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理想のディストピア教育近未来シリーズ

逃走列車

 もう駄目だ。ここにはいられない。


 尾原真理子は園長室の扉を叩いた。

 この児童施設「向日葵園」に就職して三年。ここまでの道のりは決して平坦ではなかったのに。

 どうぞ、と園長の声がし、彼女は扉を開いた。

「どうかしましたか、尾原先生」

 穏やかな微笑を浮かべ、園長は仕事の手を止めた。

 そう、何故疑ったことすらなかったのだろう。彼女は園長の他の表情を知らない。

 あの時もそうだった。面接の時だ。履歴書を見ながら、園長はこう言った。

「色々あったのですね。頼もしいですよ」

 それまでにも「真面目」とか「一生懸命」は言われて来た。だがそれ以上のことは無かった。

「あなたの様な意思の強いひとなら、強い子供を育ててくれそうだ」

 信用と期待。それは真理子にとって初めてのものだった。それまでの苦労が報われた思いだった。

 真っ直ぐ自分を見ながら、にっこりと笑ったあの顔が真理子の脳裏に未だに焼き付いている。

 それ以来、彼女はこの園で「先生」と呼ばれる身分と高額の給料と、日々を暮らして行く場所が手に入ったのだ。

 ブライヴェイトは減ったが、―――それでも、自分が施設で育てられていた頃に比べれば、ずっとましだった。

 彼女自身、施設の出身だったのだ。



 母親が真理子を捨てたのは、彼女が四歳の時だった。父親の顔を彼女は知らない。

 母親にしたところで、「母親」という実感はなかった。

 狭く、日当たりの悪いアパートの中。部屋ではいつもTVが点けっぱなしだった。彼女の耳には母親より、当時のキャスターの声の方に覚えがある。

 母親は彼女を飢えさせはしなかったが、それ以上のこともしなかった。ほら食えとばかりに無造作に食事を置き、食べられないと無言で片付けた。

 話しかけられたという記憶は、無かった。暴力は無かったが、構われもしなかった。

 そんな日々の中、ふっと母親の姿が消えた。

 目を覚ました時に母親が居ない、というのはよくあることだった。だが、それから三日経っても戻ることは無かった。仕方なし、彼女は冷蔵庫の中から、見覚えのあるものを出し、精一杯背伸びして水を呑み―――


 口にした途端、広がる異臭。

 全て腐っていた。


 それでも飲み込んた。

 痛み出した腹に、真理子は火がついた様に泣き出した。一命をとりとめたのは、通りかかった近所の奥さんが偶然聞きつけたおかげだ。

 彼女がそのアパートに戻ることは無かった。病院から出る彼女の手を引いたのは、施設の職員だった。


 母親しかいない世界から唐突に、上は中三、下は乳児まで居る施設へ放り出された彼女は、当初どうしていいのか判らなかった。

 だがそこは子供だった。

 自分を見ようとしなかった母親にとって変わり、自分を見て話しかけ、注意してくれる「先生」。

 それ以外は自分と同じ「子供」。

 そこが自分のこれから生きて行く「家」。

 受け止めるまで時間は掛からなかった。

 だがまだその時の彼女には、「外の世界」があることまでは理解できなかった。

 それができたのは、小学校に入ってからだった。


「今、何言ったよ!」

 真理子は一人の男の子に掴みかかった。

「京子ちゃんが、何だって?」

「あー? 臭いもんは臭い、って言ったんだよ。お前等のとこじゃ、毎日風呂に入らせてもらえないんだろ、って」

 京子というのは、同じクラスに通う、施設仲間だった。

 真理子より後に入ってきた彼女は、当初、栄養不足のためか、肌も髪もぼろぼろだった。腕も足も細い。そして、何処となくいつも、背後を気にしている様なところがあった。

 育った環境は大して変わらないが、真理子は施設に落ち着くと共に負けん気の塊となった。

「うちじゃ、ちゃんと毎日入ってるわよ!」

「へー。あーそいや、お前もそーだもんなー。ん? そーいやお前も、何か臭いぞ。牛乳の腐ったようなにおいだあ」

 げらげらげら。周囲の男子は鼻をつまんで一斉に笑った。

「うるさい!」

 思わず、掴みかけた男子を突き飛ばしていた。

 机二台と椅子三脚と一緒に彼は吹っ飛んだ。

「もう一度言ってみな!」

 突き飛ばされた男子の友達が、慌てて近寄った。彼は頭でも打ったのか、気絶していた。

「おい尾原! お前何したんだよ!」


 それからが大変だった。

 担任教師と教務主任が飛んできて、気絶した男子を保健室に運び込むやら、救急車が来るやら、真理子と京子は職員室に呼ばれて足止めされ、施設から先生が呼び出され、軽い脳震盪を起こしただけ、という男子の家に出向いて謝罪するやら…


