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頭脳パン

作者: 岩槻大介

頭脳パンという菓子パンを食ったことがあるか。

あれは、岩槻にある伊藤パンというメーカーが作った大ヒット商品なんだぜ。

伊藤パン、すげー会社なんだぜ。



俺が通っていた岩槻市立城南中学校の体育館の裏には広い雑木林があった。

その外れに、トタン屋根の小さな小屋があって、髭ボーボーの痩せた爺さんが住んでいた。

一日中、雑木林の中をうろちょろして、たまに意味のないことを大声で叫ぶ、頭の足りない爺さん。

先輩たちはその風貌から、当時大洋ホエールズにいた外国人バッターのシピンと、ルンペンを合体させて、ルンピン、と呼び、トタン屋根に石を投げてからかった。ルンペンのシピン、略してルンピン!


その日、俺は部活を終えていつものように雑木林を抜け、アスファルトの坂道を降りようとしていた。

桜の季節も終わり、あたりは新緑の匂いと鳥の鳴き声に包まれていた。

坂の下には伊藤パンの工場があって、建物の裏手には、古い団地みたいな社員寮が建っていた。

あー、どっかにエロ本でも落ちてねーかなぁ、などと思いながら歩いていた俺の足が、突然凍りついたように止まった。

俺の目に飛び込んできたのは、その社員寮の2階の、黄色いカーテンが掛かった部屋で、ベランダに干したバスタオルを取ろうとするお姉さんの姿だった。

もちろんそれは一瞬の出来事で、お姉さんは風呂から上がったそのままの状態で、髪の毛もびしょびしょで、手でこう、うまく隠してるけど、隠れていない部分が燃えるような肌色で、なんか、燃えろいい女状態で、お姉さんはバスタオルを掴むとソッコーで黄色いカーテンの陰に消えたけど、俺の目はもう完全にその肌色に魅せられて、ジュディオングよりも魅せられて、たまらず呟いた。

すげー。知らないお姉さんだけどすげー。伊藤パンの社員なんだろうけどすげー。伊藤パンすげー。


神様がくれた偶然だってことくらい分かっていた。でも、その日から俺は、部活の帰り道にいつも坂の上に立ち、社員寮を見張るようになった。次第に絶好の角度でベランダを見るには、道路から雑木林にちょっと入ったところの方がいいってことに気が付いた。そこだと煩わしい友達や先輩に声を掛けられずに済むし、何よりも潜んでいる俺の姿がうまく葉っぱに隠れて、あのベランダからはほとんど見えなくなる。うーん。

俺はそうして毎日、夕方の黄色いカーテンの奥をひとりで食い入るように見つめた。

再びあの光景が見られることを信じて。


「お前、最近いつもここにいるな」

突然の声に俺は、心臓が止まるほどビビった。

振りかえると、ルンピンがのこぎりを持って俺を見ていた。殺される、と思った。

でもルンピンの口から出たのは、思いがけない言葉だった。

「お前も、鳥が好きなのか」


それから、ルンピンは俺に延々と鳥の話を始めた。

「この森にはたくさんの鳥たちが代わる代わるやってくるんだ。メジロ、ヒヨドリ、シジュウカラ。でも、今年はまだウグイスを一羽も見てねぇ。だから巣を作りやすいように、箱を作ってやろうと思ってな」

いや、俺が見たいのはウグイスじゃない。伊藤パンのお姉さんだ。

…なんて言えるはずもなく、俺は、はぁそうですか、俺ウグイス見たことないんすよ、などと話を合わせた。

そしたらルンピン、小屋から何やら取り出してきて、嬉しそうに俺に見せた。それはどこかで拾ってきたらしい、ボロボロの昆虫図鑑で、最後のページに野鳥の写真が数羽、おまけのように載っていた。

「ほれ、これがウグイスだ」

ウグイスは意外に地味な姿をしており、かわいくも、当然エロくもなかった。


それからというもの、俺が葉っぱの陰に潜んでいると、決まってルンピンがやって来て俺に鳥の話をした。

ある時、小学生の弟が持っていたジャポニカ学習帳の付録ページに、ウグイスの写真があるのを見つけた。俺は、弟が寝た後で勝手にそのページだけ切り取り、次の日ルンピンにあげた。

