第17節 蜘蛛の糸
「皆さんどうもお待たせしまた。今日は急の話でありながら大勢の皆さんに集まっていただき、ありがとうございました」
メガネ君の声が宴会場に広がる。いよいよ開宴だぜ。すでにこのフロアはライフ・ケアの人間で埋め尽くしている。情報通りコンダクター女子がわんさか。
だが俺の現状は年増軍団に包囲されている。こいつはひとまずウォーミングアップ的にビールをたらふく飲んで年増共とかるーく戯れて、そのあと楽園へと飛び立つのだ!
そして開宴約一時間。俺の思い描いていたパラダイスから程遠い、地獄絵図の世界のようになっていた……
「永沢くんのおっぱい気持ちいぃ」
「いやだー、ホント。私よりあるじゃなーい」
「色白でキレイねぇ」
「ホント、羨ましいー」
「永沢くん、顔真っ赤よぉ」
「可愛いわねぇ」
「さぁー、飲んで飲んで」
「小島さんは、良い色に焼けてるわねー。それに引き締まった体なんかステキ。とても40過ぎには見えないわ」
「ウチの旦那はぷんぷくりんで子供にはハンプティダンプティなんて呼ばれてるのよ」
「あはははははー」
年増軍団たちの笑い声がみごとなステレオサウンドで俺の頭の中に響かせる。この音をかき消すために俺も大声を出して笑って見せる。
(女は熟しきるとこうなっちまうのか……熟女を越えて腐女だな……)
こんな腐女池地獄と言っていい空間にも関わらず俺の正面にいる小島の兄ちゃんは年増女どもにちやほやされ喜んでいる。
(そういや言ってたな。『ゴルフ好きの俺はとにかく穴に入れるのが好きだからな』なんてな)
そして何たることだ、腐女池地獄であえぎ苦しむ俺をよそに高橋は向かえのテーブルで脂の乗ったコンダクター女子を囲んでやんややんやと盛り上がっていやがる。時折聞こえるヤツらしからぬ大声での笑い声。
(クッソー、高橋の奴、先輩である俺を置いてきぼりにしやがって。腐女池地獄を抜け出して楽園へと行くぞ)
「ちょっと、オレ、便所」
と、言って俺が立ち上がった。
「だめぇ―っ」
そう言って俺の左横にいた金髪腐女がいきなり俺の手を引っ張った。
「どわぁーっ」
俺はその不意打ちに驚き、手を引っ張られた勢いをそのまま受けてソファへ叩き込まれた。
その勢いのせいなわけねぇだろう、この年増軍団は俺がソファへとケツを落としたと同時に一斉に飛び上がった。
「何、今の?」
ニタニタしながら言う赤縁メガネ腐女。
「マモルくん太りすぎぃー」
ゲラゲラ笑って言う俺のお袋を思い起こさせるアンパンマン腐女。
「今のはマグニチュード7レベルだな」
これまたゲラゲラ笑っていう穴好き兄ちゃん。
優しさに満ちた俺様もこの悪魔達を受け入れるには限界が来ていた。
「冗談きついっすわぁー。便所ぐらい行かせてくださいよー」
そう言って俺はもう一度立ち上がる。
そして再び……いや、今度は金髪腐女だけでなく、右隣の若い頃はかなりヤッてたそうな色褪せ腐女までもが俺の腕を引っ張った。今度は2倍の力で引っ張られたせいでかなりの勢いでソファへ。
「うわっ」
周りの腐女軍団は一斉に一段と激しく飛び跳ね馬鹿笑いをする。
「レディの前で便所なんて言わないの」
「そうよ。お手洗いね」
「そう、お手洗いに行ってきます」
「できれば用を足してきますのがいいかな?」
(なんでこんなところで意味のないマナー教育なんだ……)
俺はただ「いやぁー、すみません。田舎育ちの俺は下品な言葉使いがすぐで出ちゃうんですわー」なんて心にもない言葉が口から出る。
(もう、なんでもいいぜ)
俺はあきらめてビールを一気に飲み干し追加を叫んで頼んだ。
どうしてだろう? ここの連中はまったく動きゃあしない。もうかれこれ一時間半は経ったんじゃないか? 俺は両手にカビ付いた花を添えたままここに座っている。周りをちらちら見渡すと若者たちは若者たちだけで楽しそうに盛り上がっている。
(つまり俺はもうここのグループに属しているんだな、奴らから見たら……)
年の差なんて今まで感じたことは無かったがこの時初めて心底感じた。
もう何杯目か覚えていない生中ジョッキを空にし「はぁ……」と小さく溜息をつき俯くと、俺の胸をブルブル揺らしているスマートフォンに気づいた。俺は胸ポケットからスマートフォンを急いで取り出すとそれは馨ちゃんからの電話だった。
俺の心の闇へ一点の光が降り注いだ。俺は興奮した。
「もすもす! 馨ちゃん?」
『おー、や……出た。ご……さぁ……』
悪魔たちの声が完全に馨ちゃんの声を消していてよく聞こえない。
「馨ちゃん、ごめん、ちょっと待って。すんません、ちょっと電話なんで」
俺は今までと違いかなり遠慮気味で言って立ち上がった。
「あら、彼女から? しょうがないわねぇ」
そう言って悪魔達は簡単に道を開けてくれた。
(ついに天国への道が開かれた!)
俺は地獄の4番テーブルから抜け出すと階段の踊り場まで出て馨ちゃんとの話しを続けた。
「馨ちゃん、ごめんごめん。周りがでらうるさくてよぉー」
『うん、聞こえたよ。かなり盛り上がってるみたいね』
さっきまでの悪魔たちの声とは違い薫ちゃんの言葉ひとつひとつが気持ちよかった。天使のささやきだな、ほんとマジで。
「もうー、最悪だわ。おばはんパワー炸裂でよぉー」
『お姉さま方に可愛がられたんだ?』
馨ちゃんはそう言ってカラリとした爽やかな笑い声を出した。
「ああ。マジ厳しいっす。しかし馨ちゃん、遅かったなぁ」
『あー、ゴメンね。少し前に高橋くんにメールしといたんだけどリターンなくて』
(クソ、付き合いの長い俺より先に高橋かよ)
そんなちょっとした嫉妬心も一瞬沸いたが今の俺にはそんなことはノミみたくちっちゃな事だ。
『まだ、大丈夫?』
「ああ、まだ予定時間まで30分くらいあるし、それにどうせ時間通りに終わりゃあしないって。で、今どこ?」
『藤が丘駅を出たところ』
「そっか。じゃ、店の前で待っといてやるよ」
『何、気持ち悪い。アンタが待ってるなんて』
「なんだよ、じゃあ、高橋ならいいのかよ?」
『そうね、アンタよりは』
そう言ってまた馨ちゃんは爽やかに笑った。正直に言って今は馨ちゃんに会いたくて仕方なかった。
「そうか、じゃあ俺が代わり行ってやるから」
『そ。アリガト、じゃ』
馨ちゃんはどんな顔して「アリガト」なんて言ったのかな? と、腐女池地獄で気が変になった俺の頭の中に浮かび上がると自然に階段を駆け下りていた。