ぼくとプテラノドン
はじめは小学二年生の頃だった。
自転車が怖かった。幼き頃に補助輪を付けている間は好んで跨っていたにも拘らず、いざそれを外して二輪に挑戦すると途端にその不安定に負けてしまった。平衡に敗北した。初めは派手に転び、その後も何度倒れたか覚えていない。その日のうちに成功体験を得られるのが一番だと信じる父のやり方が逆効果だったのか、以降僕にとって自転車は歴としたトラウマに変貌した。回転する景色や擦りむく痛みが恐ろしくてたまらないのだった。
同じ年代の子は過半数が当然のように乗れていた状況で、時折馬鹿にされるのが嫌だった。しかし自転車を見て湧き出る恐怖がすぐに拭える筈もなく、外へ出ることも家の中に居ることも同じくらいに好きだった僕は、次第に自宅で過ごす時間を増やしていった。
読書を好んだ。絵本は自転車を含めた外の世界を忘れさせ、自分を別の場所へ連れ出してくれた。特に目を引いたのは恐竜の本だ。みんなが当たり前のように知っているのに、現実で会える機会は無いという。僕だって少しくらい分別がつき始めていたのでアニメのキャラクターやテレビ番組のヒーローが作り物であることは分かっていた。けれども動物園や水族館でも会えず、外国のどこへ行っても生きた本物を見ることは出来ないと親に告げられた時は不思議で仕方なかった。絵本でこんなに生き生きと、図鑑ではこんなに詳しく描かれているのに。そうすると宇宙人や未確認生命体と彼らは一体何が違うのか。
だから惹かれた。僕が最も好きだったのは翼竜だ。大きな体で空を制する。飛ぶことの出来る恐竜。始祖鳥なんかも僅かに興味を持ったりはしたがいまいち現在の鳥との違いを感じられず、翼竜のそれは特別だった。中でもプテラノドンの外見の特異さには感動があった。格好良い。素直に琴線に触れた。外と自転車に怯えている僕は、空に憧れた。
そんな、絵本を肌身離さず持っていた時期のある日に夢を見た。
白い綿の広がる上に僕は眠っていた。瞼を開け目を擦るとその柔らかな感触と殺風景がありありと感じられた。緩やかな風が吹いていた。見覚えのない場所ではあったが考えはついた。ここは雲の上だ。そう強く思われた。すると遠くから一つの飛翔音が近づいてきた。その速度はそれなりで、音の方向へ目をやった時には既に生物は眼前へ迫っていた。
「うわっ」
翼の羽ばたきは大きな風を生んで僕を襲った。再び目を開くと、風を浴びせた主の巨躯が飛び込んできた。彼だった。
「プテラノ、ドン?」
大きな翼を畳む。長い鶏冠、鋭い嘴、ぎょろりとした眼。恐怖すら感じさせる迫力があった。しかしそれよりも僕にとっては喜びの方がずっと大きかった。
「すごい、すごいなあ。まさか会えるなんて。嬉しいなあ」
子供なりにその状況を疑うこともなく受け入れた。
「おっきいねえ」
翼竜との遭遇は胸を躍らせた。僕が右手を伸ばし恐る恐る近づくと、彼はこちらを少しだけ観察してから高い位置にあった頭をゆっくりと下げ、撫でやすいところまで持ってきてくれた。慎重に触れると微かに産毛のような感触と少し高めの体温、ざらついた皮膚の様子が伝わってきた。すると犬のように頭部を動かして手に擦り寄った。彼の喜びは明らかだった。
それから具体的な時間は分からないが彼とじゃれあっていた。ふと彼が背中を見せるので僕が飛び乗ると、彼は翼を広げた。驚いた僕が無我夢中でしがみつくと、彼は勢いよく飛び立った。強い風の中で目を開けその光景を焼き付ける。僕らは青空を泳いでいた。
水色の背景と白く点在する雲の間を縫うように進んだ。あまりに澄んだ空気は肺だけでなく頭蓋の中へ行き渡るようだった。この爽快さを独り占め出来るのにはとてつもない高揚があった。
翼竜は地上へ降り立った。その場所が視認出来る距離になるとすぐに分かった。それは僕の家だった。片田舎の田畑に近い一軒家。緑の庭で彼は僕を降ろした。先細った嘴で僕を誘導する。それは玄関脇に置いてある一台の自転車だった。