「…全く…」

 担任教師は真理子と京子、そして施設の先生の三人を乗せた車の中で、聞こえない程度の声でぶつぶつとつぶやいた。

 後部座席で真理子は、ミラーに今まで見たことの無い程不機嫌そうな担任の顔を見ることができた。

 男子の両親の前で、担任教師は、真理子と京子に、有無を言わせず頭を下げさせた。

「だって先生、あいつが」

 反論しようとする真理子に、担任教師はミラーの中とはうって変わった穏やかな表情で、

「尾原は彼にケガをさせただろう? そのことについては謝らなくてはならないね」

 その時真理子は思った。嘘つき。

 京子は自分にくっついたまま、ずっと震えていた。


 施設に帰ってから、先生は、騒ぎの詳細を二人に問いかけた。

 彼も予想はしていたのだろう。説明の途中で声が詰まりだした真理子の頭を優しくぽんぽん、と叩いた。

 横で京子がぎゅっ、と真理子の腕に抱きついた。

「…怒らない…んですか? せんせい…」

「だって君達はもう、ケガをさせたことに関しては、彼に謝ったし。僕には君等を怒る理由は無い」

「あ…いつ…うちじゃあ、まいにち、風呂に入ってないのか、っていった…」

「そんなこと、無いのにね」

 彼は悲しそうに目を伏せた。

「でも、そうやって見てしまうのが、ここ以外のところ、だからね」

「…そぉ…なの?」

 彼はゆっくりと分かり易い言葉で、二人に向かって、「世の中の不条理」について話した。

 言葉自体は分かり易いものであったが、真理子は彼の話すことの半分も判らなかった。

 いくら真理子が聡い子だったとしても、小学校二年の児童では判る話と判らない話があるのだ。


 それでも彼女もこれだけは理解できた。

 ここと「世の中」じゃ、あたし達に対する目は違うんだ。


 あたし達は、皆と違う場所から、走らされてるんだ。


 当時、ハンデという言葉を知らなかった彼女は、少し前の体育の時間を思い出した。

 皆が一斉にゴールにつける様に、と足の速い子はスタートラインを少し後ろにずらして走らされたのだ。

 あんな感じだ、と真理子は思った。


 あんな感じだけど―――

 別にあたし達は、足が速い訳じゃあ、ないのに。


 それから真理子は変わった。

 いや、パワーアップした、と言うべきか。

 幼いなりに彼女は「よのなかのふじょうり」に対して決意したのだ。


「だったら何か言われない様にすればいい」

「後ろからスタートされられても追い抜いてやる」


 負けず嫌いと遺伝的有能さがかみ合って、彼女はそれ以来、成績優秀、もめ事も起こさずに小中学校を過ごしてきた。


 ずっとかばってきた京子は、その細い身体とよく動く体を、「慰問」でやってきた小さなバレエ団を経営する女性に目をつけられ、引き取られていった。

「うまく行くといいね」

と真理子は京子の後ろ姿を見ながら先生に言った。本気でそう思った。

「そうだね」

と先生は答えた。


 真理子自身は、中学を卒業するまで施設に残った。

 「優秀な子を」という望みの引き取り手が無い訳ではなかった。

 しかし彼らの欲しいのは、自分達の言いなりになる「優秀な子」であって、ぎらぎらした目で自分達をにらみ付ける彼女ではなかった。

 それはそれで、構わなかった。真理子は自分のことは自分でするつもりだった。

 自分の手で、道を拓いて行くつもりだった


 卒業後、彼女は某家電メーカーの工場に就職し、付属の寮に住み込むことになった。そこの仕事は地味で単調だったが、給料は確実だし、社員食堂も充実していた。

 何より彼女が嬉しかったのは、寮が個室だったことだ。

 四畳半の大きさで、風呂・トイレ・洗面所・台所も共同ではあったが、それまで全くなかった「自分の時間」をそこでは持つことができた。

 「自分の時間」。人の目が全く無い場所。

 今までは、それが必要な時には、いちいち探さなくてはならなかった。

 たとえば放課後の学校の屋上に続く踊り場、たとえば帰り道のコンビニのかげ。トイレの個室、ベッドの中。

 だけどもう、探す必要は無かった。

 図書館で借りた本を読む時に、騒ぎ立てる仲間達の声に悩まされずに済む。ラジオの英会話を恥ずかしがらずに発音できる。


 彼女は仕事と食事が終わると、座卓にかじりついて勉強をしていた。

 高卒の認定試験に受かりたかった。

 大学に行って勉強したかったのだ。

 そして首尾良く入学できた暁には、会社は辞めるつもりだった。


 「年頃」というのに、色気一つ見せず、時間があれば本と勉強に明け暮れ、給料の大半を貯金する真理子を、寮に住む他の女達は、「真面目だねえ」と半ば感心、半ば呆れて見ていた。

「あたしなんかさぁ、高校出た時に、もうこんなもん、見たくないっ! って教科書とかむ、ゴミの日に出しちゃったもんね」

 そぉだよねえ、と何処かの一室や食堂、もしくは「娯楽室」と呼ばれる、二十畳ばかりの何の変哲もない、TVとビデオデッキ程度がぽん、と置いてある部屋で行われる「お茶会」で真理子は何度も言われた。

 そしてそのたび、彼女は笑顔でこう答えるのだ。

「もったいなーい。だったらあたしにくれれば良かったのにぃ」

 「それもそうだね」とか「あんたそりゃせこいよ」という声が、笑い声に混じって真理子の耳に入った。


 この寮の気のいい住人達は、上は五十代から下は十代まで居た。だがその明るさとは裏腹に、彼女達は皆、何処かしら苦労してきていた。

 例えば真理子の隣りの部屋の宮本は四十五歳だが、三年前に離婚し、ここに一人、入ったのだという。

「やっぱり安く住めりゃそれにこしたこたないよ」

 娘も息子も独立してるから安心だし、と彼女は大きく口を開けて笑った。

 そのまた隣りの中井は三十代前半だが、前に勤めていた会社が倒産し、社長が逃げて、最後の二ヶ月は給料がもらえなかったらしい。

「…ってなるとやっぱり安全な大企業よっ」

 末端だろうが何だろうが、安心できるにこしたことはない、と。なるほど、と真理子は思った。

 また、三つ年上の野辺山加子は、真理子同様、施設出の中卒だった。

 ほっそりとして静かな彼女は、食堂などでもその存在に気付かれないことが多く、食器を片付ける時に、「あれ、カコちゃん居たのかい」と周囲から言われる始末だった。

 マイペースという意味では、真理子といい勝負だった。だが彼女は、真理子と違い、勉強とは無縁だった。


 五時ですサイレンが鳴りましたさあ終わりです。

 真理子にとってはそこからが楽しみだった。

 自転車を持ち出してさあ図書館。そうでない時でもやることは幾らでもあった。

 内容はともかく、他の者にとっても「楽しみ」であるのは同じようで、誰かの部屋に集まったり、「娯楽室」でTVを見たり、もっと元気な者は、夜遊びに行く場合もあった。

 しかし加子はいつも食事と風呂をさっさと済ませてしまい、誰かが「お茶会」に誘ったりでもしない限り、まず部屋の外に出ようとはしなかった。既に寝ている、ということも多々あった。

 そしてまた「大企業の末端」では、週休二日も早くから導入されていた。

 週末となると、皆外に遊びに出た。

 晴れていれば晴れているなりに。雨ならば誰か、男性社員から車を出してもらって。


 その日は雨だった。

 真理子はレインコートと傘の重装備で図書館に出かけたのだが、結局は濡れ鼠で帰ってきた。

 んもう、と言いながら玄関でぱたぱたと水滴を払っていると、「娯楽室」のTVの前に加子が居るのが見えた。

 通りかかったら声がした。

「…あらマリちゃん…ずぶぬれね。だいじょうぶ?」

「こーんなに降るとは思ってなかったわよ! 風向きも変わったし強いから傘もさせなかったし! カコさん珍しいね、TV?」

 …ではなかった。ゲームだった。しかも。

「…五目並べ?」

「知ってる?」

「一応…」

 施設にはアナログな対戦型ボードゲームはそれなりにあった。

 特に囲碁・将棋といった伝統的なものは、先生や、やって来る大人達のためのものでもあった。

 五目並べはルールも分かり易く、彼女もよく遊んでいたものだった。

 だが加子ときたら。

「あらら」

 GAMEOVERの文字が出る。

「だめねえ…ぜんぜん勝てないわ…」

 ふう、と消えそうなため息をつく。

「ああそういえばわたしが起きたら、皆さん居なかったけど」

 既に時計は午後二時十五分を指していた。

「昼前に映画にでかけたわよ。ほら、ちょっと前にできた、ゲーセンやファミレスが横についた奴。奈崎さんがワゴン出してくれて」

「ふぅん…」

「加子さんは、何処か行かないの?」

「雨の日は、部屋の中にいるほうが好きよ」

 ふふ、と彼女は笑った。

「ほらこうゆう、みんな居ない雨の日って、音がよく聞こえるでしょう? 雨の音」

 雨の音? 

 真理子は耳を澄ませる。

 そういえば、結構ざあああああ、という音は大きい。

「こうゆうときって、何だか、この世に一人きり、って感じで好きなの」

「この世に?」

「そ」

 そしてまたふふ、と笑った。

 変なひとだ、と真理子は思った。

「そりゃあたしだって、時々は一人になりたいと思うけど」

「マリちゃんは勉強熱心だもんね」

「…いちおう」

 そして加子は再び五目並べをはじめた。しかし弱すぎる。どうしてそこに打つんだ! 真理子は思わず口出ししそうになった。だが。

「どうしてそんな、めんどうなことするの?」

 不意に加子は訊ねた。

「面倒?」

「勉強って…めんどうだし」

「あたしは―――大学に行きたいの、もっと―――」

「もっと?」

 のんびりとした口調で加子は問い返す。身体と目は画面と向き合ったままで。

「もっと―――」

 真理子は困った。

 どうして困るのか判らないままに、困った。上手く言葉にならなかった。

 もっと勉強したい。試験に受かって、何とか進学して、…資金は…奨学金は…授業料免除とか…とにかく手をつくして…そして…

「そうすれば、もっと、いろいろできるかもしれないし」

「って?」

 やはりのんびりとした声で、返された。

「…だって、…ここで一生働く気は無いし」

「そうね、マリちゃんにはものたりないかも」

 こん。

「でも、楽よ」

 真理子はぐっ、と詰まった。

「一度雇ったひとをそう簡単には辞めさせないし…あ、でも、わたしはわたしをもらってくれるってひとがいたら、うん、誰でもいいなあ。そのひとのとこで、のんびり奥さんしているのが一番いいなあ」

 そしてそうやって、昼間から一人でゲームでもやって負け続けても平気で、ただだらだらと時間を潰す? 

