第18節 女神の誘惑
店の外へ出るとちょうど横断歩道渡ってくる馨ちゃんがいた。今日の馨ちゃんは珍しくメガネをかけている。ちょいと大きめな黒縁メガネ。うむ。新鮮な感じ。そして白いピタピタTシャツにひざ下までのピタピタジーンズ。細い体と長い足、そして薄っぺらなパイパイを強調している。俺とは真逆の体つきで全く女っ気のない格好だが今日はそれがやけに女らしくみえた。こいつは間違いなく地獄生活のせいだぜ。
いや、とにかく今日の、今の俺にとって馨ちゃんは天使だった。いや、天使どころか女神だ。
「待ってたよぉー、女神さまぁーん。馨ちゃん。会いたかったよーん」
俺は心の底から馨ちゃんへ言った。
「何よ、気持ち悪い。相当飲んじゃってる? 赤い顔して」
俺の甘えん坊のフリにいつもどおり軽くあしらう女神・馨。
「そりゃあねぇ、飲まなきゃやってらんねぇって。さあさあ、女神様。お入りください。場所は2階でございます」と俺は執事のごとく女神・馨を店内へ招き入れる。
その俺の言葉に女神はニコリ黙って笑うと「うむ。ご苦労」と応え俺の前を通り抜ける。その瞬間だ。俺の鼻に甘い匂いが入ってきた。年増腐女軍団とは格段に違うこの女臭は広大な敷地に広がる花園にでも居るような気分にさせてくれる新鮮な匂いで、俺は思わず必要以上に鼻で匂いを吸い続けつつ身を低くし、女神・馨を丁重に宴会場へ案内した。
階段を上がり2階へ近づくにつれてうるせぇ声が聞こえてくる。
「ほんと、盛り上がってるみたいね」
この俺、執事改め下僕永沢に対し馨ちゃんはそう微笑んで言った。。
「左様でございます、女神様」
下僕である俺は女神を直視できず下を向き「少々お暗いので足元に御注意くださいませ」と言って身を低くしたまま行く。
「もういいよ。普通に喋ってよ、永沢くん」
「いえいえ、滅相もございません」
そして下僕の俺はそのまま貸しきり状態の2階入り口すぐの誰もいない4人テーブルへ女神・馨を案内した。
「なんで? みんなのところへ連れてってくれないの?」
女神様の質問に下僕永沢は強く言った。
「何を申しますか! あちらは地獄でございます。女神様が立ち入ってはならぬところです! 女神様はこちらでゆるりとお過ごしください」
「まあ、よくそんな言葉がスラスラと出てくるね。よっぽど辛かったの?」
俺自身、なぜ馨ちゃんをここへ案内したのか分からんが、とにかく落ち着きたかったのだろうな。そんな俺は馨ちゃんの優しい言葉につい可愛い子ぶって「うん」と言ってしまった。
「相当やられたのね。たしかに素面であのテンションの中に入っていくのはちょっと私には無理ね」
そう軽く笑って馨ちゃんは言うと俺が案内したテーブルについた。するとテーブルが薄明るいピンク色に光った。さっきまでいたテーブルは赤色だった記憶がある。まさに地獄色だったよ。ここは桃源郷だ。テーブルの光を受けて女神・馨がいっそう美しく輝いて見える。
席に着いた馨ちゃんは「何も食べてないからお腹空いちゃった」と独り言のように言って俺を気にすることなくそのままメニューを手に取り見入っていた。
いつもの俺ならここでテキトーに世間話なりするだろうが、今の俺は地獄生活で完全に衰弱しきっていて言葉が出ず、黙ったまま馨ちゃんの対面に座っていた。
何やらぶつぶつ呟きながらメニューを見ている馨ちゃん。それを黙って眺めている俺。年増腐女軍団のおかげで馨ちゃんが女女に見えて仕方がない。お股も体も熱くなりそうだ。
そんなことを思って馨ちゃんの顔を見ていたら、馨ちゃんの目ん玉が赤くなっているのに気付いた。
「あれ? なんだよ、もしかしてどこかで一杯やってきたのかよ? 目が赤いぜ。そういや顔も赤くねえか?」
「え? ウソ? まさか。この光のせいでしょ。それにアンタ酔っ払ってるからそう見えるのよ」
酔っ払っているからって世界が赤く見えるなんてあるわけない。そんなしょうもないハッタリは通用しないぜ。
――ここでの俺はいつもでは考えらない以上に馨ちゃんの匂いや言葉に敏感に反応していた。そんなことを考えている自分のおかしさに気づいていなかったのはやっぱ酔っ払っていたんだな。
俺にはどう見ても赤く目える目ん玉を丸くして応える馨ちゃん。そして俺の言葉をきにすることなくそのまま黙ってメニューシートから注文をしていた。
たしかにビールをたっぷり飲んだが、今の俺は意外に冷静だ。いや、むしろ冷静に馨ちゃんを観察しすぎている。地獄生活経験恐るべし。
ライフ・ケアの連中が爆発的な盛り上がりをしている中、俺と馨ちゃんは隅っこでしょっぽり静かに乾杯した。もうパラダイスなんていう妄想は消え果て、馨ちゃんといつもみたく何てこと無い雑談をしながら飲み食いしているのが楽しかった。