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死にかけた私が迷い込んだのは、関西弁の死者が暮らす町だった

作者: 黒江秋水
掲載日:2026/09/16

川で溺れた灯里が目を覚ましたのは、関西弁の死者たちが暮らす奇妙な町「彼岸町」。

気がついたら、灯里はアーケード街の真ん中に立っていた。


橋から川に落ちたところまでは覚えている。


友達と写真を撮ろうとして、欄干から足を滑らせた。

冷たい水が身体を包み、息ができなくなった。水面の向こうで、誰かが自分の名前を叫んでいた。


その声が遠ざかっていく。


そこから先は、覚えていない。


なのに今、目の前には見知らぬ商店街があった。


古びたアーケードに提灯が連なっている。八百屋、乾物屋、焼き鳥屋。

どの店も妙に活気があって、醤油の焦げる匂いや、出汁の匂いが混じり合っていた。


人の波が行き交っている。


ただし、誰も足音を立てていなかった。


「そこの嬢ちゃん」


声をかけられて振り向くと、割烹着姿のおばちゃんが立っていた。


身体が、透けている。


「ここ、どこですか」


「彼岸町や」


おばちゃんは、まるで駅名を教えるように言った。


「あんた、まだ完全には死んどらん。三途の川を渡りかけて、途中で戻れる組やろ」


「……死んでない?」


「たぶんな」


その「たぶん」が、妙にあっさりしていた。


灯里は周囲を見回した。


歩いている人たちは、みな死者らしい。


けれど、誰も悲しそうではない。


買い物をして、立ち話をして、店先で酒を飲んでいる。


そして、不思議なことに、全員が関西弁だった。


「なんで、みんな関西弁なんですか」


灯里が尋ねると、おばちゃんは肩をすくめた。


「長いこと住んどったら、そうなんねん」


「そんな……」


「最初にこの町を開いたんが、浪速の商人やったらしいからな」


おばちゃんは笑った。


「死んだあとくらい、言葉で苦労せんでもええやろ」


灯里も、少しだけ笑った。


笑ってしまったことが、不思議だった。


自分は川に落ちたのだ。


もしかしたら、死んでいるのかもしれない。


それなのに、この町の空気には、どこか昔の商店街のような匂いがあった。


記憶の底にある、誰かと歩いた夕暮れのような。


おばちゃんの後について歩いていると、古い酒蔵の前で足が止まった。


木造の軒先に、煤けた看板がかかっている。


――芥見酒造。


灯里は息を止めた。


「……うちと同じ名前」


「ほんなら、入ってみ」


暖簾をくぐった。


奥の座敷に、二人の老人がいた。


将棋盤を挟んで向かい合っている。


「せやから兄貴、あんたはずるいんや」


「またその話か」


「親父が死んだその日に、蔵の権利証を自分の名義にしたやろ」


「遺言や。親父がそう書いたんや」


「わしは蔵を継ぐために、何年修行したと思うてんねん」


「知らん」


「知らんやない!」


二人は百年近く前から、同じ話をしているようだった。


灯里には、なぜかそれが分かった。


「あの……」


二人が振り向いた。


「芥見って、うちの苗字なんです」


老人の一人が、目を細めた。


「……灯真の孫か?」


「はい。灯真は私のおじいちゃんです」


「そうか」


老人は、ほんの少し笑った。


「わしは千代蔵。あんたのずっと昔のご先祖さんや。こっちは兄貴の百合彦」


古い仏壇の写真で見たことがある。


名前だけが家系図に残され、もう誰も話題にしなくなった人たち。


こんな顔をしていたのか、と灯里は思った。


「二人とも、ずっとここにいるんですか」


「そうや」


千代蔵が答えた。


「気がついたら、ここにおった。そんで、兄貴と会うた」


「会うたからには、決着つけなあかんからな」


百合彦が言った。


「何の決着ですか」


「そら……」


千代蔵は将棋盤を見る。


「どっちが悪かったかや」


灯里は何も言えなかった。


しばらくして、千代蔵が話し始めた。


父親が死んだとき、酒蔵は長男の百合彦に譲られた。


千代蔵は納得できなかった。


幼い頃から酒造りを覚え、蔵を継ぐつもりで働いてきた。

けれど、一枚の遺言状で、その道は閉ざされた。


千代蔵は家を出た。


小さな酒屋を始めた。


うまくいかなかった。


病気になり、死んだ。


兄を許せないまま。


「兄貴から、何か言うてきたことはなかったんですか」


灯里が尋ねた。


百合彦が黙った。


「……手紙を書いた」


やがて、そう言った。


「何度もな」


千代蔵が顔を上げる。


「ほんまか」


「ああ」


「なんで送らんかった」


「……分からん」


百合彦は将棋盤の上に置かれた駒を見つめていた。


「便箋を買うて、『千代蔵へ』と書いたこともある。そっから先が、書けなんだ」


「……」


「兄貴のわしが、弟に頭を下げるんが嫌やったんやろな」


長い沈黙が落ちた。


灯里は自分の家を思い出した。


