とある楽器バカの話
どうも今日は月が暗い。
バイオリン弾きは溜息を吐く。
彼は一応音楽家である。楽士に楽器の演奏を教える楽師なのだ。
が、売れっ子と違い師事してくれる弟子の少ない彼は、日々あちこちに自分を売り込む営業に勤しみ、楽士としての仕事をこなさねば食いつなげない。
かれこれ二日食べ物にありつけていない男はよろりと場末の酒場の外壁に凭れる。相棒のバイオリンでなく空きっ腹がきゅるるんと哀れな音色を奏でていた。
「うわー、今の超かわいかったわー、譜に起こしちゃおっかなー」
相棒を抱え込んでしゃがみ、地面に転がる石でガリガリ五線譜を書き付けるくらいには、もうどうしようもなく空腹で、何もする事が無かった。行き交う酔っ払いは勿論、正気の者も知らぬフリで通り過ぎて行くが、幸か不幸か男の目には入らない。
酒場の歌姫ときたら「イケメンじゃなくちゃイヤ」だなんて言って、飛び込みの彼を呆気なくクビにしてくれて。
「せめて腕の良し悪しで決めようや」
溜息を掛け声代わりによろよろ立ち上がり、見上げる。今宵は星も無く、唯一の客はおぼろ月だけである。
芝居がかった仕草で一つ辞儀をすると、彼は相棒を優しく抱える。細い首をやんわり支え、ご機嫌伺いに弦に弓を当ててそっと撫でる様に引く。
うっとりする程艶やかな鳴き声がこぼれた。
ご機嫌が麗しい様でなりより、と彼はにっこりと笑う。
唯一の商売道具にして最高の相棒。彼の愛しい『姫』である。
彼は彼女の歌声に惚れて、拝みに拝み倒し、どうにか恩師から譲り受けた。
初めはなかなか思う様に歌ってはくれなかったが、今では彼女との付き合い方もよく判っている。どうしたら彼女が気持ちよく歌ってくれるのか、どうしたら彼女の魅力を引き出せるのか。
「さあ、麗しい我が姫。月が暗くとも、陽気にいこうじゃないか」
雲が空を覆っても関係ない。仮初めの星を散らし、ましろく輝く幻の月で照らす事も、音楽でなら出来る。
白に青に黄に赤。星はそれぞれ色も明るさも違う。それぞれの場所で思い思いにチカチカと瞬いて。
小さな声で何かを囁いている様だ。
ぽっかりと浮かぶ月はその最中をゆったりと泳ぐ様に昇って、そして沈んで行く。
でもそれだけじゃ面白くない。月は清廉な歌姫。星はその韻律に舞う踊り子、なんてどうだろう。と彼は時々音を跳ねさせ、揺らし、変化を付ける。
眠れ眠れ、と安らぎと癒やしを歌う姫の周りでいたずらに飛び回る踊り子達。姫を取り巻いて彼女達も空を駆ける。
しっちゃかめっちゃかにかき回して、夜のベールをバサッとめくって、朝が来るのだ。
目を覚ました女帝の太陽が空からベールを取り払って、大空は彼女の好きな青に染め替えられる。
だが、青空と夜空は裏と表の様なもの。取り払われた夜のベールに巻き込まれて月と星は昼の間ただ眠っているだけ。夜になれば女帝が赤いシーツを手繰り寄せ、その裾に繋がっている夜のベールが空を覆い、月の歌姫と星の踊り子達が顔を出す――。
楽師は繊細なタッチで彼女に触れ、時に大胆に力強く彼女をかき鳴らす。『姫』は静謐にゆったりと腕を広げ、或いは奔放にそこいら中を跳ね回る。楽師の望むまま物語を織り上げて行く。
見事に息のあったダンスと言えた。
弓を下ろした楽師は、再び一礼する。
いつの間にか出来ていた人集りから、彼の持つ帽子にコインやら菓子やらが投げられた。
「ハイ」
はにかんだ笑みで、一人の少女が彼に歩み寄り、コインを手渡す。可愛らしい面立ちで、ワンピースと同じ色の、綺麗に編んだ金髪に差したピンクの花が可愛らしい。
「ありがとう、お嬢ちゃん。夜道は危険だからパパの手を離しちゃダメだぞ?」
父親にぶら下がる様に手をつないで手を振る彼女に、手を振り返す。こんな遅い時間に父親のお迎えにでも来たのだろうか? だが、将来は美人だろうが、今現在はアバンチュールには早過ぎる。せめて後十年。
「いいんだ。『姫』が居るし。『姫』以上の女なんて居ないし」
その楽器バカが女性を遠ざけることに、彼は気付かない。
楽師になって早十五年。彼にはいつまで経っても彼自身のラブソングが聴こえないのだった。