「え? あれに乗れって?」
彼が頷く。
「でも」
彼は長い嘴を下から突き上げるようにして僕の背に当てた。軽く、そして何度も何度も。
「わかったよっ」
指示された通りに芝生の上へ持ってきた。彼は四足を地面につけてこちらを見ている。僕は久しぶりに跨ってみせた。股の下から恐怖心が立ち上ってくる。思わず目を瞑った。前方から何やら鈍臭い気配があった。確認すると、彼が芝生を転んでいた。またしても犬が背中を擦りつけんばかりの勢いで。数歩を歩いて何度も転んだ。そして一通り終えてからこちらへ接近し、また背を向けた。
「ついてこいって? 真似しろって?」
震えながらペダルを漕いだ。殆ど地面に両足をつけたまま、片足ずつをごく僅かに浮かし辿々しく進んだ。彼の数歩に続き、意を決して左右をペダルに乗せると二メートルもせずに転んだ。その時、彼も転んでいた。僕はそれを見て笑った。それから暫く同じようなことを続けた。
目が覚めた。僕が自転車に乗れるようになっていることに気がついたのは後日のことだった。夢の出来事を誰かに話すようなことはしなかった。ぼくのプテラノドン。
僕は中学へ上がった。二度目はその三年次だ。
昔に夢で出会った翼竜とはそれきりだった。長い時間が経って僕も多少の記憶の消失を感じていた頃だ。学生生活のある日を起点に、泡沫の世界で再会を果たすことになる。
「久しぶり。まさかまた会えるなんて」
僕の体は七年経って大きくなっていた。だから本当なら彼のことを少し小さく感じてもおかしくはないのだがそうではなかった。
「もしかして君も大きくなってる?」
そう仄かに笑うと彼も笑った気がした。高らかに鳴いたのだ。鳴き声だって初めて聞いたのだけど。
「あの頃はケツァルコアトルスやハツェゴプテリクスの方が大きいって知らなかったな。君が一番大きくて格好良いと思ってた」
彼が鳴く。
「はは。ごめんごめん、格好良いのは変わらず一番だよ」
彼の感情の機微が全て理解出来るわけではなくとも、空気感そのものに悪い気配は感じられなかった。翼が視界いっぱいに広げられる。俺と飛んでそんなことは忘れろ、そう言っているような気がした。
彼と飛ぶ空は格別だった。体が熱を帯びている時の氷枕のような、油ものをたくさん食べた後の薄荷ののど飴のような。
目的地、彼の導いた先は学校の校舎だった。
「あれっ」
僕は数日前にクラスの女の子に告白をして振られてしまっていた。明晰夢の経験が少ないからだろう、現実の記憶、その前後があやふやになり失念していたのだ。現状をまざまざと直視するに至り、別の意味で脳内がはっきりとした。
追憶する。放課後の人が疎らになった頃を見計らっていた。彼女は日直で、学級日誌を書く為に教室へ残っていたのだ。普通ならそんなものさっさと終わらせてしまえばいい。しかし彼女は一日の所感を書くところでさえ律儀に時間をかけて長考してしまう。そんな真面目な様が惚れた一因だった。
昇降口で待ち構えた。ありきたりな手段。帰路に就く同級生や下級生を尻目に僕はときどき瞼を下ろして頭の中で予行をしながらその時を待った。ほどなくして彼女が現れた。すでに辺りは閑散としていたが念には念を。より人通りのない校舎裏へ僕らは移動した。
僕は前日暗記した不出来な文章を声に出した。詰まりこそしなかったものの震えていたように思う。そしてその交際の申し込みは、彼女の苦い顔で敢え無く崩れ去った。
そんな傷心中の僕にとってこの学び舎は、件の悲劇を連想させる場所に他ならなかった。自室のベッドの上だけが啜り泣くことの出来る安全圏だというのに、夢の中でさえそれは許されないのかと溜め息が出そうになる。
校舎には大勢の生徒や教師が居た。日暮れ、グラウンド側から窺える教室には彼女の姿がある。彼は旋回してから昇降口と校門の間へ降りた。出入りする生徒の群れが僕の体をすり抜けていく。僕ら、或いは目の前に映る全てのどちらかは夢幻や亡霊のようなものなのかもしれない。いや、そもそもがこれは夢なのだ。