父と叔父は、何年も口をきいていなかった。


土地のことで揉めた、と聞いている。


けれど、何が始まりだったのかは、誰も知らなかった。


子どもの頃から、


――うちは昔から兄弟仲が悪い。


そう聞かされてきた。


だから、そういうものなのだと思っていた。


家族というのは、ときどき離れていくものなのだと。


「もしかして」


灯里は言った。


「うちも、同じなんですか」


千代蔵は苦笑した。


「どうやろな」


百合彦が静かに言った。


「灯真の親父も、その弟と長いこと口をきかんかったらしい」


灯里は顔を上げた。


「……それも、二人のせい?」


「分からん」


百合彦は首を振った。


「けど、わしらの影が長う伸びたんかもしれへんな」


灯里は二人を見た。


この二人も、昔は若かったのだろう。


蔵で汗を流し、酒を仕込み、くだらないことで笑ったこともあったのだろう。


それなのに、たった一度、謝らなかった。


たった一度、会いに行かなかった。


その「たった一度」が、百年になった。


「ねえ」


灯里は将棋盤を手に取った。


二人が驚いて顔を上げる。


「もう、やめたら?」


「何をや」


「勝ち負け」


灯里は盤を脇へ置いた。


「どっちが正しかったかなんて、もう分からないじゃないですか」


千代蔵は黙った。


百合彦も黙っている。


「でも」


灯里は続けた。


「どっちも、謝りたかったんでしょう?」


百合彦が目を伏せた。


しばらくして、言った。


「……千代蔵」


「なんや」


「すまんかった」


千代蔵は何も言わなかった。


「お前が蔵を継ぎたかったこと、知ってた」


「……」


「それでも、わしは何も言わんかった」


千代蔵の唇が、わずかに震えた。


「兄貴」


「うん」


「わしも、悪かった」


「お前が?」


「意地張ったんや。兄貴が一言謝ってくれたら、それでよかったのに」


「……そうか」


「せやけど、わしも一言も言わんかった」


二人はしばらく見つめ合っていた。


そして、千代蔵が笑った。


「百年もかかって、ようやくやな」


「ほんまや」


百合彦も笑った。


そのとき、どこからか酒の匂いがした。


甘く、少しだけ苦い匂い。


灯里は目を閉じた。


その匂いの向こうに、誰かの手が見える気がした。


米を洗う手。


麹を混ぜる手。


瓶を拭く手。


ずっと昔、まだ誰も死んでいなかった頃の手。


「……もう行き」


背後から、おばちゃんの声がした。


「灯里、あんたの時間はまだ残っとる」


「でも……」


「帰り」


おばちゃんが背中を押した。


「伝えたってな」


「何を?」


「言わんでも分かるやろ」


灯里は振り返った。


千代蔵と百合彦が、もう一度将棋盤を出している。


「次は負けへんぞ」


「百年分の腕があるんやったら、ちょっとは期待できるな」


「言うたな、兄貴」


二人の笑い声が、遠ざかっていく。


その向こうで、誰かが灯里の名前を呼んだ。


今度は、はっきり聞こえた。


――灯里。


目を開けると、白い天井があった。


母が泣いていた。


父が、灯里の手を握っていた。


声を出そうとすると、喉が痛かった。


「……お父さん」


「いる」


「叔父さんに、会って」


父は黙った。


灯里も、それ以上は言わなかった。


その年の暮れ。


何年ぶりかで、芥見の家に親戚が集まった。


最初は誰も昔の話をしなかった。


鍋を囲み、酒を注ぎ、天気の話をした。


やがて、父が蔵から一本の酒を持ってきた。


「今年、仕込んだ」


叔父が瓶を見た。


「……この銘柄、まだ続けてたんか」


「続けてる」


父が答えた。


栓を抜く。


ふわりと、酒の匂いが広がった。


誰かが盃を差し出した。


父が注ぐ。


叔父にも注ぐ。


二人はしばらく黙って酒を見ていた。


「……甘いな」


叔父が言った。


「そうやな」


父が答えた。


それだけだった。


けれど灯里には、それで十分な気がした。


夜になり、灯里は一人で蔵に入った。


古い木の匂い。


酒の匂い。


米と麹と、人の手の匂い。


灯里はしばらくそこに立っていた。


すると、


ことり。


と、小さな音がした。


振り向く。


誰もいない。


床に、将棋の駒が一つ落ちていた。


灯里はそれを拾い上げた。


そのとき、ふいに酒の匂いがした。


懐かしい匂いだった。


灯里は目を閉じた。


どこか遠くで、誰かが笑ったような気がした。


駒を、そっと盤の上に戻す。


ことり。


冬の風が、蔵の外を通り過ぎていった。


それでもしばらくのあいだ、酒の匂いだけが、消えずに残っていた。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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