長い一夜 1
<時は流れるも 星々は変わらず瞬き続ける
変わりゆくは心のみ
とりまく自然は 在りのままの姿を照らす>
かすかな歌声が聞こえたような気がして、マリは目を覚ました。
既に日が暮れたようで、カーテンのすき間から部屋に差し込んでいた光は消えている。
そして部屋の中には薬独特のにおいが立ち込めていた。
マリはその中にはっきり“それ”と分かるにおいを嗅ぎとり長椅子から飛び降りた。
部屋の中には誰もいない。右手でスカートの裾を握りしめ、泣きそうになり
ながらサティスの姿を求めて部屋にある唯一の扉、広間へ通じる扉を開けた。
広間の壁にはいくつもランプがかかっており、淡い光に包まれている。
しかし、その広間にもサティスの姿はない。
なのに“それ”のにおいはより強くなった。
「サティ…どこぉ?」
小さな声が高い天井に木霊する。
しかし返事はない。
とにかく、“それ”のにおいから逃げたくて、
より所を求めて広間から出るが廊下に出ると屋敷の奥から
更に強いにおいが流れてくる。
「サティ…サティ…」
マリは流れる涙を拭おうともせず、名前を繰り返し呼びながら
“それ”のにおいから逃れようと廊下を進む。
つまり、屋敷の外へ。
恐怖と不安が爆発しそうになりながら玄関へつながる
最後の角を曲がろうとした所で、マリは黒い影にぶつかった。
「っつ!!」
悲鳴すら出なかった。
誰かがいたなら必ず分かる。子供とはいえマリはエルフである。
気づかないはずない。だが、半ばパニックに陥っているマリには
気配を読むことができなかった。そのことが更に恐怖を倍増させる。
限界だった。ぎゅっと目をつぶり、両耳をふさいでその場にしゃがみこんだ。
その瞬間、マリを中心に光の輪が発生し、更に大きく広がり始めた。
「マリ!」
名前を呼ばれ、びくりと肩を震わせると光はすぐに消え去った。
石畳の床には光があった所から煙が出ている。
溶けているのだ。
「大丈夫、ここにいるわ」
黒い影は足元まであるローブを着たサティスであった。
フードを目深にかぶり、手には薬草の入った籠を抱えている。
その籠を床に置き、フードを脱ぐとそっとマリを抱きしめた。
薬と森のにおいの混ざった、暖かい腕に抱かれ、固まっていた体からゆっくりと力が抜けていく。
「どうしたの?怖い夢でも見た?」
安心させるようにゆっくりと背中をなでながら問いかける。
しかし、聞こえるのはマリの嗚咽のみである。
そのマリがゆっくりとサティスにしがみつき、ローブに顔を埋めると
サティスは左手でマリを抱え、右手に籠を持つと立ち上がった。
屋敷の奥へ、つまりマリがやってきた方向へ足を踏み出すと、マリの体に再び力が入った。
それを感じてサティスは立ち止まった。
「マリ、彼はね、守ってもらえなかったの。」
「…えっ」
「だから人狼に傷つけられ、感染してるの。だけどね、だけど彼は生き延びた。」
淡々と語るサティスの様子に、マリはゆっくり顔を上げた。
「マリは…マリはお父さんとお母さんが守ってくれた。助けてくれた。
今の彼にも助けが必要なのよ。」
サティスはじっと顔を見つめているマリにやさしく笑いかける。
「怖がっていいの。恐怖は生きる上でとても重要な感情だから。
でも、恐怖に囚われて自分を見失ってはダメよ。」
再び広間の扉をくぐると、サティスはマリを床に下ろした。
そのマリの手に籠を持たせると、再びフードをかぶった。
「足りない材料を取ってくる。明日の朝までには戻るわ。
その薬草はいつものように保存してちょうだい。」
「…そんなに遅くなるの?それにあの人は…」
不安げに尋ねるマリの頭に軽く手を置き、大きな金色の目を覗き込む。
「情報収集も兼ねてよ。大丈夫、戸締りはするから。
それに治療を優先したい彼が何かすることは無いわ。ただ…」
「ただ?」
「…非常事態の対処法は教えたでしょう?それにマナとアルテミスがいるわ。
マリならできる。私はそう信じてるから、安心してこの家を任せられる。
恐怖に囚われて自分を見失わないで」
そう言うとサティスはマリをぎゅっと抱きしめ、額に唇を当てた。
「すべての命を見守る光 助言はせず ただ歩みを促すのみ
ただただ御光の恩寵を われは求む」
唇を離すとそこには小さな緑色の文様が表れたが、次第に薄くなり消えた。
その文様が消えたのを確認すると、サティスはフードを目深にかぶり直し広間から出て行った。