 そんなのまっぴらだ、と真理子は思った。

「あたしはそういうの…」

「別にマリちゃんはいいじゃない…」

 こん。画面に白番で「4」が作られる。…駄目じゃんもう負け、と真理子は思う。

「マリちゃんは偉いと思うもの。ほんと」

「…でも」

「でもわたしは別に偉くなろうとは思わないし」

 ああ、と小さく声が漏れた。

 再びGAMEOVERの文字が現れた。

「だめねえ、ぜんぜん勝てない」

 ふふふ、と笑いながら、加子は再びリセットする。

「同じような毎日をのんびり続けていくのが、いちばんいいわ」

 そしてまたこん、と音が雨音の中に混じる。

 真理子は黙って首を横に振り、自分の部屋に戻った。


 翌年。

「今までありがとうございました」

 と加子は静かに言って、頭を下げた。

 その顔には穏やかな笑みがいつも以上にふわりと広がっていた。

 門の外には迎えの車が待っていた。加子はもらった花束と共に、その車に乗り込んで行った。

 もう彼女が戻ってくることは無かった。

 望み通り、野辺山加子は、彼女をもらってくれる誰か、と結婚して、会社を辞め、寮を出ていったのだ。


「しかし辞めなくても良かったのにさ。ウチの会社、別に結婚したから辞めろとは言わないしさ」

 自室での「お茶会」で宮本はみりん揚を口にしながら言った。

「そんなこと言ったら、あたし等なんかとっちゃくれないだろ、ウチの会社。いいじゃないか。あの子はずーっと専業主婦になりたかったんだし」

「…専業主婦って、そんなにいいものですか?」

 真理子は口をはさんだ。英会話のラジオの途中で呼び出されたのだ。

 宮本は専用のマグカップにほうじ茶を注いでやった。

「そりゃあねえ」

 宮本より数歳年上の坂上がうなづいた。

「何たって、金は亭主が稼いできて、こんな世知辛い世の中には出ていかないで済むんだし」

「そうだよね。ここだからともかく、カコちゃんが他の企業とかで働いてたら、何か病気になっちゃいそう」

「家事は好きそうだし、いいじゃないか。あれだって立派な労働さ」

 宮本は大きくうなづいた。

「でもあんた、その労働を認められなかったんだろ?」

「ああ全く! ひとを何だと思ってたんだろうねえ。いやいっそそう言ってやりゃあ良かったかもねえ。わたしゃもうあくまでハウスキーパーだからね、とかさ」

 宮本は嫌そうに首と手を大きく振った。

 聞く所によると彼女は、浮気した亭主に子供ができてしまい、離婚したのだそうだ。

 亭主にも女にも怒りはしたが、家のローンも残っているし、この先生まれてくる子供には罪は無い、子供も独立しているし、ということで、慰謝料は殆ど取らなかったらしい。

「ま、わたしのことはいいさ。問題はカコちゃんさね。あの子に何もありませんように、だよ」

 言いながら拝む様な動作をする宮本に、坂上はババ臭い、と一言で片付けた。あんたに言われたくないよ、と宮本は即座に切り返した。

「けどまあ、私も同感さあ。堂上さんはどうかねえ」

 首を傾げる真理子に、同席していた中井が、カコちゃんの旦那さんよ、と付け足した。

「そぉだねえ。あのひとはいいんじゃないかなあ。確かに次長さんからのお見合いだったけどさあ、結構その後もお付き合いあったんだろ?」

「まぁねえ…あん時はびっくりしたよ。あのカコちゃんが朝帰り!ってさ」

「ああじゃあ、カコちゃんのアレ、ダンナは知ってたんだ」

 中井はぽん、と手を打った。

「アレ?」

 思わず真理子は問い返していた。

 ん? と彼女以外そこに居た三人は、顔を見合わせた。

「…え? カコちゃんの身体のことだけど」

「身体?」

 確かに強くはなさそうだけど、と真理子が思った時だった。

「ええと…マリちゃん、カコちゃんと風呂、一緒になったこと、…ない?」

 中井は何処か言いにくそうに問いかけた。

「え? ―――あ、無いけど。だって、あのひと早いし」

「そうだよねえ」

 三人はため息をついた。

「カコちゃんは早く食べて早く風呂入って早く寝てしまうし、あんたは遅くまで勉強して、皆の中でも最後くらいだもんねえ」

 宮本の言葉に他の二人もうんうん、とうなづいた。蛍光灯の光が、呼応するかの様にちかちかと震えた。

「あ―――とね。カコちゃんの身体って、ちょっと、…傷跡が、多いんだよ」

「傷跡?」

 どき、と真理子は自分の心臓が跳ねるのを感じた。

「うん…何かねえ。あの子も、まあ、あんたと同じで…ほら…」

「施設育ち?」

「うん―――なんだけどね。十歳くらいまで、親のとこに居たんだって。ただ、ほら、その親ってのが、ひどい奴でさ」

 宮本は口を大きく歪めた。

「そりゃあさ、わたしだって、ウチの娘や息子が…ま、別にあんたみたいに出来のいい子じゃあないからさ、イロイロやってきたし、叱る時に時には手も挙げたりしたたさ。けどね、それでも、…あれは無いだろ、って」