告白の待機にある僕が目に入った。十数分後の未来を考えると胃が痛くなる。側から見るとなんてもじもじ落ち着きがないのだろう。すると背後の彼が翼を広げ大きく鳴いた。応援しているのか? それとも早めに励まし、慰めているのか? 彼が色恋に口を出すなんてなんだかイメージとかけ離れている。そのまま鋭利な嘴をこちらへ向ける。彼はいつかしたように僕の背を小突いた。
「痛っ」
ちくちくと何度も中程度の衝撃が僕を叩く。きまりの悪い顔で待ち伏せする僕を情けなく思っているのか。動物的には弱い個体、つまり嘲笑の的であると。
「人間の求愛行動は慎ましいものなんだよ」
それから決まった道筋を辿るよう僕は振られ彼女の背を眺めた。分かっていた結末に乾いた笑みが溢れる。
すると彼が翼を羽ばたかせ大きな風を生んだ。
「うわ」
瞬きの間に、景色が切り替わった。休み時間の教室。クラスメイトの男子数人が走り回って遊んでいる。教卓にぶつかり、事前に集められていた書類が床に散乱した。それを気にする生徒は少なく、また気にしても近くの人間がやるだろうと見て見ぬ振りをするか順番待ちかのように様子見に徹するだけだった。トイレから帰ってきて事情の知らない僕は訳も分からずに紙を掻き集める。こうして第三者の視点で室内を見ると一人の女子が事の終わりまでを熱心に見つめていたのが分かった。容姿は見えている筈なのに認識が不鮮明で肝心の人物の特定は出来ない。また風が吹いた。窓の外に突如現れた翼竜の仕業だった。
再び景色が転ずる。それは当時の通学路だ。下校してほんの数分のところ、向かいから歩いてくる小学生が僕の目の前で転んでしまった。膝を擦りむいたようで、恐らく低学年のその少年は泣き出して地面へ座り込む。僕は走行を止めると、一声かける前に考えた。僕は手ぶら、僕は自転車。駆け寄っても何も出来ないし、少年を確実に泣き止ませる確たる手段や道具を持ってもいない。家まで案内するにも自転車は置いておけない。馬蹄錠への信頼が薄い。
僕は急いで学校へ引き返し保健室を目指した。それから経緯を説明すると保健室の先生は小さな救急箱の一つを貸してくれ、返すのは明日でいいと付け加えてくれた。僕は道を戻り少年の元へ。幸いそこまでの汚れはなく、軽く表面をはたき、消毒液を吸わせたガーゼで傷口を軽く叩くように綺麗にしてから大きめの絆創膏を貼った。思いのほか少年は、消毒液の沁みるような痛みを訴えることもなく静かにしていたのが意外だった。
今となって思えば自転車を押して一緒に帰ってあげれば良かったのだろうけど、歩道の邪魔になるかなとかスムーズにいかないだろうなとか恒例の変な不安が過ぎってしまっていた。
彼が嘴を用いて道の陰から僕を観察する女の子を指し示した。僕を凝視していた先程の子だった。顔は分からなくても同一人物に違いなかった。それから少年は己で立ち上がり、僕へ小声で感謝を伝えてから徐に別れた。
再度彼が風を起こす。最後はテニスコートだった。
所属していたテニス部での一幕だ。思い当たる節はあった。これは僕が二年生の折、荷物待ちを担当していた一年の部員が犯したミスを発端に先輩らが大きな声で当該人物を叱責している風景である。普段この部では大会や練習試合での遠征の際に、持っていくウォーターキーパーの中にその日の分のスポーツドリンクの粉末を入れる。しかし担当の一年は、前日に顧問から渡された部費の一部で購入したそれを部室の扉横に忘れてしまったのだった。猛暑の中で、これはパフォーマンスにも安全面にも関わる重大な事項だ。
