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【Click→】ゲブラさんの価値観シリーズ

イエスが弟子のペテロ(のちの初代ローマ教皇)に向かって言い放った「サタンよ、去れ」の解釈を巡る話。

作者: エンゲブラ

先週、無神論者ともいえる筆者が、ひまつぶしに書いたエッセイ『神を信じない筆者がキリストという現象についてをWikiを眺めながら真面目に考えてみる(ひまつぶし) 』(n7950kg)のアフターエピソードを少し。


キリスト教関連を色々と調べていると、YouTubeくんが勝手におすすめ動画にも、それに類する動画を紹介(どこにでもグーグルの目があって怖い話でもある)。


素直にそれらの動画をラジオ代わりに聞き流していると、なかなかに興味深い一節(=タイトルのやつ)があったので、ちょっと調べてみた。


新約聖書を構成する「四福音書」の中でも、最初の書物である「マタイによる福音書」。その16章23節に記述のある弟子ペテロに向け、イエスが言い放った「サタンよ、下がれ。お前のセリフは神の言葉に従わない、人間としての言葉でしかない」みたいな意味合いの叱責(=翻訳がどれもバラバラなので、これは筆者による適当訳。ちなみに「マルコによる福音書」にも類似エピソードが存在する)。


後のキリスト教では、この時のペテロは「悪魔に心を乗っ取らていた」的な ―― 4章10節「荒野の誘惑」とごっちゃにした ―― 曲解が成され、その解釈が主流でもあったようだが、ここでいうサタンとは、ヘブライ語の「サーターン(=敵対者/告発者)」に由来するもので、普通なら「この不信心者め、お前は神の言葉も信じずに口を挿むな」くらいに捉えるべきだというのが、筆者的な解釈か(間違っていたらすまん)。


では、なぜ「悪魔に乗っ取られていた」などという曲解が生まれたのか?


本来、対立者程度の意味合いでしかないサーターンという言葉をキリスト教世界では「悪魔そのもの」のように語り継いでいくうちに、自分たちが造りあげた「後付けの解釈」そのままに、ペテロに向けてのイエスの言葉をミスリードした、といったあたりか。


カソリック教会からすれば、初代ローマ教皇でもあるペテロが「神の言葉を理解せぬ愚か者め」とイエスから叱責されたというエピソードは受け入れがたく、また言葉そのものも歪め続けてきたため、よく分からない言い逃れとして「肉体を乗っ取られていた」などというとんでも解釈を生み出してしまった、というのが、筆者の推測(間違っていたらコメントにて)。


イエス自身は「敬虔なユダヤ教徒」であり、ユダヤ教徒のまま磔刑に処されたわけだが、弟子たちは当然怒り狂い、イエスを処刑へと追いやったユダヤ教の指導者たちを憎んだ。そんな中で自然な流れとして産み落とされたひとつが「悪魔」という解釈なのかもしれないが、これまた「人間的尺度」に過ぎぬ解釈で筆者的には開いた口がふさがらない。


そもそもイエス自身の最大の理想は『アガペー(=無償の愛)』の普及であった。イエス自身はこの愛を自分たちの仲間だけでなく、()()()()()()()()適用させ、そのうえで「すべてを赦そう」という考えを文字通り、命をかけて説いてきた。


にも関わらず、彼を信奉していたはずの弟子たちは、ちょっとでも()()()()()()()(もはや「教え」ですらない後付けの教義)に合わない考えは「()()」として容赦なく火あぶりにし、()()()免罪符を売りさばき、天国へのパスポートすらをも偽造。イエスの名を拝借しながら、公文書の偽造も平気で行い、イエスが最高に嫌がるであろうことを永遠にし続ける礎を築き上げたのだから、イエスからしても苦虫もいいところだ。


こうなって来ると「イエスの教え」に「最も遠い位置」にいたのが、歴代のキリスト教指導者たちなんじゃね、とすら思えてくるのだから、笑えない皮肉だ。


ひょっとすると悪魔に乗っ取られていたという曲解も、潜在的な罪の意識から……なんて考えるのは、さすがに穿ち過ぎか。


イエス自身の「活動期間」は、洗礼を受けてからの「4年」のみと短く、処刑されるまでのわずかな間でしかないにも関わらず、期間には合致しない膨大な物語が、後世では「真実」として語られているというのだから、イエス本人も真っ青であろう。



ヨーロッパ世界で、なぜこれほどまでにキリスト教が浸透したのかといえば、やはり「文字」によるところが大きい。


王侯貴族ですら識字率が低かった中世ヨーロッパでは、各地に支部を置き、読み書きも出来たキリスト教の指導者層は大変重宝され、結果として様々な権限を持つに至った(特に占領地などの行政はそのまま教会に丸投げなんてケースも日常であったとか)。やがて「皇帝をも超える」権力すら得ることとなるローマ教皇という絶対的地位(=皇帝が土下座し、許しを請う「カノッサの屈辱」)。権力が人間を歪ませるのは、どの時代でも同じなわけだが、それが「聖職者」を名乗るというのは、なんともなんとも。



さて、いよいよ筆者が唯一書いている連載小説『この転生には、いったいどのような<意味>があるというのか?』(n0859js)も、教会勢力と対峙するパートへと突入するわけだが「落としどころ」を思案し、少々筆が止まっている。


開始してしまうと、登場人物たちが好き勝手に動くため、最低限度の枠組みを作っておかないと「教会との全面戦争」なんてことにもなりかねない(=戦争は筆者の好みではない)ので困っているのだが、このまま動かすと不可避だし、さて、どうしたものか……。

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