 真理子は大きく目を開けた。

「何かしては殴られ蹴られ、煙草押しつけられたりさ、ごはんもらえないこともしょっちゅうだったって。で、その親がカコちゃん置いて逃げてさ」

「大家さんが、一週間ほど新聞溜まってるの見付けて、おかしいと思ったんだって。で、開けたら、途端にどたどたという足音と、悲鳴が聞こえたの」

「慌てて中に入ってみると、部屋の隅でカーテンにくるまってぶるぶる震えている、カコちゃんが居たんだってよ。ずいぶんやせこけてたらしいってさ」

 代わる代わる三人は説明する。

「だけど…何で叫び声なんて」

「カコちゃんが言うにはさぁ」

 ふう、と宮本はほうじ茶にため息をぶつける。

「扉の音に、親が帰ってきたんだ、と思ったらしいよ。やっと一人になれてほっとしたのに、って」

 真理子は息を呑んだ。それは。

「まあさすがにそれなら、ねえ。わたし等その話、最初に当人から聞いた時、どうしたもんか、と思ったもんねえ」

「だけどカコちゃんがえらく淡々と言うから、…ねえ」

 三人は顔を見合わせた。

 何も、それ以上言うことができなかったのだと言う。

「だから、カコちゃんが一人でぼーっしていたら、そっとしておくことになってたの」

 中井は苦笑した。そうだったのか、と真理子は思った。

「マリちゃんは…そういうことは」

「えー…と、そこまでひどくは無かったし」

 母親は、確かに自分に何もくれなかった。だがとりあえず暴力は振るわなかった。

 それだけでも、ずいぶんましだ。

 おかげで彼女の闘争心の芽はきっちり保存されていた。

「全く、ねえ。何が一体まずいんだろうねえ…」

「ワタシは家庭持ったこと無いから知りませーん」

 三十代前半独身の中井はそう言ってみりん揚に手を出した。


 やがて真理子は、彼女の思い描いていた通り、認定試験に合格した。

 その翌年、大学にも合格した。

 会社を辞め、貯めたお金を学資とし、本格的に学生生活に入ることにした。


 ―――東日大学教育学部児童福祉学科学生。


 それが新しい彼女の肩書きだった。

 学部を卒業するまでの四年間、彼女は奨学金と授業料免除の資格を手に入れ、なおかつその上で、可能な限り多くの講義や演習を取った。

 奨学金の延長を承認され、大学院の方に進むこともできた。

 その院生も残り半分、となった時に、彼女は学生課から、呼び出しを受けた。


「何でしょう?」

「ああ尾原さん、ぜひあなたに頼みたいことがあるの」

 は、と彼女は首を傾げた。

 貧乏学生の真理子にとって、学生課は馴染みの場所だった。

 割のいいバイトの申し込みだの、授業料免除の書類だの、奨学金の申し込みと確認だの、様々な用件で学生と院生の合計五年間、この場所を訪れた。

 そして自分にいい条件を勝ち取るまで、粘りに粘った。

 結果、この学生課長の女性は真理子を特に気にする様になった。就職先のことも、彼女は前年から心配してくれていた。

 通された応接のテーブルには、コーヒーと一冊のファイルが置かれた。

「実はね、今年いっぱいで、うちの系列の『向日葵園』に欠員が出るのよ」

 ソプラノの声は、実に嬉しそうだった。

「…『向日葵園』?」

「初耳かしらね。これでも一応うちの…東日本グループ系列なんだけど」

 そう言いながら、やせた、皺がちの白い手が、ファイルを開いた。

「ほら、ここ」

「施設…ですか」

「ええ。グループが、捨てられた赤ちゃんを引き取って育てているの」

「…赤ちゃん?」

「ほら、コインロッカー・ベイビーみたいな。あんな風に、捨てられた子供とか、産んだけど育てられない子供とか、とにかく身寄りのない乳児をこの園では十二歳…小学校卒業まで、育てるの」