ルンピンは、くしゃくしゃな顔を、原形がなくなるまでくしゃくしゃにして、それを受け取った。


4月が終わり、5月になってもお姉さんはベランダに現れることはなかった。

それでも俺は、欠かさず待った。エロの神様が舞い降りる瞬間をひたすら待ち続けた。

でも神様は、舞い降りるどころか、そんな俺をついに見放した。

ある日、いつものようにベランダを見ると、黄色いカーテンが外されていた。洗濯機も、窓からうっすらと見えた家財道具一式もぜんぶなくなっていた。エロのお姉さん、あの部屋を出て行ったのだ。


その日以来、俺は雑木林に立ち寄ることはなくなった。

くそう。神様、ひどい仕打ちだぜ。俺、こんなに頑張ったのに。

俺は、神様と伊藤パンを呪った。でも、そんなことはすぐに忘れて、いつもの下らない授業と部活をやり過ごす毎日に、俺は飲み込まれていった。

夏休みが近付いた頃、部活の友達と校門の前でだべっていたら、前からきったねぇ爺さんが来て俺を呼びとめた。

「おう、できたぞ、箱。これできっと、来る」

やたらと嬉しそうな顔をしたルンピンだった。

「お前、あの爺さんと知り合いなの?」友達が聞いた。

「あれ、ルンピンだろ。ほら、体育館の裏に住んでる…」

「いや、知り合いなわけねーだろ」俺はそう言って足早に歩き出した。

それからルンピンは、連日、校門の前で俺を待ち伏せた。

「とうとう来たぞ、今朝、鳴き声を聞いた。間違いねぇ、あれはウグイスだ」

俺はいつも、そんなルンピンを無視して通り過ぎた。

そしてルンピンはある日、俺を見つけるなり、前に立ちはだかった。

「なぁ、これを枝の上にくくり付けたいんだ、手伝ってくれよ」

そう言って差し出した手には、何だか不格好な形をした木の箱があった。「せっかく作ったんだしよう」

友達が俺を怪訝そうな目で見た。

「いい加減にしてくれよ! 俺は鳥なんか好きじゃねーし、だいたいあんた、臭いんだよ、もう俺の近くに寄るなよ!」

払いよけようとした俺の手が箱に当たり、道路に落ちてパキっと、面白いくらい簡単に壊れた。

泣いたのは、ルンピンでもウグイスでもなく、田んぼの蛙だった。



ルンピンは二度と校門の前に現れなくなった。

夏が過ぎて、秋が過ぎて、鳥も鳴かない冬が来た。

一度だけ、先輩たちがトタン屋根に向かって石を投げているのを見かけた。脇を通り過ぎようとした俺は、近所に住んでいる一番おっかない先輩に捕まった。

「おうダイスケ、いいところに来た。お前も投げろよ、おもしれーぞ」

どうしても逆らえなくて、俺は小石を拾うと、トタン屋根目がけて投げつけた。

小屋からは誰の声も、何の物音もしなかった。

「ちぇっ、今日はハズレか、つまんねーの」先輩はそう言った。

次の日から俺は、雑木林とは反対側の道から帰るようになった。


3年生になって、いろんなことがあってまた季節が一周して、受験が終わった頃、俺は久々に雑木林の脇の坂道を歩いた。ふと見ると、小屋は生い茂った草に覆われて傾き、トタン屋根が半分くらいまでめくれあがっていた。そして手前には役所の車が停まっていて、何人かの人が黄色いロープを木と木の間に巻き付けていた。次に見た時には、何だか大袈裟な重機が雑木林に入って、小屋を壊していた。

屋根は剥がされ、壁も壊され、部屋の中が丸見え状態になっていた。

あー、とうとうルンピン引っ越したか。それとも死んだのかな。

俺は悲しかったけど、どこかでほっとして、まぁいいやどっちでも、と歩き出した。

でも次の瞬間、足が止まった。あのお姉さんを見た時みたいに、俺の足は凍りついた。

丸見えになった汚い部屋の壁の真ん中に、俺があげたウグイスの写真が貼ってあるのが見えたのだ。

しかも白い、きれいな額に入れて。

ルンピン!

バカじゃねーのルンピン!

それは俺が弟からかっぱらった写真だぞ。ジャポニカ学習帳に付いてたやつだぞ。

「何やってんだ、どけ!」

重機を運転するおじさんに俺は怒鳴られた。

小屋は、俺の目の前で、あっという間にぺしゃんこになった。



頭脳パンという菓子パンを食ったことがあるか。

あれは、岩槻にある伊藤パンというメーカーが作った大ヒット商品なんだぜ。

伊藤パン、すげー会社なんだぜ。






                    Daisuke Iwatsuki 2013

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