15話 彼と彼女の文化祭前日
廊下へと音がわずかに漏れ出していた。
その音に惹かれ、扉のすき間にそっと耳を近づけてみる。
……自然と感嘆のため息が出てしまう。
天使のような歌声。
ずっと聞いていたいけれど、盗み聞きは良くないか。
扉のドアを二回叩き、彼女の返事を待つことにした。
音楽準備室へと入る。
部屋の主――柑崎さんに謝りつつ、座れる場所を探す。
そして教壇の端に腰を落ち着けると、彼女も同じようにして隣に座った。
「練習お疲れ様。よかったら、どうぞ」
アメやチョコレート、様々なお菓子が入っている袋を差し出す。
「委員会の活動を任せきりなのに、差し入れまで……」
ありがとうございます。
彼女はそっと微笑みながら口にした。
花がひっそりと咲くような笑み。もうそれを見慣れてきたはずなのに、鼓動が早くなっていく。
熱くなってしまった頬をかきながら喋り始める。
「き、気にしないで! 文化祭に出て欲しいって言ったのは僕なんだし、これくらいするよ。それに」
柑崎さんがのど飴を口に入れる。
そして機嫌良くみかんのアメ、好きなんですと言った。
「……そもそもこれは皇さんからの差し入れで」
僕は視線を宙へと向ける。
なんだか悪いことをしてしまった気分だ。柑崎さんは僕からの差し入れだと思って感謝してくれたわけだし、なにより皇さんのアシストを無碍にしてしまった。
じゃあどうして言ってしまったのか……緊張してたからです! 好意を自覚してから初めてになる二人っきりの状況。あと言わない罪悪感もチラホラと。
「皇さんにもお礼を言っておきますね」
「うん、そうしておいて」
これは皇さんから罵倒メールが届くな。
我ながら未熟。だけど、ここで気落ちしてはいられない。
「歌の調子はどう?」
あえて彼女の顔は見なかった。
プレッシャーをかけてしまうのが怖いから。
「文化祭までには、間に合いそうです。まだものを真似ている状態ですが」
「んっと、元々歌っている人の真似をして終わり……ってわけじゃないんだ」
「そうですね……それも大切なことなんですが、曲の歌詞の意味を汲み取って、その中に自身が出せる音を混じえることも大切だと思ってます」
「オリジナリティーってことなのかな」
「そんな感じです。わかりにくかったですよね」
柑崎さんは苦笑する。
きっと言葉の半分も理解してあげられていないけれど、それでも彼女の歌に対する真摯な姿勢だけは理解できた。
もしかしたら、そんな姿を見て惹かれ始めたのかもしれない。
「あ、あと合唱部の練習に参加できるようにしてくれてありがとうございます」
「どういたしまして! ……と言ってもあれだって友達、火坂がやってくれたことだけど」
今日の僕は自信がなかった。
普段も自信満々というわけじゃないけれど、今日は特に。
願いを叶えられていない自分がもどかしくて、友達の力を借りているのにそれを生かせないことが苦しい。友達と比較までしてしまっている。
物事が停滞しているように感じた。
むしろ後退してるかのようにさえ思える。願いを決めてからの一ヶ月間。自分はなにもできていないんじゃないか。先の見えない暗闇を潜っているようで。
「火坂さんは」
僕を真っ直ぐに見つめてくる。
「水原さんだからこそ、力を貸してくれたんだと思います。困ったときに水原さんが手を差し伸べてくれたから、この部屋も合唱部の件も助けてくれたんです」
だから。
彼女は苦しみを包み込むような、優しい笑顔を浮かべる。
「私は水原さんにお礼を言います。ありがとうございます」
っ。
「ど、どういたしまして」
「はい!」
……
「あっあのもしかして、恥ずかしことを言ってました……?」
「そんなことないよ」
「そ、そうですか。よかったです……」
ありがとう。
彼女の瞳、薄紫色の髪に隠された黒曜石のような綺麗な瞳を見て、静かに感謝を告げた。
「そうだ! 差し入れだけじゃなくて、曲も聞いて欲しいんだ」
持ってきたパソコンを開き、編集ソフトを立ち上げる。
「もう、完成したんですか?」
「だいたいね。あとは柑崎さんに確認してもらって――」
調整したい。という言葉は彼女に遮られた。
いつもは可憐で、でも歌のことに関しては強気な声。
「大丈夫です。水原さんが作ったそのままの曲を……歌いたいんです」
「あはは。わかったよ」
「ど、どうして笑うんですか」
「まぁまぁ、気にしないで。オーディオコンポってどこだっけ」
彼女は頬を染めながら「こっちです……」と教えてくれた。
不思議だな。一緒に委員会活動をしてるときは、彼女を守りたい自分が頑張らなくちゃ、って気持ちになる。
だけど、歌に関しての彼女は自由で強気で……そんなギャップが魅力的だった。
コンポとパソコンを接続する。
これでいつでも曲を流すことができる。準備は整った。
再生ボタンを押す前に確認を取る。
”歌を聞いてもいい?”