僕は同級生と先輩を嗜めた。とはいえ全員が水で一日を乗り越えるのは得策とは言えず、自動販売機などで一本ずつ買い足すには費用が嵩みすぎる。なので出番まで時間がありウォーミングアップもあまり気に留めない僕が合間に会場近くのコンビニエンスストアで粉末を調達してくると申し出、渋々ながら皆の了承を得た。幸い、大会の喧騒のおかげで先輩らの声が外部に広まることはなく、顧問や保護者に知られずに済んだ。この時一年生からひどく謝意を伝えられたのを覚えている。
彼の翼が僕に触れ体の向きを変えさせた。
「おっとっと」
やはり少し離れたところで僕を見る姿があった。しかし今度はうちの顧問だった。先生は一部始終を見ていたのだ。その双眸は穏やかに僕を捉えている。恐らく多少なりとも評価してくれている、そんなような視線だった。
四度目の風。いつか見た雲の上だった。彼が僕を見つめる。三つの場面にわたって回想したのには理由があるのだろう。僕の振る舞いを善行と言ってくれたのか、日常の些事でもちゃんと見ている人はいると言いたかったのか。沈んでいる僕にも恋慕を向けてくれる人がいるという安直な慰めかと思いきや、最後に関しては女子ですらなかったのできっともっと抽象的なものなのかもしれない。いずれにしろ、彼が僕を想い、元気づける為に尽力したのは違いない。僕は僕のしてきた事を悔いることはなく、むしろ図々しく誇るべきなのかもと考えを改めさせられた。
ぼくにプテラノドンが与えた激励。それは思っていたより繊細で、けれども少し体育会系だった。
三度目に会った時、僕は社会人になっていた。稚拙に思われるだろうけれど、社会に揉まれ月並みに心身を疲弊させていた僕はこの世からの離別を視野に入れていたほどだった。
そんな二十六歳の春。新社会人の朗らかな唸りも落ち着きを見せる五月の末。僕は上司との関係、仕事の失敗、未来への不安なんかを考えて休日を過ごすという悪循環に陥っていた。こんな歳にも拘らず、五月病がまさしく僕を苛んでいたように思う。
ろくな栄養も摂らず、一日一度の入浴だって就寝前と起床後を不規則に繰り返し、やることがなくなりそれでいて頭の中が負の感情で忙しない時は泥のように眠った。非生産的な動物の筆頭だった。彼が痺れを切らしたとしてもおかしくはない。
ある違和感。汗を含んだ生暖かい平時の感覚とは異なる時点ではっとした。ここは白と青の世界。見覚えは充分にある。辺りを見回して、真後ろの彼に気がついた。
「君、なのか?」
翼竜はその巨躯の影で僕を覆った。
僕自身は中学三年からそれほど身長も変わっていない。けれど彼はやはりまた一回り大きくなっていた。いや、それ以上の違いに思える程の圧があった。
「随分と変わった。まるで怪物だ。怪鳥という意味なら相応しいんだろうけど」
僕としては褒めたつもりだった。彼は変わらぬ紅玉のような瞳をこちらへ向け続ける。機嫌を損ねたわけではなく、純粋に僕との逢瀬を噛み締めてくれているような。これが思い違いでないことを願う。
僕らはたわいない話に花を咲かせた。こうして彼とゆっくり対話したのは最初に会ったとき以来かもしれない。彼は時折甘えるように体を寄せた。僕の家に愛犬や愛猫という存在がいたならこんな風だったろう。
「厳密には恐竜というカテゴリかも議論の余地があるらしいね。君らは爬虫類だって」
彼の体表の凹凸を撫でる。ただの夢と断ずるにはこの実体は僕にとってあまりに劇的だ。
「飛ぶこと一つに関しても、飛翔というよりは滑空というのが正しいみたいだし、そもそも子供の頃とはいえ僕みたいな人間を運ぶのだって難しかったよね」
眼前の翼竜に真偽の定かでない生態を交えて話したり既存の物理を当て嵌めることにどれだけの意味があるのかは分からない。それでもそんな不毛とも言える僕に対して彼は受け身な姿勢を崩さなかった。
過去二度、彼に会った時は希望に満ち溢れていた。八歳の頃と十五歳の頃。今回彼は今までと異なり、僕に何かを促したり伝えようとする意思や能動は感じられなかった。
だからこそ僕も毒を吐く、いや膿を出す気になったのかもしれない。
