絶たれた望み、始まる現実
瞬間、周りの景色が歪んだ。
「ひっ――」
「う――」
ミンと二人、声を上げることもままならずにその場で膝をつく。しかしその地面すらもぐにゃぐにゃと形を変え、安定などとは程遠い。
自らの手を引いていたはずのミンの存在も消え、俺は声の限り叫ぶ。
「――っ!」
喪失を恐れ、
消失を怖れ、
「――ッ!」
俺は刹那とも永遠とも言える時間を、声の限り叫んでいた。それはミンの名前か、それともかつて理解者だった彼女の名か。なにを叫んでいるのかわからないまま、俺は奈落の底へと落ちていく感覚を味わっていた。
そして、それも突然終わる。
ふと周りを見渡すと、そこは見覚えのない場所だった。
限りなく遠くまで広がる草原。しかしそれだけではない。
血塗られたように真っ赤な空。そこに浮かぶ紫色の雲。そんな現実ではありえない光景に、根源的な恐怖を、俺は感じていた。
「ここは……?」
隣から聞こえてきた声にハッとなって振り向くと、そこにはミンの姿。少し気持ち悪そうに青白い顔をしているが、それ以上にひどそうな部分は見当たらない。そっと安堵の息をつく。
そして違和感に気づいた。俺はもう一度ミンの方を見る。具合悪そうに俯き気味の顔も、その身長も、まさしくミンだ。
ただし、先程までの碧色の鮮やかなものではない漆黒の髪。ぱっちりとした目。可愛らしく整えられたその顔。
それは先程までの《銀閃》のミンではない。
現実世界での、ミンだった。
少しの時間差の後、ミンのほうもそれに気づいたらしく、俺の顔を指さす。どうやら、俺も現実世界での目つきが鋭すぎる顔になっているらしい。
ブレインエリプスに登録した顔写真や身体測定の情報が使われているだろうことは推測できたものの、それを今ここで使用する意図がつかめない。
俺は一つ、深呼吸をした。
そして少し余裕を取り戻して見渡したところ、俺たち以外人もいない。それがかなり異様だった。
そこまで観察した時だった。
ジリリリリッッ! と音を立てて、勝手にシステムウィンドウが開く。
「うおっ」
「な、なにっ?」
二人して困惑していると、触ってもいないウィンドウが勝手に展開されていく。あちらこちらに手を伸ばしているのかと思うほど多くのウィンドウが開閉し、そのまましばらくバグのようにそれが続いた後、やがて一つのテキストウィンドウが開かれて止まった。
「なんだこれ……?」
俺が興味本位からそのテキストを覗きこむと、そこにはこんなことが書いてあった。
【《フラジール・オンライン》正式サービス開始のお知らせ】
「「正式サービス?」」
ミンと二人、首をひねる。
その疑問を解決する言葉が後に続くだろうと期待して、下へと読み進めていく。ミンも自分のほうで勝手に開かれたテキストを読んでいく。
【本日零時十五分より正式サービスを開始致します。以下のことを遵守し、ゲームクリアを目指してください。なお、プレイデータのリセットなどはございません】
正式サービスというのはなんだ? すでにゲームは開始しているじゃないか。
言いたいことは山ほどある。しかし、いずれ説明があるだろうと信じて、俺は先の方を読み進める。
【サービス開始につきまして、これまでとの変更点をご了承ください。一つはコール機能の有料化です。ただし、円ではなく、ゲーム内通貨で結構です。そして二つ目は――】
嫌だなぁ有料化。そんな呑気なことを言っていた自分を、直後、俺は殴ってやりたくなった。
次に現れた文字が、そうさせた。
そこには、
【 ログアウト機能の停止です 】
なんて書かれていて。
「……は?」
俺はこの文字列の意味する所を理解できなかった。
「……レン、これ……」
隣にいたミンも不安に染まった顔で見上げてくる。
「ログアウトの停止って……そんなバカな」
テキストを脇にどけて、システム画面を呼び出す。タップする右手人差し指で右下まで辿った時、俺の思考は確かに停止した。
「ログアウトボタンが……ない」
「う、うそ!」
ミンが信じられないとばかりに同じように辿った後、その指で何かをタップした。しかしそこには何も存在しないようで、何も、起こりはしない。
ミンは、膝をついた。
「どういうこと……」
「ミン……先を読もう」
そう言って手元のテキストウィンドウを指す。しかし、ミンは動かない。
俺は一人、進むことにした。ミンも心配だが、状況把握を怠る訳にはいかない。これまでの経験が、俺をその行動に移らせた。
テキストに目を走らせると、慇懃無礼な文調で書かれたその通達内容には主に次のようなことが書かれていた。
・これからはこの世界を現実として生きること。それに伴い、この世界でHPが尽きれば元の現実には戻れない仕様へと変更している。
・ゲームのクリア条件は、グランドダンジョン《生命樹》の踏破。一階ごとに存在する大天使を十体倒し、最上部に待つ天使長を倒せ。
・しかしこれから五年後には、天使の軍勢がすべての居住区を襲う。それはプレイヤーにとっての最期となる。
・明確な戦闘イメージを持ち、それに見合う反射能力を持つ者には《武芸者》の称号が授けられている。これを攻略の指標とする。
なんて、書かれていて。
「現実に戻れないって……死ぬって意味か……?」
ブレインエリプスはまだ一般人には謎の多い筐体だ。しかし脳神経の働きを支配下に置くという噂が本当ならば、この表記もあながち嘘とは言い切れない。
俺は正直、判断に迷っていた。それを押し隠すように先を読み進める。
そして、
【以上のことを踏まえて、ゲームクリアを目指してください】
そんな締めくくりを目にした瞬間、俺はそのウィンドウを振り払って消していた。そのまま深呼吸を繰り返し、なんとか暴れだしたいのを、堪える。
そのまま訪れた沈黙を噛み締め、俺はゆっくりと口を開いた。
「ミン、称号の欄はなにか更新されているか?」
「えっとね……《武芸者》ってのがあるよ」
「そうか……」
やはりミンは卓越したナイフ遣いだったようだ。俺は顔をしかめる。
「レンは……?」
「……俺にはなかったよ」
欄に並ぶ称号の最後尾を険しい目で見て、俺は溜息をつく。
すると、ミンはそろそろと立ち上がって、俺の傍に寄った。俺は何も言わずそいつの頭を乱暴に撫でる。
いつもなら「髪がーっ」とか言って逃げようとするのだが、ミンはぼんやりと開いたままのウィンドウを見たままだ。
「……どうすれば、いいのかな」
空虚なその声に込められた悲しみを感じて、俺は。
「できることをやってくしか、ないだろ」
――それも、無駄なことだ。
言葉とは裏腹な諦観の気持ちで、俺は空を仰ぐ。
元の場所へ転移させようとするシステムエフェクトが足元から這い上ってくる一方で。
真っ赤な空は、なんだか現実から取り残された俺たちを嘲笑っているようだった。
そうしてこの時。
今までの、趣味として、楽しみとして、暇つぶしとしてのゲームは、終わりを迎えたのだった。
ログアウト不能までを一気に書き上げました。これからレン達はデスゲームの中を渡り歩くことになるわけですが、ここからの更新はかなり不定期になると思います。どうか、長い目で見てやってください。