七 生成AIに向かないこと。AIより人が得意とするもの
前回はAIの普及の先について語りました。誰もがAIでコンテンツを産み出せるようになっても結局使う人次第。
生成AIの維持管理にもコストが掛かる。
なので今後生成AIも画像を出力するのに金がかかるようになったらどうなるだろう?
人はそのコストを支払うだろうか?
それともAIに頼らず人に頼むのだろうか?
そんなことを書きました。
ここからは話を変えて、
創作で人がAIより向いている点とはなんだろうか?
について語っていきます。
創作において人がAIに勝っている点
それは人の感情、五感を理解すること、共感することだと自分は思っています。
喜怒哀楽、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。これらの感覚、感情はまだAIにはないもの。
つまり、人としての感覚。
例えば、小説ではないが、何気ないラーメン屋でのやりとりを書いてみる。
「次のかたどうぞー」
店員に促され、冷たい風が吹く外から店に足を踏み入れる。
店内は熱気に満ちていた。
漂ってくる鼻をくすぐる匂いに思わず腹が鳴る。
「こちらにどうぞー」
喧騒のなか、促されるままに靴を脱いで一段高い畳の席に上がると首に巻いていたマフラーを外し、あぐらをかいて座る。
テーブルには器が残されていたが、一人の店員が手早く片付けていき、そこに別の店員が湯気のたつ湯呑みとおしぼりが置いていく。
温かいおしぼりで手を拭き、湯気のたつ湯呑みに一口をつけてから置かれていたお品書きに目を通す。
味噌、醤油、チャーシュー、
お品書きに並ぶ写真に目移りしながら頭のなかで値段とボリュームを天秤にかけ、答えをだす。
「醤油ラーメン一つ」
「はーい」
注文を終え、店内を見渡す。
ここはそこそこ有名なので壁には訪れた有名人のものと思われるサイン色紙が飾られている。
店長とお客の掛け合い、お盆にのせたラーメンの器がぶつかる固い音、
窓の外には先ほど自分が並んでいた行列が見える。
そんなことを見ていると、
テーブルに器に盛られたラーメンと箸と蓮華が並ぶ。
「ごゆっくりどうぞ~」
最後に伝票を置いて店員は去っていく。
目の前のラーメンから漂う湯気の熱気、醤油の匂いが漂ってくると自然と口元に笑みがこぼれる。
手を合わせ、いただきますと口にする。
パチッと乾いた音を立てて割り箸を割り、スープに浸された麺をつまんで持ち上げる
息を幾度か吹き掛けて冷ますと口に運び、スープの絡んだ麺をすする。
程ほどの歯応えの麺を噛み、それが喉を通っていく。
それを繰り返すこと幾度かの後、白い蓮華でスープをすくい、口に含む。
麺と共にスープに浮かぶ柔らかなチャーシューを平らげ、最後にスープを飲み干す。
空になった器に再び手を合わせると、時計をみながら、支度を整え、手短に会計を済ませると店を出る。
入れ替わりに店に入る客を尻目に彼は仕事へと戻っていく。
以上
何て事はない場面ですがどうでしょうか?
なんとなくラーメン屋の場面が思い浮かび、空腹を感じはしませんでしたか?
もし、少しでも思い浮かんだとしたらそれはなぜか?
それはその人の体験の記憶だと思います。
ラーメン屋でラーメンを食べた記憶、あるいはラーメン屋に行ったことが無くてもラーメンを食べた時の記憶が文章を読んで呼び起こされるからではないでしょうか?
ではラーメンを食べたことがないAIが同じような文章を書いたとしたらどうでしょうか?
もちろん、画像、映像や文章など、AIが学習内容から判断したそれなりに整った文章が出てくるのは間違いない。
だがそれは例えるなら今までラーメン屋に行ったことがない人が書く文章。
その場面が持つ臨場感、集まった人々の熱気、食べた時の感触などには実感が伴うだろうか?読み手が共感できるだろうか?
だが、人なら自分の経験を加味する事が出来る。
経験したことがないことでも、知識と経験である程度補うことができる。
自分は人が持つ創作の力の源泉は経験×知識だと思います。
知識がいくらあっても経験が乏しければ限界がある。
車を運転したことがない人が車を運転する描写を文章や絵でどれだけ描けるだろうか。
しかし、経験だけでは限界がある。
一般人では戦場や秘境や宇宙には行くことは出来ない。
素晴らしいアイデアを思い付いてもそれが正しいか、実用的かの実験も出来ない。
それを補うのが知識。
知識の不足を経験で補い、簡単には経験出来ないことを知識で補う。
AIはコンピューターですが、コンピューターとは元々は計算機、入力された質問に対する答えを弾き出すための機械。
しかし、創作物には正しい答えはおそらく無い。
無論、技術論としてはある。創作を面白くする、自分の考えを相手に良く伝える、人の心を動かすための方法。
しかし、それを除けばあるのは好き嫌いである。
これが好き、これが嫌い。
しかもこれは紙一重。しかも、好きも嫌いも心を動かされたという意味では同じ。
娯楽としての文章とは、言葉を使って読み手に自身の記憶にある一部を思い起こさせ、錯覚を起こさせるといえる。
だから現実にあり得ない架空の事象も実際にあるかのように錯覚してしまう。
それを絵や文字、音楽などで沸き起こさせるのが創作。
もちろんデータがあれば再現は出来る。あくまでも錯覚なのだから。
しかし、それが何万文字にわたる規模となったらどうだろう?