「小学校卒業、までですか?」

 確か自分の育った所は、中学卒業までだった、と真理子は思う。

「ええ。うちの付属に通う訳だし。中学校からは寮があるでしょう? そっちへ移るのよ」

 なるほど、と真理子はうなづいた。

「確かにこの大学も、免除制度とか、奨学金とか、色々豊富だから、ってことで選んだ部分もあるんですけど…」

「正直ね」

 くす、と学生課長は笑った。

「でもそういうこともしているんですね」

「もしかしたら能力が高い子が居る可能性もあるのに、埋もれさせるのも何だし、ということじゃないかしら?」

 だとしたら大したボランティアだと思う。

 確かに優秀な人材を育てて東日本グループの何処かの社員にする、というのも考えられるが、リスクも大きいのではないだろうか。

 東日本グループは、真理子も知っている、日本でも有数の企業体だった。

 大学とその付属学校、病院などの関係施設もその傘下にある。大学自体、マンモスな総合大で、各地にキャンパスが置かれていた。

「あなたなら大丈夫じゃないか、と思って。それに、単に教師になろうと思っただけなら、あなたが必要以上の免許取ろうとしているのも何だし」

「…って」

「だって取っている授業を調べれば、何の資格が欲しいかなんて一目瞭然だわ。ねえ」

 にっ、と学生課長は笑った。

「ちなみに初任給はね…」

 こそ、と学生課長は耳打ちする。え、と思わず真理子は声を上げた。

「何ですかそれは!」

「だから専門職だし。それにできるだけうちの卒業生から、というのが向こうの意向でもあるのよ。しかも住み込み。食事つき。ちゃんとローテ組んで休みもあるわ。どう?」

「それは…美味しいですね」

「でしょう?」

 彼女は大きくうなづく。

「まああなたがプライべートをものすごーく重んじるひとで、耐えられない、って言うなら、第二候補のひとにに回すだけだけど」

 真理子は軽く苦笑した。

「でもあなたならできると思うけど?」

 そう言われて、NOと言える彼女ではなかった。


 そして四年。

 彼女はすっかり「向日葵園」の「若いけど優しくて厳しい先生」になりきっていた。

 少なくとも―――彼女はそう思っていた。


「こらカナ! あんたはまた遅くなって!」

「アタシしたよ! 電話したよ! マリコ先生が聞いてないんだろ!」

「聞いたわよ。だけどその時間を考えたの!」

 あ、とカナと呼ばれた少女は口を塞いだ。

「連絡して遅くなるのはいいの。だけどできるだけ早くそれをしないと、皆の食事が遅れるの。忘れていた?」

「…はい」

「明日朝、皆に謝るのよ」

「はーい」

 少ししょげたカナが解放されると、ユキと呼ばれている少女がとことこ、と近づいて、どうだった、と肩を抱く。

 その様子を見ながら、真理子はふう、と息をついた。


 彼女の担当は主に小学校高学年の子供達だった。

 体力のこともあるが、話題が大人に近づいた彼らの場合、「現代の話題」についていける若いひとの方がいいのだ、と言われて配置されていた。

 「五年生」の歳の子八人と、「六年生」の子五人。計十三人を、彼女とあと二人の「先生」が担当している。

 そして目下の問題は。


「…さて今日は、もう一人、か…」

 消灯時間は既に過ぎていた。

 暗い廊下の窓がそっと開く。そして人影。飛び降りる音。

「ちょっと待った」

 ぱっ、と少年の顔にライトが当てられる。

「…ちっ」

 小柄な少年が、大きな目を細めつつも、真理子の方を真っ直ぐにらみ付けていた。

「これで何度目だと思ってるの! クニ!」

 真理子は腕組みをしてクニと呼ばれた少年に、音量を落として詰問する。

「しかも」

 くい、と彼女はクニのジャージの胸ぐらを掴みあげる。な、何だよ、と彼は焦る。

「…キャビンだね」

「セイラムだよ…っと」

 ばーか、と真理子はぽそっとつぶやき、彼を廊下に下ろした。

「まあいいわ。ちょっとおいで」

 彼女はクニを手招きし、自室へと連れていった。

「お説教なんかやだぜ」

「説教と聞くかどうかは、あんた次第だけどね」


 真理子はコーヒーを入れて、テーブルにつかせた少年の前に置いた。

 彼女の私室は広かった。

 いや、職員だけでなく、この施設全体が広く、設備も充実していた。

 普段彼女は子供達と入るので使わないが、この部屋には個人用のバスまでも備えられていた。

「…苦い」

「だったら砂糖やミルクが要る、って言うの。言わなくちゃ、判らないでしょ」

「じゃあ、両方」

「両方下さい、でしょ」

「両方下さい。これでいいんだろ」

「OK」

 にっ、と笑って真理子は両方を彼に差し出した。

 ようやく飲める程度になったらしく、ふう、と彼は息をつく。

「大人ぶってもブラックが飲めないんだよね」

「マリコ先生うるさいよ。もうババアだからって」

「あ、言ったなー。まあ確かに、あんたに比べればババアだけど、それでも世間じゃあまだ小娘だよ」

「小娘、がそんな言葉つかいしていていいのかよ。嫁のもらい手が無いぜ」

 真理子は肩をすくめた。一体何処でそんな言い方覚えて来たのやら。

「あんた等の世話してたらこうなったの」

「オレ達の?」

「そ。悪ガキにお上品な言葉が通じるならそれもいいけどね」

 そう言いながら、彼女はぽっかり空いたクニの口にたまご色のバームクーヘンのひとかけらを押し込んだ。

「あーんまりあたしに縁が無い様だったら、あんた達、責任取りなさいよ」

「…くそ」

 そう言いながら、もぐもぐと彼はバームクーヘンを噛みしめた。

 あきらかなえこひいきだ、と思いつつ、彼女はこの通称クニ、本名は高岡邦明という少年が結構気に入っていた。

 何が、と言う訳ではない。ただ、異質だったから。

 この施設の子供達は、たいがい頭も良く、彼女達「先生」を悩ませる様なことはしない。

 それこそ、このクニ、先程の「カナ」こと田町香奈、その仲良しの「ユキ」こと長崎有希恵の三人くらいなものだった。

 ことにクニと同じ現在の六年生は、呆れる程優秀だった。学校でもいじめられることなど何処の話、という程、彼らは一目も二目も置かれていた。


 もっとも、大学付属小学校では、園の子供達が居るのは当然のことだし、しかもその半分以上が学業やスポーツ、もしくは芸術などに秀でた能力を示している。

 「施設の子だから」いじめられるということはまず無かったのだ。

 逆に、「あそこで育ったから」優秀なんだ、と価値観を塗り替えている様にも、授業参観に行った真理子には感じられた。

 しかしそんな中にも例外というものは居る。それがクニであり、カナやユキだった。

 この三人は、あの学校でなかったら、自分や、京子が受けたくらいのことは、日常茶飯事となっているだろう。

 それだけに、真理子はこの三人が格別気に掛かった。

 それがえこひいきだと言われたら、…仕方が無い。

 今になってみれば判るのだ。

 確かに自分は、目標を決めて、それに突進して…道を切り開くことができた。

 だが中には、目標が見えない者が居る。

 目標があって努力しても、どうしても身につけられない者も居る。

 向けられた期待にどうしても馴染めない者も居る。

 あの工場の寮で、彼女はそんな人をたくさん見てきた。

「あんたはね、クニ。もう少し要領良くやればいいのに、って時々思うんだけど」

「要領?」

「ん? そーね、さっきのセイラム、じゃないけど」

「皆だって、ホントはやってるんだぜ、知らないのかよ」

「まーね。トシもリョウもやってることくらい知ってるよ。ただあいつらの場合、嫌んなるくらい、証拠が出ない隠し方と、クセにならない程度、ってのを知ってるんだよね。つまり、あたしに口出しさせないアタマがあるって訳」

