けさせるためでした」
女子高校生社長。
確かにインパクトがある。なんか遠い世界の話だ。
でも、皇さんが聞いたら嫉妬しそう。その姿を想像したら身近なものに感じられた。
「どういう会社なの?」
「貴金属やダイヤモンドの販売です。なのに、ショッピングモールに出店ですよ? 他の店は一等地にあるのにも関わらず。ここに出店を決めた前社長馬鹿だなーって引き継ぐ前は思いましたよ」
ワクワクとした声で、でもと言葉を続けた。
「意図を知った時は感心しましたね。相互作用……他店の売り上げを伸ばすために必要な――全体の戦略を考えた上での出店なんだなって。ま、想像通り単体での売り上げは悲惨ですが」
薄暗いモール内に、明るい笑い声が響く。
その声に少しだけ気持ちが紛れる。
「親の意図はさておき、今は楽しんでます。ここの黒字化が当面の目標……っと」
先輩。
彼女が指差した先には、一階へ降りるエスカレーターがあった。
通路に物が散乱していたせいで、時間はかかったが、なんとかたどり着いたらしい。
あと少しだ……。
正面出口最寄りの二階エスカレーター前。
そこで、小休憩を取った。秋ちゃんの提案だ。もう僕の背中からは降りている。
「そろそろ行きましょう」
彼女の言葉に返事をし、肩を組む。
改めて体を密着させることにより気づいてしまった。
「色々と汚くてごめんね」
汗や煤で汚れた体。
そんな体で女の子とくっつくことに申し訳なさや、罪悪感があった。
妙に落ち込む。体の不調に引きずられて、心が弱っていくようだ。
「私だってそうです。汗で化粧が落ちて、頬のこことかも汚れてますし。好きな人の前でこんな姿、恥ずかしいんですから。もうっ!」
「……、あはは、秋ちゃんも恥ずかしいんだね」
……
「汗まみれでするエッチって最高に気持ち良いらしいですよ」
「えっと、なにか言った?」
「いえ」
喋り声は聞こえた。
でも、言葉の一部しか聞き取れなくなっている。
耳の中で金属音のようなものが鈍く響いた。
エスカレーターを降りていく。
眼下を見れば赤一色。先程の場所よりも火の勢いは増している。
だが幸い、出口に繋がる通路は問題なさそうだった。
「結局、隊員さんには会えませんでしたね」
地面につま先を当てる。
秋ちゃんはスニーカーへと履き替えていた。
「履き心地はどう?」
「まぁまぁです」
靴屋に入るなりハイヒールを脱ぎ捨てた時は驚いた。
でも適切な判断だったと思う。あと少しだとはいえ、歩くことに変わりはない。
ちなみに僕も履き替えている。彼女とは違い、料金はもう払った。
……
「綺麗ですね。終末的な美しさですけど」
彼女の目線を追う。
その先には円形の噴水があった。そこの中央にあるモニュメントからは未だに水を出し続けている。
水飛沫の中に見える景色は、赤かった。
……
…………
動けない。
目の前は暗くて、体は重い。
特に足はもう痛みや疲れさえ感じられかった。動けているのかわからない。
息を吸えば咳こむ。僅かに吸えたと思えば、それは肺をシミのように黒く染めるだけ。吐き出すものなんてなにもなかった。
生きているのか、死んでいるのか。
わからない。
まるで夢現のように曖昧な状態だ。
だというのに、怖かった。
生死の境が見えなくて怖い。
視界の先に大きな光が見える。救いを求めるように、足が自然と動く。
とても軽やかな気持ちだ――
「――――せんぱい! 先輩!!」
目の前には僕の体を包み込んでしまうほどの、炎があった。
「はぁはぁっ、やっと止まってくれた」
ぼ、僕は……。
そんな呟きに、秋ちゃん掴む手の力を緩めながら返事をしてくれる。
「一階に降りた途端、先輩が凄い力で動き始めたんですよ」
炎から一歩、二歩と後ろに下がった。
「もう勝手に動かないでくださいね。これじゃあどっちが助けに来たのかわかりません」
呆れたように言ったあと、目元を緩める。
怒っていない、許してくれたのだろうか。そう思っていると彼女が再び肩を組み直す。
……もしまた迷惑をかけるようなら。
足はなんとか動いた。
視界はまた薄暗くなってしまったが、さっきよりは見えている。
なんとか秋ちゃんの動く方向に合わせ動いていく。
「もう少し、もたれかかってもいいですよ」
