初めての恋 1
二五-二期生たちの訓練生活にささやかなアクシデントが発生したのは、初日から十日程が経過した頃だった。
この日は語学レッスンが休みで、訓練生たちは全員『所外実習』として、実際にボランティア活動に従事する一日となっていた。各生活班ごとに三、四グループに分かれて、TTC近隣の農家や商店、保育園などに赴いて活動するのである。とはいえ先方は言葉も通じるし、毎回のように訓練生を受け入れている施設ばかりなので、現地での活動に比べれば入門編もいいところだ。まだまだ序盤だし、文字通りの小手調べとして設定されたカリキュラムなのだろう。
永田の実習先は、TTCから歩いて約十五分の場所にある米屋だった。都会では今やほとんど見かけない、米屋という商売がまだ成り立つことに驚いたが、店を経営する五十代の夫婦によれば、日本酒や米粉を使った麺などもネット販売していて、むしろそちらの方が主力商品なのだとか。
「便利な時代になって、助かったよ」
「ネットのお陰で潰れちゃうところもあれば、うちみたく助かるお店もあるってことかしらね」
「そりゃおまえ、日頃の行いってもんだろ」
「あら、それならむしろ、うちは潰れてなきゃいけないわね。納品先の娘に手え出して、嫁にしちゃうお米屋さんですから」
「ひ、人聞きの悪いことを言うな!」
店舗スペースとなっている風通しのいい土間で、昼食に加えて、おやつまで振る舞ってくれた『渋谷米店』の夫婦は、そんな会話をして永田たちを笑わせた。
「まあでも、昔はそういう自然な出会いが普通でしたよねえ」
おやつのどら焼きを美味しそうに頬張ってしみじみと頷くのは、永田が所属する三班の最年長、六十歳のSN隊訓練生、渡辺潮春である。
二五-二期生が揃って尊敬する潮春は、代々続く空手道場の経営者兼総師範で、若い頃にはコッパツ隊、そして四十を過ぎてからもSN隊を一度経験している、国際協力の大ベテランだ。空手界ではかなり知られた人らしく、警察学校や自衛隊にも教え子が多いというのを、永田も複数の仲間たちから聞いた。二度目となる今回のSN隊も、遠くブラジルのスポーツ庁から「シオハル・ワタナベセンセイを派遣して欲しい」と、わざわざ名指しでオファーがあったほどだという。
「潮春さんも、奥さんとは自然な感じで出会われたんですか?」
「あ、ケンちゃん、それ私が聞こうと思ったのに!」
潮春の隣から、やはり三班の仲間である「ケンちゃん」こと高島健一と、中田明日香が興味津々の顔で食いついてきた。永田を含めたこの四名が、今日は同じグループで活動している。
「取引先じゃないけど、うちのかみさんも生徒さんの娘だったんだよ」
「へえ」
「じゃあ生徒さんが、義理のお父さんになったってことですか?」
「うん。もともとあっちの親父さんも、私を娘と一緒にしちゃいたいって、企んでたみたいでね」
少々照れた口調で答える潮春の姿に、渋谷夫人が笑みを浮かべて尋ねる。
「でもコッパツ隊だって、TTCが縁で結婚される方々もいるんでしょう?」
「ええ。私のかつての同期にも、何組もいますよ」
潮春の答えを聞いて、永田は「え!? そうなんですか?」と思わず声を出してしまった。
「なんだよ、ヒデ。知らないの? 岳ヶ根マジック」
健一が意外な顔をする。
「岳ヶ根マジック?」
「TTCでの訓練中に、恋に落ちちゃうこと。同じ任国の同じ任地でもない限り二年間の超遠距離恋愛が前提になるのに、それでも付き合っちゃうんだから、これはもう恋の魔法以外の何ものでもないじゃない」
「ボランティア訓練所っていう、非日常が後押しするのもあるんだろうけどな」
明日香も加わっての説明に、永田は「へえ」と他人事のように頷くしかなかった。少なくとも自分には、そんな魔法がかかることはないだろう。TTCでの生活はたしかに充実したものだが、語学をはじめとする日々の訓練のなか、とてもじゃないが恋愛に目を向けている余裕などはない。
「あ……」
前言撤回。少なくとも、目を向ける機会だけはあった。決してそういう意図ではないが、ついぼけっと見つめてしまうことの多い女性が。
――永田君てば、私に見とれてぼーっとしてたんだ。
いたずらっぽい声が実際に聞こえたような気がして、永田は麦茶のグラスを思わず落としそうになった。
「大丈夫かい?」
「あ、はい。すいません」
さすがというべきか、潮春だけは永田の様子を見逃さず、しかもなぜかおかしそうな顔をしている。
「な、なんですか?」
「いや、永田君を見てると、なんだか若い頃を思い出すなあと思ってね」
「はあ」
それはつまり、自分も人生で何度も、海外ボランティアに参加しそうなキャラクターということだろうか。そういうのはむしろ、カズやニッシーだと思うのだが。
微妙な顔になりかけたとき、そのカズの声が飛び込んできた。
「失礼します!」
「あら、いらっしゃい」
「いや、どう見てもお客さんじゃないだろ」
のんびりした渋谷夫妻のリアクションとは裏腹に、店先に現れたカズの顔は険しいものだった。よく見ると肩で息もしている。ここまで走ってきたようだ。
「カズ、どうしたの? あ、すいません、僕たちの同期です」
後半は渋谷夫妻に説明して、永田はもう一度彼の方に顔を向けた。カズの活動先も同じ町内で、向こうは花卉、つまり商品用の花を栽培する農家だったはずだ。たしか、ミユも一緒だと言っていた。
「コッパツ隊訓練生の森本和茂といいます。突然すみません。じつは――」
あらためて渋谷夫妻に頭を下げたカズは、緊張した声のまま続けた。
「女の子が、行方不明なんです」