「へー」

「けどあんたには、それはできないでしょ」

「…」

「別にけなしちゃいないよ。逆」

「何でだよ」

 彼はくわっ、と口を大きく開けた。

「や、…あたしが昔、あいつ等みたいなガキだったからかなあ」

 あの頃の自分は、端から見て子供らしくない奴だっただろう。

 真理子はここの仕事を始めてから気付いた。

 それだけに、この子供子供した三人には、そのままで居てほしい、と思ってしまうのだ。

 周囲の目のために生きるのではなく、不器用は不器用なりに、自分の好きな様に。

「じゃあ何、マリコ先生も、昔はあいつらみたいな口振りでさあ、ガッコの先生達とニコニコ話してたわけ?」

「必要だったらね」

「…オレさあ、あいつらの笑いって嫌なんだ」

「嫌?」

「何か、…やだ。ええと、何か、前、ほら、ニュースん時」

「あんたよくニュースなんて見てたね」

「うるさいよ! …何かどっかの国の、子供達がアコーディオン弾いてたんだけど…何っかもう、ものすっごい笑顔なんだよね」

「楽しそうで、いいじゃないの」

「じゃなくて!」

 どん、とクニは両手を握りしめ、テーブルの上に置いた。

「何か、すごく、怖かったんだ」

「怖かった?」

「だって、顔が笑ってるんだけど…全然、笑ってる様に、オレには見えなかったんだ」

 ああ、と彼女はそのニュースがどの国のことを示しているのか、気付いた。

「まああれは…つくり笑いだからね」

「あいつらの笑いって、あれに似てる。オレ、ああいうの、やだ」

「…そうだね、あたしも嫌だよ」

 真理子は眉を軽く寄せた。

「だけど、止めろとも言えないよ」

「何で」

「あいつらはあいつらなりに必死なの。あんたとは違う方法だけどね」

「あいつらなりに…?」

 彼は大きな目を一杯に広げた。

「だって、あいつら、何だって良くできるじゃんか! どうして」

「だから、そうしないといけない、って思ってるんじゃないか…? あたしは昔そう思ってたけど」

「マリコ先生が?」

 うん、と彼女はうなづいた。

「でも、…ね、やっぱり、子供の時に、子供の時間を過ごしておきたかった、って思うよ。時々ね。―――ってあんたに言うと、またつけ上がるか」

 ははは、と彼女は笑った。

 ううん、とクニは首を横に振った。

「マリコ先生はそんなこと、ないよ」

「ふうん?」

 彼女は軽く目を細め、自分のコーヒーに口をつけた。もうずいぶん冷めていた。

「な、おい、先生が、オレ達のせいで、嫁のもらい手が無いんだったら、オレが、大きくなったら、もらうから!」

 ぶっ、と彼女はコーヒーを吹き出しかけた。

「なななにをいきなり」

「駄目かなあ」

「…ババアって言ったのは誰よ」

「ふん、オレ付属中行ったにーちゃんに聞いたんだからな。年上のオンナを夢中にさせるのが、いい男なんだってさ」

「…あんたねえ」

 ほら食いなさい、と彼女は残りのバームクーヘンの乗った皿を、彼の方に突き出した。

 きっと本気で言っているのだろう。だがいつか薄れて行く。そういうものだ。

 だがいくら子供でも、男からそう言われて悪い気持ちではない。彼氏いない歴27年の彼女としては―――


 翌春、五人の子供達は、園を出て行った。

 真理子は新しく担当になった子供達の世話に、春先から毎日忙しく働いていた。新五年生は六人。少女が多かった。


 そんなある日のことだった。


「先生…」

 昼を少し過ぎた頃だった。振り返ると、泣きじゃくるカナと、それにぴったり寄り添うユキが居た。

「どうしたの? カナ…こんな時間に」

 カナは言おうとするが、喉が引きつって言えない。代わりにユキが答えた。

「先生、これ、保健の先生から」

 大きな黒い瞳をやや不機嫌そうに開き、ユキは封筒を突き出した。

 手紙には、カナに初潮が来たことが書かれていた。ああなるほど、と真理子はうなづいた。

 こういうことはよくあった。

 自分の頃と比べても、この頃の子供達の初潮は早い。三年生で始まる子も結構居る。

 とは言え、やはり個人差はある。それでも身体に丸みを帯び初めていたカナと比べてユキは未だ、少年の様な体つきだ。中学に入れば徐々に変化していくのだろう。

 けどね。

 少しだけ真理子は淋しい気持ちもする。

 高学年を担当する、ということは年々こうやって、馴染んだばかりの子供達と別れていかないといけない、ということだ。

 そう言えば。

 ふと彼女は思う。

 クニはちゃんとやっているだろうか。もうじきゴールデンウイークだ。顔を出すかもしれない。いや、その前に、一度こちらから中学の寮に様子を見に行くのもいいだろう…

「先生、カナちゃんだるいって」

 そんな真理子の考えを切り裂く様に、ユキは言葉を放った。

「あ、ああ、そうね、じゃあ食事は持ってってあげるから、今日は好きなだけ寝てなさい」

 こくん、とカナはお下げ髪を揺らせてうなづいた。ユキはそのままカナを部屋に連れて行こうとする。

「ユキ!」

 少女は振り返った。

「カナを連れてきてくれたのはいいけど、あんた、授業は?」

「つまんない」

 ぼそ、とユキは答えた。

「つまんない、ってあんた」

「だって」

 それきりユキは黙った。

 黒い大きな瞳が、瞬きもせずにじっと真理子を見据えた。

「…宿題は、ちゃんとやるから」

 そう言って、ぷい、とユキは背を向けた。

 これ以上今は言っても無駄だ。真理子は思った。

 ユキは必要以上の口もきかないし、けた外れに強情だ。

 そこが好きでもあったが、新年度が始まって以来、その傾向は強まっていた。

「判った、じゃあ静かにしてるんだよ」


「…え?」

「だから先生、クニはここには居ないんだってば」

 トシこと松村俊和は玄関先で、面倒臭そうに言った。

 すると「あ、先生じゃないですか」とリョウこと橋詰良一が寄って来た。

「どうしたんですか? お久しぶり」

「マリコ先生、クニに会いに来たんだ、…ってさ」

「…え?」

 リョウの表情が変わった。彼は昨年の五人の中でも最も優秀な子だった。小学校でも成績は学年トップクラスだったという。

「なあ、…ってことかなあ」

「…かもな…」

 二人は顔を見合わせた。

「何よ二人とも。あたしには言えないこと?」

「…と言うか…」

 おや、と真理子は思った。

 正直、それまで彼らのそんな表情を、彼女は見たことがなかったのだ。

 彼ら二人と、女子二人。

 真理子はこの四人が焦ったり戸惑ったりした顔を見たことが無かった。だから「先生」としては「楽」だったし、その一方でクニが指摘する様な微妙な気持ちになったりもした。

 …しかし。

「ええと、先生、サワとミナには会いました?」

 切り出したのは、リョウの方だった。

「え? まだだけど」

「じゃあ、今から皆で、ちょっと、外出ませんか?」

「外?」

「別におごってくれなんて言いませんから」

「相変わらず失礼だね!」

 だが二人とも、そこで笑いはしなかった。


「先生!」

「あ、先生だ」

 呼び出されたサワこと倉瀬佐和とミナこと布施美奈もまた、記憶に無い表情で彼女を見た。

「今リョウが、外出許可取ってるからさ」

「いいの? だってあたし等」

「いいだろ、先生保護者だし。少なくとも、去年まではかんっぜんに保護者だったんだしさ」

「そうね…」

 サワは口に指を当てる。困った時のこの子のクセだ、と真理子は気付いた。

 一体彼らはどうしたのだろう。クニを訪ねて来たことがそんなに妙なのだろうか。

「おーい、大丈夫だ」

 リョウが四人の外出許可を取った、と共通舎監室の扉を開き、現れた。

「大丈夫だったか?」

「ああ、マリコ先生の名出して、一発」

 リョウは親指を立てる。

「こいつ、もう生徒会から目ぇつけられてるんだぜ」

「へえ…」

「ま、当然っていや、当然だしー」

 ミナは頭の後ろで手を組んだ。

「ともかく、出よう。話はそれからだ」

 OK、と三人はリョウに向かってうなづいた。以前からリーダー然としていたが、それが強くなった様だった。

「じゃあどっか近くのお店に…」

「あ、先生、今いい映画が出てるんです」

 不意にリョウは大声で真理子の言葉を遮った。

「映画?」

「あ、それいいね」

「うんうん」

「あーでも、確かお前、ホラーの方って言ってなかったか? オレ冒険の方がいい」

「そうか? まあオレはお前の好きな方でいいよ」

 女子二人もホラーは嫌、ということで意見は瞬く間にまとまった。

 そのテンポの良さに、真理子は唖然とするばかりだった。

 この子達は、以前からこんなに気が合っていただろうか、と。

「じゃあバスで…」

「映画館のあるあたりなら、市内均一料金で大丈夫ですね」

「小学生じゃなくなったから、運賃、あがっちまったんだよなー」

とぶつぶつ言いながらも、皆やってきたバスへ乗り込んで行く。


 十分程度で目的地には着いた。

 確かに映画館もある。だがリョウは映画館を通り越して、こっち、と手招きをした。

「…映画に行くんじゃないの?」

「おいリョウ、先生、やっぱり、何も知らないんだなあ」

「だよねー、変だと思ってたけど。でもセンセイだと思ってたのに」

「だから、わたしもあまり、近づかないでおこうと思ったのに…」

 え、と最後のサワの言葉に真理子はぎょっとする。

「な」

「マリコ先生、映画は方便です。オレ達、隣町まで来たかっただけですよ」

 リョウはそのままさくさくと足を進めた。

「まあオレ達が居ておかしくないと言えば、こんなところですか」

 セルフサービスのコーヒーショップの前で彼らは立ち止まった。

「適当に席、とっておいて下さい。…買いに行くけど」

「あ、あたしも行く」

 立ち上がり、サワはテーブルの上のメニューを出すと、何がいい? と問いかけた。

 皆で口々に好みのものを言うと、行ってくるから、と二人は足早にカウンターの方へ向かった。

「マリコ先生、あいつら、付き合ってんだ」

 テーブルに肘を立てて、トシはにやりと笑った。

「付き合って?」

「前々からそーゆー感じはあったもんね。でもイイんじゃない? お似合いだしさあ。オレとミナってのはあんまりだけどさー」

「あたしもあんたなんかやだよ」

「お、気が合ったな」

「で、でもそんな素振り…」

 二人の掛け合いに真理子は何とか割って入る。

「だってオレ達、マリコ先生には隠してたからさあ」

 え、と真理子は声を漏らした。

「まさかさー、マリコ先生が、何っにも知らない、って思わなくってよ」

「悪かった、と思ってるの。ごめんねー」

「あいつら、って…」

「んー? だから、園の、センセイ達」

 トシの言う「センセイ」という言葉は、明らかに真理子に対するものとは異なった響きがあった。

「…で、クニも、何も知らなかった」

「ん」

 こくん、とミナはうなづきながら目を伏せる。

「知らなかった知らなかった、って、…あんた等一体」

「あ、帰ってきた」

「ただいまあ」

 トレイの上には飲み物や焼き菓子、ポップコーンといったものがどっさりと乗せられていた。

「ちょっとリョウ、一体、あたしが、何を知らないと言うの?」

「まあ落ち着いて下さい、マリコ先生」

 そう言いながら、リョウは真理子につ、とラテを勧めた。

 彼女は微妙な苦みのあるそれをすすりながら、冷静になろう、と努力を始めていた。

 どうやらこの「子供達」は自分の知らない、そして自分にとっては何かショッキングな―――そう、昔、野辺山加子の身体の話を聞いた時の様なことを言おうとしているらしい。


「まず…そうですね、マリコ先生の一番知りたいのは、クニの行方ですよね。でも正直、オレ達も、何処に行ったのかは知らないんです」

「知ってるのは、クニはオレ達と同じ中学には行けなかった、ってことだけ。予想はしてたけど」

 言いながらトシは、椅子の背に、背中と両腕を投げ出した。

「予想…してた?」

「だってマリコ先生、クニは、頭良く無かったもん。スポーツも普通だったし、これと行った特技も無い。じゃあ、中学には、行けないよ」

 ミナもまた、当たり前の様に言う。

「そんな訳ないでしょ!」

「あるんですよ」

 静かに、という様に、リョウは真理子の肩を押さえた。

「オレ達、あそこで育った子供は、だんだん気付くんですよ。とにかく何かに秀でていなければいけないって。そうでなければ、あの中学校の寮には行けないって。マリコ先生、三年も居たんだし、知ってると思ってましたけど…」