彼女が僕を抱きしめるように腕を回す。
胸元に顔が行ってしまい、位置をずらそうとする。
だけど、安心感や包容感に甘え、結局動かせなかった。
……
…………
地面を踏むたびに水のピシャピシャとした音がする。
普段ならすぐに辿り着くであろう出口。
しかし何度も迂回を繰り返しているせいか、一向にたどり着けない。
無言で、おそらく無言で歩き続ける。
「先輩は人の、命の価値って平等だと思いますか……」
熱にうなされたような声。
久々に声を音ではなく、言葉として認識できた。
「私は思いません。生まれた瞬間から、死ぬその時まで命の価値は不平等だと思ってます」
今までの力強さは感じられない。
虚空を見上げながら呟いているような、戯言。
彼女も限界に近づいているんだ……。
「ただ、それは恣意的で主観的な判断によるものです。顔や学歴、お金――ある限られた条件で切り取って判断する馬鹿馬鹿しいもの。だけど、私も俗に染まっています。一生そう言った色眼鏡で人を判断しちゃうんだろうなぁ」
彼女は首を大きく横に振る。
そんなことはどうでもいいと言わんばかりに。
「私はあと少しで栗田を見捨ててました。十年来付き合いのある、それこそ親よりも長く時間を共にしている彼女を心の内で見捨てる算段を立てていたんです。理由は、自分の方が今後より多くお金を稼げるから。それだけです。でも見捨てたらきっと凄く後悔するんです。夜、布団の中で情緒不安定な女の子のように泣くんです。だけど、そんな夜さえいつか忘れて、思い出せない小さな小さな悲しみだけが心の底に残り続けて」
懺悔のような言葉の数々は、いつしか僕に向けられていた。
「誇ってください。先輩が来てくれたおかげで、救われた命と絆があること。言いたかったのはそれだけです」
聞こえてないでしょうけど……。
小さく呟き、僕を抱き寄せたまま頭を撫でる。
「秋にとって、貴方は……なんなんでしょうね……」
自分には。
命の価値が平等かどうかなんて、わからない。
だけどもし見つけたのが彼女でなく、見知らぬ他人だったのなら、警察に任せるなりしてもっと堅実な手段を取っていた。そう考えるとだ。無意識とはいえ、僕も命に優劣をつけている。……”優”の方が非現実的な手段だったのは、あれだが。
でもまぁ、助けた人が”誇ってくださいと言ってくれたんだ。自分を蔑むのはやめておこう。
そういえば、あの事故の時もこんな炎の中だった。
不意に父の曲が頭に流れる。
父さんって車の中で、自分の音楽を流していたんだな。
そんなことも忘れていた。中々のナルシスト。僕にもその血は流れているのだろうか。
……
天井を見上げる。
恵みの雨が降ることはもうない。
つまりこの状況をどうにかできるのは、自分次第。
足元の水が乾いていく。二人の足はもう動いていない。
「……」
声も出ない、足も動かない。
だけど上体を動かすことはできるし、視界も白く霞んで見えるが、炎と人と行くべき場所くらいは区別できる。さっきのように見間違えることは許されない。
……真っ直ぐか。思ったよりも出口に近づいていたらしい。
彼女が、僕を切り捨てられないというのなら。
「……っ、せんぱい?」
組んでいた手を外していく。
惑う彼女を他所に淡々と作業を進める。
……両親を殺したのは自分のようなものだ。そりゃ忘れたくもなるさ。
よし、これで運命共同体は解消だ。
「柑崎さんによろしく頼むよ」
五感の全てを働かせる。
そして秋ちゃんが行くべき場所へと背中を押し出した。
彼女一人ならサクッと外へ脱出できるだろう。余命数ヶ月の人間と心中なんて、こっちから願い下げだ。
……
疲れた。
暑いし、痛いし、臭い。
だというのに見える景色は全て白。
死を認識できるというのは、幸せなんだろうか。
体に強い衝撃が走る。
地面に体がへばりつき、身動きが取れない。
柑崎さんごめん。僕は身勝手な人間だ。
迫り来る熱に意識がゆっくりと溶け込んでいく…………。
第一部完となります。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
二部以降の更新に関しては、活動報告をご覧下さい。
重ね重ねになりますが、ありがとうございました。




