死にかけた私が迷い込んだのは、関西弁の死者が暮らす町だった
川で溺れた灯里が目を覚ましたのは、関西弁の死者たちが暮らす奇妙な町「彼岸町」。
気がついたら、灯里はアーケード街の真ん中に立っていた。
橋から川に落ちたところまでは覚えている。
友達と写真を撮ろうとして、欄干から足を滑らせた。
冷たい水が身体を包み、息ができなくなった。水面の向こうで、誰かが自分の名前を叫んでいた。
その声が遠ざかっていく。
そこから先は、覚えていない。
なのに今、目の前には見知らぬ商店街があった。
古びたアーケードに提灯が連なっている。八百屋、乾物屋、焼き鳥屋。
どの店も妙に活気があって、醤油の焦げる匂いや、出汁の匂いが混じり合っていた。
人の波が行き交っている。
ただし、誰も足音を立てていなかった。
「そこの嬢ちゃん」
声をかけられて振り向くと、割烹着姿のおばちゃんが立っていた。
身体が、透けている。
「ここ、どこですか」
「彼岸町や」
おばちゃんは、まるで駅名を教えるように言った。
「あんた、まだ完全には死んどらん。三途の川を渡りかけて、途中で戻れる組やろ」
「……死んでない?」
「たぶんな」
その「たぶん」が、妙にあっさりしていた。
灯里は周囲を見回した。
歩いている人たちは、みな死者らしい。
けれど、誰も悲しそうではない。
買い物をして、立ち話をして、店先で酒を飲んでいる。
そして、不思議なことに、全員が関西弁だった。
「なんで、みんな関西弁なんですか」
灯里が尋ねると、おばちゃんは肩をすくめた。
「長いこと住んどったら、そうなんねん」
「そんな……」
「最初にこの町を開いたんが、浪速の商人やったらしいからな」
おばちゃんは笑った。
「死んだあとくらい、言葉で苦労せんでもええやろ」
灯里も、少しだけ笑った。
笑ってしまったことが、不思議だった。
自分は川に落ちたのだ。
もしかしたら、死んでいるのかもしれない。
それなのに、この町の空気には、どこか昔の商店街のような匂いがあった。
記憶の底にある、誰かと歩いた夕暮れのような。
おばちゃんの後について歩いていると、古い酒蔵の前で足が止まった。
木造の軒先に、煤けた看板がかかっている。
――芥見酒造。
灯里は息を止めた。
「……うちと同じ名前」
「ほんなら、入ってみ」
暖簾をくぐった。
奥の座敷に、二人の老人がいた。
将棋盤を挟んで向かい合っている。
「せやから兄貴、あんたはずるいんや」
「またその話か」
「親父が死んだその日に、蔵の権利証を自分の名義にしたやろ」
「遺言や。親父がそう書いたんや」
「わしは蔵を継ぐために、何年修行したと思うてんねん」
「知らん」
「知らんやない!」
二人は百年近く前から、同じ話をしているようだった。
灯里には、なぜかそれが分かった。
「あの……」
二人が振り向いた。
「芥見って、うちの苗字なんです」
老人の一人が、目を細めた。
「……灯真の孫か?」
「はい。灯真は私のおじいちゃんです」
「そうか」
老人は、ほんの少し笑った。
「わしは千代蔵。あんたのずっと昔のご先祖さんや。こっちは兄貴の百合彦」
古い仏壇の写真で見たことがある。
名前だけが家系図に残され、もう誰も話題にしなくなった人たち。
こんな顔をしていたのか、と灯里は思った。
「二人とも、ずっとここにいるんですか」
「そうや」
千代蔵が答えた。
「気がついたら、ここにおった。そんで、兄貴と会うた」
「会うたからには、決着つけなあかんからな」
百合彦が言った。
「何の決着ですか」
「そら……」
千代蔵は将棋盤を見る。
「どっちが悪かったかや」
灯里は何も言えなかった。
しばらくして、千代蔵が話し始めた。
父親が死んだとき、酒蔵は長男の百合彦に譲られた。
千代蔵は納得できなかった。
幼い頃から酒造りを覚え、蔵を継ぐつもりで働いてきた。
けれど、一枚の遺言状で、その道は閉ざされた。
千代蔵は家を出た。
小さな酒屋を始めた。
うまくいかなかった。
病気になり、死んだ。
兄を許せないまま。
「兄貴から、何か言うてきたことはなかったんですか」
灯里が尋ねた。
百合彦が黙った。
「……手紙を書いた」
やがて、そう言った。
「何度もな」
千代蔵が顔を上げる。
「ほんまか」
「ああ」
「なんで送らんかった」
「……分からん」
百合彦は将棋盤の上に置かれた駒を見つめていた。
「便箋を買うて、『千代蔵へ』と書いたこともある。そっから先が、書けなんだ」
「……」
「兄貴のわしが、弟に頭を下げるんが嫌やったんやろな」
長い沈黙が落ちた。