「知らなかったのね…」

 サワはため息をついた。

「でも、じゃあ」

「ごめん、本当に、その先は、オレ達にも知らないんだよ」

 苦々しげに、トシは両手を組み合わせ、そこに視線を据える。

「オレ達の先輩に、タマミさんって居たでしょ」

「あ、…ああ、居たね」

 最初の年に担当した子供の一人だった。

 大柄で、腕っぷしの良い少女だった。

 頭は良くないが、下の者の面倒見が良かった、という記憶がある。

 ただまだその頃は、真理子自身、仕事に慣れるのに精一杯だった。子供達一人一人に情を移らせる余裕も無かった。

「オレ、その時まだ四年だったけど、あのひとのことはとっても好きで、会いたくて、中学まで訪ねてったんだ。そうしたら、やっぱり他の先輩から、言われたんだ。『居ないんだ、連れていかれたんだ』って」

「連れて?」

「…ねえマリコ先生…わたしたちって、飼われてるんです」

 サワは静かに言った。

 真理子はからかうんじゃない、と言おうとした。

 だが実際には、その言葉は出て来なかった。

「生まれてすぐに放り出されたわたしたちは、拾われて、飼われてるんです。そして中に上質なものがあれば、それなりに生かしておくし…」

「そうでなけりゃ…」

 ミナは口の端を上げ、首の所で手をすっと横に引いた。

「…冗談は…止しなさいよ」

「冗談じゃないですよ。具体的に何処に行ったのか、まではオレも知らないけれど、クニがオレ達とは違う利用目的のために連れて行かれた、ということは確かです」

「利用目的…」

「それが、何であるのかは判りませんが…ただ、まず会えないことは、…先輩達の話からして、確かだと思います。探しようも無いし、探しているってことが判ったら」

 リョウは首を横に振った。

「だからこんなとこまで、わざわざ出て来た、って訳?」

「そ」

 トシは短く答えた。

「オレ達は、先生と映画見に行ってるの。だからできればそっちも付き合って欲しいな。何処かでボロが出ない様にさ」


 結局、五人で冒険ものの映画を観て寮に戻って来た時には、夕方になっていた。

「…それじゃ、また」

「先生」

 リョウは片手をすっと挙げた。そして低い声でつぶやいた。

「できるだけ早く、あの園から、出た方がいいですよ」

 じゃ、と彼らは素早く身を翻し、建物の中に入って行った。


 その夜、真理子はなかなか寝付かれなかった。

 彼らの言っていたことは、あまりにも信じがたく、それでいて、妙に真実味があった。

 ああ駄目だ駄目だ。眠ろう。眠って、明日またしっかり考えよう。

 そう思うのだが、やはり眠れない。

 思い切って彼女は身体を起こすと、ハーブティーを入れよう、と起きあがった。

 灯りをつけよう、と電気のスイッチに手を伸ばした時だった。


「…誰?」


 こんこん、と小さな音がした。

 窓の外に、誰か居る。彼女はぞっとするものが背中を走るのを感じた。泥棒?

 注意しつつも、おそるおそる、窓を開けた。

 風の無い、五月の夜は、少しだけ空気が湿っている。

 彼女は身を乗り出し、辺りをきょろきょろと見渡した。

 月の無い夜だった。

 常夜灯の光は、彼女の部屋の前の樅の木のせいで、半分以下しか届かない。安全対策に全くなっていない。

 彼女は再び電気のスイッチに手を伸ばした。

「点けないで!」

 低い声が、した。男の―――声だ。

 ひっ、と彼女は息を呑んだ。身体がこわばるのが判る。

「先生…オレだよ」

「…だ…誰?」

「オレ…クニ…」

「クニ?」

 彼女はすぐに窓辺に駆け寄ろうとした。

 だが、はたと足を止める。クニはまだ、三月の卒業の時には声変わりもしていなかったじゃないか。

 確かに思春期の少年の発育は早い。いきなり変声期が来たのかもしれない。

 だが今、真理子の耳に届いた声は、そんな変わったばかりの少年の声ではなく、大人の男の声だった。

「そんなはず、ない! クニはまだそんな声じゃなかった!」

「オレだよ先生! ホントなんだ、ホントなんだ! お願いだから、少しでいいから、…そうしたら、オレ、すぐに、行くから」

「行く…?」

「逃げる前に、先生に、会いたかったんだ…」

 大人の声なのに。最後の方が、詰まっていた。泣いている様に。

 彼女は劇場用の小さなペンライトを持つと、そっと窓辺へと近づいた。

 男が一人、うずくまって、泣いていた。

 彼女はそっとその上に光を向けるせる。

 ゆっくりと、光度を強くして行く。男はそれに驚いて、顔を上げた。

「!」

 真理子は思わずペンライトを落とした。

 かつん、と小さな音がして、光が消えた。

 男は立ち上がった。

 高い背。180センチはあるだろう。肩幅も広い。筋肉も…

 だが。

「…クニ…クニなの…」

 真理子は呼びかけた。

 あの顔。びっくりした時に見開かれる、大きな丸い目。間違えない。

 最初に「えこひいき」したくなった子供。

「…うん」

「窓を、乗り越えてらっしゃい。…できる?」

 うん、と彼はうなづいた。

 部屋の中に入って来た彼は、思った以上に大きかった。

「一体…どうしたのこの…」

 身体は。

 最後に会った時の彼は、150センチくらいしかない、やせっぽちの子供だったはずだ。なのに。

 彼は頭を大きく振る。

「知らない…わからない…オレが聞きたい…」

「そんな…」

「オレ、中学の寮に引っ越すんだと、ずっと思ってた。だけど、女子二人と、あいつら二人、でオレ一人で車、別れちゃって…何か眠くなって、気が付いたら、何か、変なとこに居て…」

「変なとこって」

「わかんない。変なとこ。誰も居ないんだ。部屋はあるんだけど、中には何も無くて、一人で…そこで毎日、誰かがどこそこへ行け、って、何処かから言うんだ。で、帰ってきた時にごはんがあって。また何処かへ行って。時々すごく眠くなって…」

 何だそれは? 真理子は問いかける言葉がなかなか見つからなかった。彼は続けた。

「窓はあるから、朝とか昼とかってのは判るんだ。でも窓から見えるのはコンクリの壁だけだし、時計もカレンダーもTVもラジオもなくて。ただもう、その朝、どっかから聞こえてくる声のとおり、廊下を進むと、外の広い場所に出て…」

「出て? それが何処だか判るの?」

 彼は首を横に振った。

「判らない。でもオレが出ると、そこが閉められてしまうんだ。オレ戻れないんだ。それで外は何かだだっぴろいとこで、…暑いんだ」

「暑い?」

「夏みたいに」

「夏みたいに?」

「オレ、だから、喉が乾くんだ。だけど、何処にも水なんて無くて。そうすると、何処かから水が現れるんだ。取りに行こうとするんだ。だけどそこまで遠くて。遠いけど、それでも喉乾いたから、取りに行こうとすると…何かが、爆発するんだ」

「ば」

 くはつ? 