文章が、そこに込められた思いが、文章全体を通じて優れた楽曲のように淀み無く、なめらかに、砂に染み込む水のように読み手の心に浸透していく。
読み手の心を打つ文とはそういうものではないだろうか?
だが、書き手の思いが伴わない形で文章をバラバラに切り刻み、パズルのように機械的に組み直した凹凸の文にどれだけ人は心を動かされるのか?
はたしてデータをもとに機械が生み出した文章に人の心は動くのか。
ラーメンを食べたことのない生成AIにラーメンのスープの熱さ、匂い、沸き立つ湯気からくる雰囲気を文字で伝えられるのか。
表現できたとしてそれは事象のうわべをなぞる表面的なものではないのか?
ラーメンという単語を目にした瞬間、人は目にした記憶、あるいは食べた時の記憶が刺激され、そこに付随する様々な記憶も連想されて思い起こす。
優れた詩人や小説家などの文章家はそれを踏まえて言葉を選び、人の心を揺さぶる。
しかし、それはとてもわずかな差でしかない。
料理で言えば、塩をひとつまみいれるかどうか位の差。
だが、彼らは一つ一つの単語が独立しているのではなく、脳内でネットワーク化され、相互に影響しあっている事を感覚でつかんでおり、それを利用してより読み手の記憶、感情を呼び起こすための文章を書く。
しかも、これは各々の文化圏で違う。
顕著なのが色で、例えば赤は血の色を連想する。
国旗に赤が多いのは独立のために流された血とされているが、日本の国旗日の丸の赤は流血、死ではなく太陽をイメージしたもの。
現に日の丸弁当の梅干しや、紅白の垂れ幕に血のイメージはないだろう。
日本人にとって紅白は昇る太陽を連想する組み合わせ、一日のいや一年の始まり、温もり、それらを連想させる。だからおめでたく喜ばしいと感じるのだろう。
しかし、同じ赤でも欧米だとキリストの血のイメージで高貴な色。
だから欧米の成功者が歩くのは赤一色の絨毯。紅白ではない。
このように言葉が持つイメージは文化圏によっても違う。
文化圏が違えば同じ事象を見ていても脳内で起こる反応は全く違う。
そうなると欧米企業が運営、管理する生成AIでは欧米の文化圏的思考でコンテンツが生成されるかも知れない。
このように言葉一つとっても簡単ではなく、いかに人が普段無意識のうちに様々な行動を決めているかがわかる。
生成AIはたしかに人にとって代替になりうるような、驚異になりうるレベルにまで成長した。しかし、それはあくまでも意識レベルであって無意識ではない気がする。
例えば人が歩くとき、転ばないように姿勢を保つことを意識しているだろうか?
心臓を始めとした内蔵の動き、生理現象を意識して止められるだろうか?
人の脳という制御装置は人の意識の外、無意識のうちに様々なことを制御して日々、生活をしている。
クリエイターも同じで絵描きが線一本引く、文章屋が一文を書く、打ち込む、ただそれだけであっても様々なことを意識、あるいは無意識のうちに判断する。
生成AIはその意識の部分を模倣することができるようにはなったかもしれないが、人が意識されない無意識の領域まではまだ踏み込めていないのではないだろうか?
例えば絵を描くとき、人や物といったメインとなる対象だけを描く場合、陰影(光源)を意識するのは端から見ても分かりやすいだろう。
しかし、その場の気温、湿度、季節までを考えている人は少ないだろう。
もちろん、背景を紅葉にしたり、桜にしたりする。あるいは人物の服装を季節ものにすれば季節感は出る。
だが、テーブルの上に無造作におかれたリンゴの絵を色合いや陰影だけでその違いを持たせるのは困難だろう。
例えば、朝日に照らされたリンゴの絵と西日に照らされるリンゴの絵を描き分けるようなものである。
しかし、考えていない=考慮して描いていないとは限らない。
絵描きは自身の経験から無意識のうちに判断している。
それが現時点でのAIと人の差となるかもしれない。
生成AIが文章や画像を生成するとして、はたしてどこまでこうした人の意識、価値観、嗜好を理解した上で再現しているのだろうか?
続く。