彼女はぎゅっとマイクを握って頷く。
「もちろんです。まだ、大勢の前で歌うのは怖いですが……」
普段の弱気な彼女が姿を見せた。
さっきのお返しってわけじゃないけど、
「大丈夫! 歌い始めたらそんなの気にならないよ」
だって歌ってる時の柑崎さんが一番楽しそうだから。
出来るだけの笑顔で励まし、再生ボタンを押した。
素朴な音楽が彼女の声によって彩られていく――
文化祭前日はどこも慌ただしい。
リハーサルや準備、場所によっては今日から校内発表を行っていた。
もちろん皆さんがお忙しいことも重々わかっております……。
しかし! 僕たち文化祭委員は特に忙しい。
午前中はクラスの手伝いをし、今は委員会としてのお仕事がある。
後ろを見れば火坂たちが校庭からここ体育館へ機材や椅子を運び込んでいた。機材運搬班も大変そうだ。肉体労働ということもあって、汗を流している生徒が何人もいた。
でも、皆どこか楽しげだ。火坂なんてもう汗がキラキラと輝いているようにさえ見える。
おっと、もう幕が閉まる時間だ。
視線を舞台へと戻し、足早に舞台袖の下手へと移動した。
そしてリハーサルを終えた合唱部の部長さんに声をかける。
「お疲れ様です! 本番でも今日のように、終了予定の一五分前から五分刻みで合図をしていくので目安にしてください」
文化祭委員として必要な説明をしていく。
部長さんは適時頷きで反応をする。たぶん歌った直後だから息が上がっているのだろう。もう少し間を開けてあげたかったなと思いつつ、説明を終える。
最後に柑崎さんのことでお礼を言うと笑顔で応えてくれた。
部長さんが去っていくのを見送ったあと、次のプログラムを確認する。
出た。料理部の三分クッキングだ。準備の時間を含めても五分足らずで終わるしここで待っていよう。
腕を組みながら一人舞台袖にいると、
「お疲れ様~」
声をかけられた。
この子は確か合唱部の子だ。
「お疲れ様です。どうしました?」
「柑崎さんが今日のリハーサルで歌うのか知りたくて」
「あっと……」
言葉に詰まる。
そして思わず反対側の舞台袖を見た。
誰もいない。本来なら次に発表を行う人はあそこに控えている必要がある。
「予定では次に歌うんですが、体調を崩していてわからないんです」
先程まで一緒にステージ関連の作業をしていた。
だけど途中で顔色が悪い柑崎さんを見て、外で少し休んだ方がいいと勧め、彼女は外に出ていった。それ以来、ここへは戻っていない。
去り際に「歌う時間には戻ってきます」と言っていたけれど、想像以上に体調が悪いのかもしれない。
あぁ、なんか心配になってきた。
委員長に言って一回探しに行こうかな。でも、その前に柑崎さんの発表時間をズラす必要があるか。
「残念。天才の歌を聞けると思ったのに」
天才?
驚きと共に思わず聞き返してしまった。
「うん。柑崎さんの声――歌声って真似が出来ない感じの、天性のものだって一緒に練習して感じちゃった」
部長も熱心に勧誘してたよ。
彼女は笑いながら、「本番楽しみにしているね」と去っていった。
……自分も柑崎さんの歌が凄いのは知っていたけれど、まさか他の人があそこまで言う程だなんて。
期待されているなと思いつつも、期待されるのは苦手そうだなと思った。
そんな彼女を少しでも助けるためにも僕に出来ることはやっておこう。
駆け足気味で委員長の元へと向かう。
「了解。リハーサルの時間を変更するのね」
体育館で指示を出している委員長に話しかけた。
これで柑崎さんが遅れて戻ってきても本番前のリハーサルはできる。
彼女の性格からして多少体調が悪くても準備は入念にやっておきたい……はず。
「一応確認するけど、後の部活や同好会の許可は取れた?」
「はい。影響する範囲の部活は全て」
「うん、それなら……って、よく演劇部の”あの”部長から許可を取れたね」
プログラム表を見ながら感心していた。
有名なんだ……あの人。
「柑崎さんのファンみたいな感じで、意外とすんなり」
ちなみに、本番だったら絶対に(お前は)許さないと言っていた。
「へぇ、あの偏屈が……。ますます柑崎さんの歌が楽しみになってきちゃった」
「そうですね。僕も楽しみです」
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
6月30日まで毎日投稿致します。