 唐突に、現実感が彼女の周りから崩れて行く。

「オレ、それで死ぬのかと思った。だけど何ともない。でもケガはするし、痛いんだ。痛いのは嫌だ。嫌だから、じゃあどうしようと思ったら、何か近くに、銃が置いてあるんだ。どうやって使っていいのか判らないけど、とにかく持って、そろそろと進みながら、いやな感じがする時に、撃ってみたんだ。そうしたら、何か当たった。オレを狙ってた」

「それ…って」

「オレ、撃ち方なんて、知らないのに」

 そうだろう。まさか。これは冗談だ、と真理子は誰かに言ってもらいたかった。

「でもオレは知ってた。オレの身体が勝手に動いた。オレは水が取れるんだ。そうしたら、また扉が開いて、部屋に戻れってどっかで声がするんだ。…曜日とか…日にちの感覚が無くなって、しばらくした時、オレ、窓から外を見ようとした時、何か、楽に見れるなあ、って思ったんだ。だって、来た時には、オレ、背伸びしてたのに」

「それって」

「うん」

 彼はうなづいた。

「オレの身体が、こんなんなってた。…ずっと誰とも喋ってなかったから、…逃げ出した時…人を脅してきたんだけど…オレ、自分の声にびっくりした」

「よく…逃げられたね…」

 真理子は彼の顔を両手でくるんだ。

「…まだ、逃げてるんだ。ううん、また逃げなくちゃ。それに、一週間前よりオレ、何かまた、大人になってる…」

 そっ、と大きな手が、真理子の手の上に重ねられた。

「急がなくちゃ、いけないんだ。でも、その前に、マリコ先生に会いたかったんだ」

「…」

「確かめたかったんだ。オレ。あんたが、知ってたのか、知らなかったのか」

「そんな…」

「うん。あんたは、知らなかった。わかったから、オレはもう、いいんだ。よかった」

 真理子は、一瞬、強い腕が自分を抱きしめるのを感じた。強い強い力だった。

 呼吸が止まるかと思うほど、強い力だった。

 意識が遠のいて行く―――


「大好きだったんだ」


 翌朝。

 あれは夢だったのではないか、と彼女は思った。思いたかった。

 だが窓には鍵が掛かっていなかったし、カーテンも半開きだった。

 それに、パジャマの上にカーディガンを着たままでベッドに入るということはまず無い。

 それに何よりも、強い強い腕の感触が、残っている。

 あれは現実だった。

 しかしあれが現実ならば、現実だと言うのなら。


「…変な夢だったんですよ。クニが出てきて」

「あらあ。そうねえ、あの子、真理子先生、あなたのお気に入りだったものね」

 先輩格の職員に、洗濯物を畳む作業をしながら、さりげなく話を振ってみた。

「昨日、リョウ達と映画見に行ったせいだと思いますけどね…彼一人居ないし」

「そうねえ。ま、可哀想だけど、仕方ないわね」

「そうですね。あたし詳しくは知らないんですけど、吉野先生はご存じですか? どうやって、あの子達、使われてるんですか?」

 できるだけさりげなく。

 この言葉を使うのはなかなかに苦しかったが。

 だがさすがに先輩格の彼女は、それが当然、という口調でこう言った。

「そうねえ。私も良くは知らないわ。でもうーん、訓練の後、海外に、とか言ってたから、そういうことなんじゃないかしら」

「そういうこと、ですか。はあ確かに」

「ね」

 それで吉野は納得した様だった。

 大量の洗濯物。取り込んだばかりのそれを、どんどん畳んで行く。積み上げて行く。当たり前の光景。

「ほら、ねえ、あの子達って、他に使い道なんて無いでしょうに」

 当たり前の様に、吉野は言った。そして「ね」と同意を求める。

 真理子はそれには気付かなかった様に、急に立ち上がった。

「あ、やだ、これ、上手く汚れが取れてない」

「あらそう?」

「あたしちょっと、これだけ洗い直してきますね」

 さっ、と彼女はその場から立ち上がった。

 どうにもならない感情が、喉元からあふれ出してきそうだった。

 皆の話をまとめれば。それを全部信じていいとするなら。

 彼女は洗面所のバケツの中に、汚れたはずのタオルを押し込んだ。

 本当は何処も汚れていない。

 だが彼女は部分洗い用の棒石鹸をそこになすりつけた。とにかくうつむいて、手を動かしていたかった。冗談じゃない。


 一体あたしは―――


 退職願は意外な程あっさりと受理された。

 「長距離恋愛をしている恋人と結婚するので、その準備のため」

 適当な口実だった。


「…残念ですねえ」

 眩しい程の頭の園長は、いつもと変わらない穏やかな笑顔でそう言った。

「尾原先生だったら、彼らを強い子供に育ててくれると思ったのですが」

 それはここに就職が決まった時にも言われたことだった。あなたの様な意思の強いひとなら、強い子供を育ててくれそうだ、と。

 そうかもしれない。そうだったかもしれない。

 けど。

「ま、ひとにはそれぞれ事情がありますからねえ」

「…すみません」

「ああ、そう言えば、あの子、捕まったそうですよ」

 園長はさらりと言った。一瞬、心臓が跳ね上がった。

「は? 何のことですか?」

 真理子はできるだけ冷静な声を絞り出した。

「…いや、こっちの勘違いですね。お幸せに、尾原先生」

 今までありがとうございました、と真理子は頭を下げた。


 真理子は慌てて荷物をまとめ、目的地の月極マンションに送らせた。

 素早い行動だった。

 まとめた荷物の中身をいちいち調べてはいない。いつか調べなくてはならないかもしれない。でもどちらでもいい。ほとんど処分するかもしれない。

 それに、何処に居ても、本当の意味で逃げることなど、できない様な気がした。

 だがそれでも、ここには居たくなかった。

 逃げたかった。どうしても逃げたかった。

 それは彼女のそれまでの生き方に完全に反していた。

 だがそれでも構わなかった。

 とにかく、もうここには、居たくなかったのだ。


 荷物を運び出す車に、駅まで送ってもらうと、そのままやってきた列車にすぐさま乗り込んだ。乗り継ぎの関係も、どうでも良かった。

 車内は客がほとんどいなかった。

 この時間に各駅停車を使う客などほとんど居ないのだ。

 がたんがたん、と揺れるたびに、身をすくめたくなる様な気持ちに襲われる。


 ごめん、カナ、ごめん、ユキ。


 今度はこの二人が、クニの様にされるのか。

 それが判っていても、自分は何もしようとしない。いや、できない。

 気が付くと、真理子の中には言い訳ばかりが頭をよぎって行った。

 そして思った。


 ―――あたしは、無力だ。


 喉の奥から、洗濯していた時以来、必死で止めていた嗚咽がほとばしる様にあふれてきた。

 奥歯を思い切り噛みしめる。拳を握りしめる。

「ううう…」


 だがこの先、無力かどうかは、まだ判っていない。

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