灯里は自分の家を思い出した。
父と叔父は、何年も口をきいていなかった。
土地のことで揉めた、と聞いている。
けれど、何が始まりだったのかは、誰も知らなかった。
子どもの頃から、
――うちは昔から兄弟仲が悪い。
そう聞かされてきた。
だから、そういうものなのだと思っていた。
家族というのは、ときどき離れていくものなのだと。
「もしかして」
灯里は言った。
「うちも、同じなんですか」
千代蔵は苦笑した。
「どうやろな」
百合彦が静かに言った。
「灯真の親父も、その弟と長いこと口をきかんかったらしい」
灯里は顔を上げた。
「……それも、二人のせい?」
「分からん」
百合彦は首を振った。
「けど、わしらの影が長う伸びたんかもしれへんな」
灯里は二人を見た。
この二人も、昔は若かったのだろう。
蔵で汗を流し、酒を仕込み、くだらないことで笑ったこともあったのだろう。
それなのに、たった一度、謝らなかった。
たった一度、会いに行かなかった。
その「たった一度」が、百年になった。
「ねえ」
灯里は将棋盤を手に取った。
二人が驚いて顔を上げる。
「もう、やめたら?」
「何をや」
「勝ち負け」
灯里は盤を脇へ置いた。
「どっちが正しかったかなんて、もう分からないじゃないですか」
千代蔵は黙った。
百合彦も黙っている。
「でも」
灯里は続けた。
「どっちも、謝りたかったんでしょう?」
百合彦が目を伏せた。
しばらくして、言った。
「……千代蔵」
「なんや」
「すまんかった」
千代蔵は何も言わなかった。
「お前が蔵を継ぎたかったこと、知ってた」
「……」
「それでも、わしは何も言わんかった」
千代蔵の唇が、わずかに震えた。
「兄貴」
「うん」
「わしも、悪かった」
「お前が?」
「意地張ったんや。兄貴が一言謝ってくれたら、それでよかったのに」
「……そうか」
「せやけど、わしも一言も言わんかった」
二人はしばらく見つめ合っていた。
そして、千代蔵が笑った。
「百年もかかって、ようやくやな」
「ほんまや」
百合彦も笑った。
そのとき、どこからか酒の匂いがした。
甘く、少しだけ苦い匂い。
灯里は目を閉じた。
その匂いの向こうに、誰かの手が見える気がした。
米を洗う手。
麹を混ぜる手。
瓶を拭く手。
ずっと昔、まだ誰も死んでいなかった頃の手。
「……もう行き」
背後から、おばちゃんの声がした。
「灯里、あんたの時間はまだ残っとる」
「でも……」
「帰り」
おばちゃんが背中を押した。
「伝えたってな」
「何を?」
「言わんでも分かるやろ」
灯里は振り返った。
千代蔵と百合彦が、もう一度将棋盤を出している。
「次は負けへんぞ」
「百年分の腕があるんやったら、ちょっとは期待できるな」
「言うたな、兄貴」
二人の笑い声が、遠ざかっていく。
その向こうで、誰かが灯里の名前を呼んだ。
今度は、はっきり聞こえた。
――灯里。
目を開けると、白い天井があった。
母が泣いていた。
父が、灯里の手を握っていた。
声を出そうとすると、喉が痛かった。
「……お父さん」
「いる」
「叔父さんに、会って」
父は黙った。
灯里も、それ以上は言わなかった。
その年の暮れ。
何年ぶりかで、芥見の家に親戚が集まった。
最初は誰も昔の話をしなかった。
鍋を囲み、酒を注ぎ、天気の話をした。
やがて、父が蔵から一本の酒を持ってきた。
「今年、仕込んだ」
叔父が瓶を見た。
「……この銘柄、まだ続けてたんか」
「続けてる」
父が答えた。
栓を抜く。
ふわりと、酒の匂いが広がった。
誰かが盃を差し出した。
父が注ぐ。
叔父にも注ぐ。
二人はしばらく黙って酒を見ていた。
「……甘いな」
叔父が言った。
「そうやな」
父が答えた。
それだけだった。
けれど灯里には、それで十分な気がした。
夜になり、灯里は一人で蔵に入った。
古い木の匂い。
酒の匂い。
米と麹と、人の手の匂い。
灯里はしばらくそこに立っていた。
すると、
ことり。
と、小さな音がした。
振り向く。
誰もいない。
床に、将棋の駒が一つ落ちていた。
灯里はそれを拾い上げた。
そのとき、ふいに酒の匂いがした。
懐かしい匂いだった。
灯里は目を閉じた。
どこか遠くで、誰かが笑ったような気がした。
駒を、そっと盤の上に戻す。
ことり。
冬の風が、蔵の外を通り過ぎていった。
それでもしばらくのあいだ、酒の匂いだけが、消えずに残っていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