「君が現れた理由はだいたい察しがつくよ。呆れられて当然だ。色々とね、自分の言い分はあるしそれに対して間違ってるなんて思いもない。けれどゆっくり、少しずつ道が逸れていっているのには気がつき始めてる。もっと早くに修正する必要があったって。きっと僕は融通が効かないってやつなんだ。ついでに運も無い」
何が正解かなんて誰にも分からない。社会は結果論に焦点を当てるように出来てる。それは結果よりも残酷だ。最低限の配慮は当然として、本来はそれよりも如何に小さかろうが自らの幸せを積み重ねることが重要だったんだ。そうすればにこやかでいられるし、そういった人間の周りには人が集まり、残り、離れていかない。
落ちる心配のない雲の絨毯がちらほらと解れ下界の様子を覗かせていた。眼下に広がるものが一体どこの街かは分からない。随分と小さい建物の群れ。この景色にどれだけの人が、営みがあるのだろうか。
この光景を見てスマートフォンの画面から眺めるSNS上の数多の人を思った。射倖心を煽るものや同情を誘うもの、共感を求めるものや或いはただ卑屈なだけの、心の摩耗を加速させるためだけのもの。全体を見ればネガティブな内容の方が多く、また衆目を集め易いのもそういうものだ。僕だって自分と同じ境遇や心情の誰かを探してインターネットに助けや安らぎを求めた時期がある。大抵は不毛だった。
彼といると自ずと見えなかったものが見えてくる。
「君は夢だ、夢の中の存在だ。現実には居ない。まあ、夢じゃないとしても現代では、ね」
彼は静かだった。図鑑で目にした表記より随分と大きくなった彼は、時間をどれだけ遡ろうとも会うことの出来ない、空想上の生き物だ。
「でも、助けられたのは紛れもない事実なんだ。それだけは嘘じゃない」
神の気紛れか誰かの魔法か、惑星に残る種の意思か。たいそう詩的なことを考えたけど、僕にとって彼はただプテラノドン然としておりそれ以上でもそれ以下でもない。翼竜はただ現れ、ただ僕を助けたのだ。彼方の啓示、そう飲み込む他ない。
「うんと乗せてくれるかい」
そう言うと、彼はそれを予期していたかのように僕へ体を近づけ背を促した。その特等席は今の僕には輝いて見えた。
彼は羽ばたいた。三度、僕は彼と空を駆けた。広く優雅に縫い進んだ。二度に渡るあの頃の快感がすぐに甦り、あらゆる靄を払拭するようだった。
社会イコール職場。出会う人間の悪言や不確定な未来の翳り、不変の過去への悔恨などに拘泥する僕がちっぽけに感じた。もちろん自分をこれだけ長く深く苦しめていたものだ、そう小さいことだと簡単に吐き捨てるわけではない。実際のところ、彼が現実に現れて僕を救出してくれるでもなく、状況が瞬時に好転するわけでもないからだ。だから僕の目の前の壁や霧や沼地なんかは変わらずに有り続ける。
けれど、より大きな余白に目を向けることは出来る。キャパシティを決めるのでなく自らの手で拡充するような。いくつもの暗色も、元よりそこには無かったかの如く多量の白で塗り潰してしまえばいい。彼とこの青空を飛んでいて分かる。白は僕の味方だ。視野を狭めるのも広げるのも自分なら、人生のあらゆる権利をこの手にしていることを今一度よく思い出すべきなのだ。その、舵の握り手のことを。体に吹き付ける風が、僕の中の汚く重いものを後方へ置き去りにしていってくれていた。彼の鳴き声だけが鼓膜を埋めていた。ここ最近久しく動かしていなかった表情筋が緩み、口の両端が上を向く。悪くない感覚。
「なんて気持ち良さだろう」
ぼくもプテラノドンさ。いっぱい羽ばたいて色んな場所へ行くよ。何年先にも名前が残るような偉大ことも成し遂げたいし、足元の小さなごみも拾いたい。努力しつつも万事を楽しんで、目に映るもの全てを大切にしたい。そうして生きていたい。
目を覚ました。僕は無償の愛に抱擁された名残を惜しむよう、毛布に移った己の体温を撫でた。差し込む月曜の朝日は普段よりもずっと優しく僕を照らしていた。
彼と会うのは、生涯これきりだった。




