プロローグ
ある森の奥深くに、大きな大きな湖がありました。
その湖には妖精が住んでいました。
その妖精は願いを叶えてくれる。
森の住人たちは皆、そんな噂をしておりました。
しかしその妖精を見たという者は一人もいません。
だけど妖精はその湖に住んでいました。
願いを叶えてくれる森へおいで。
願いを叶えてくれる湖へおいで。
妖精は歌を歌いながら、湖の上で華麗なステップを踏んでいます。
その歌声は風になり、森の木々を揺らします。
そのステップは星になり、夜空でキラキラ舞っています。
私はここで待ってるよ。
あなたが来るのを待ってるよ。
駅のベンチに男の子が膝を抱えて座っている。着ている服は全てボロボロで、その服では雪が舞いそうなほどのこの寒さをしのぐことは難しそうだ。案の定、彼の全身はがくがくと震えている。
彼は午後三時ごろ、ここへやってきた。その時はまだ日が出ていて、今ほど寒くはなかった。
「すぐに戻るから。ここで待ってて」
彼の母親はそう言って人混みの中に消えていった。彼は母親の言いつけどおり、その場を一歩も動いていない。
「すぐに戻るって言ったじゃないか」
彼の震える口から小さく声が漏れる。ここに来た時にはたくさんの人が行き交っていたのに、今は閑散としている。彼の目にじんわりと涙がにじむ。
「お母さん」
その声は、白い息となって消えていった。寒さと孤独と悔しさで、彼の心はいっぱいだった。涙を流すのも悔しくて、彼はぎゅっと目をつぶった。そして、そのまま起こしていた体を横たえた。
今日はとても良い日だったのに、と、彼は今日という一日を振り返る。
朝起きると珍しく自分よりも母親の方が先に起きており、いつもはあるはずのない朝食が用意されていた。彼がシリアルとベーコンを食べ終えると、母親は笑顔で言った。
「十歳の誕生日おめでとう」
彼は母の笑顔が嬉しかった。彼の母親はいつも彼を怒鳴りつけていたからだ。ご飯をこぼした。電気を点けっぱなしにしていた。家の手伝いをしなかった。彼を怒鳴りつける理由はいくらでもあった。
「今日はお出かけするから、それを食べたら準備して」
そんな母が今日はとても上機嫌だ。自分の誕生日という特別な日に。彼は嬉しくて急いで用意された朝食をたいらげた。
外出先は、電車を乗り継いだ先にあるショッピングモールだった。彼はこんなところに来るのは初めてで、きょろきょろとしながら母の後をついて歩いた。周りの人たちは、着飾った母親にぼろ布をまとった子供がついて歩く光景をいぶかしげな目で見ていたが、こんなに人の多い場所に来たのが初めてだった彼は、その視線が自分たちに向けられているものだと気付かなかった。
「アイス食べる?」
母親はまるで宝石のようなアイスの写真が並んでいる看板の前で立ち止まり、彼に聞いた。彼はこくんと頷いた。
「どれがいい?」
彼は色とりどりのアイスが並んでいる中から、チョコレートアイスを指差した。
「あっ、今日は喋ってもいいわよ」
母はアイスを注文する前に言った。彼と母親の間で交わされた約束。外出中は喋ってはいけない。彼はそれをきちんと守っていたのだ。
「はい」
店員から受け取ったアイスをそのまま彼に手渡した母に
「ありがとう」
と、彼は言った。母はそれに満面の笑みを返した。外は寒いというのに、暖かい室内で食べるアイスは甘くて美味しかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。母と一緒に外を歩いているだけで、彼は嬉しかった。
今日という一日が幸せだったからこそ、ベンチで震えている彼は、よりいっそう惨めな気持ちなのかもしれない。
彼は今日の朝から夕方までを頭の中で繰り返し思い返した。そうしているうちに、寒さを感じなくなってきた。体の震えも止まったような気がする。
彼が横たわっているベンチに酔っ払いが近づいてきた。その酔っ払いは彼に気付くとぎょっとした顔でその場を急いで立ち去った。
空気は凍るように冷たい。大きく息を吸い込むと、鼻の奥がツーンとする。もうすぐ街に雪が降り積もることだろう。