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TTC 4

 初日は入所式の後、生活班、さらには語学クラスごとに分かれて、それぞれの顔合わせやオリエンテーションが行なわれただけで一日が終了した。

 永田が学ぶことになる『フランス語・Aクラス』はマダガスカル出身だというアフリカ系の中年女性が担任で、「ヨシュウ・フクシュウ、しっかりしてね。ワタシが日本語喋るの、今日だけよ」と分厚いテキストを掲げ、にこやかに釘を刺されてしまった。研修の大部分を占める語学は、予想通り大変そうだ。とはいえ、クラスメイトの六人は全員自分と同じ二十代、しかもうち二名が同じリンダーラ共和国派遣だったので、皆すぐに打ち解けることができた。


 上々の滑り出し、かな。


 流れのまま、クラスメイトたちとともに夕食を取り、さらに大浴場で気持ちよく入浴も済ませた永田は、上機嫌で本館一階の廊下を歩いていた。もう一度、建物の間取りを確認しておこうと、わざと遠回りのルートを通って自室へ戻ることにしたのである。

 八月の岳ヶ根市は、夜でもじゅうぶん暑かった。部屋着として持ってきた古いTシャツに短パン、サンダル履きというラフな格好で、語学教室が並ぶ廊下を進んでゆく。たしかこの先には図書室や、簡単な調理などができる「実習室」という部屋があったはずだ。


 図書室は何時まで空いてるんだっけ、と思いながら語学教室の端に差しかかったとき。

 部屋のひとつから、明かりが漏れているのに気付いた。語学クラスは会話中心の少人数授業なので、どの部屋も小さい会議室ような形になっており廊下側に窓などはない。

 その閉ざされた空間の、ドアと壁の隙間からかすかな光が覗いている。


 ここは、ええっと……。


 ドアの上にかけられたプレートを見ると、《ロシア語教室 A》と書いてある。

 自分でもなぜかはわからない。けれど右手が、無意識のうちにドアをノックしていた。


「はい、どうぞ」


 答えたのは、落ち着いた女性の声だった。


 あれ? この声――。


 目を丸くしてドアを開けた永田と、なかにいた女性から同時に声が上がった。


「あっ!」

「あ」


 長方形に並んだ長机の、いわゆる「お誕生日席」。そこにたったひとり座っているのは、今日三度目の邂逅となる、あの美しい女性だった。隣の座席には、黒くて大きなブランケットが置いてある。


「す、すいません。勉強中でしたか? えっと、風呂上りに本館を散歩してて、図書室がまだ空いてたら覗いてみようかなって思って、それでここの廊下を歩いてたら、ドアから明かりが見えて、思わず、つい……」


 どうして俺、こんなに動揺してるんだろう?


 頭の片隅で自問自答しつつ、しどろもどろに言い訳をすると、落ち着いた答えが返ってきた。


「いえ、大丈夫ですよ」


 駅のロータリーと入所式。やはり目が合った過去二度と同じように、女性が柔らかく微笑む。ゆったりしたTシャツにジャージのハーフパンツ姿なのは、彼女の方も入浴を済ませたからだろう。化粧っ気のほとんどない顔は、それでもまるで変わっていない。つまり、とても美人だ。


「全然、大丈夫です」


 同じ言葉を同じ微笑とともに繰り返して、女性は小さく首を傾けた。よく見ると彼女の右手は、スタイラスペンのようなものを握っている。タブレット端末か何かで、絵を描いていたのだろうか。

 ペンの先へと視線を動かすと、案の定、机に置かれたタブレットが目に入った。


「あ! み、見ちゃだめです!」


 あたふたと液晶画面のカバーが閉じられる。


「あっ、すいません!」


 こちらも慌てながら顔を戻すと、彼女は恥ずかしげな上目遣いをしていた。心なしか、頬も赤くなっている気がする。


「いえ、よく見てませんから! 見ちゃってません! 見えてません!」


 またしても必死に言葉を重ねて、永田は左右の手を激しく振った。


「……本当に?」

「本当に」


 銃を向けられたみたいにして、両手をそのまま掲げてもみせる。すると、大仰な仕草がツボにはまったのだろうか、ぷっと吹き出した彼女は、ふたたびあの柔らかい笑みを浮かべてくれた。


「ごめんなさい。絵を描いてたんですけど、下手っぴだから恥ずかしくて。あ、私、中央アジアのアラルキスタン共和国に派遣予定の、()(なみ)(ゆき)です」

「リンダーラ派遣予定の永田秀樹です。こちらこそ、すみません。急に入ってきたうえに、なんか困らせちゃって」

「いえ、ちゃんとノックもしてくれましたから。それに夜十時までなら、空いてる教室で自由に自習していいそうですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。手引きの隅っこに書いてあったんで、職員のかたにも確認しました。受付をされてた小柄なお姉さん、ええっと――」

「ああ、マイキーさんですね。ワトソン麻衣子さん」

「そうです、そうです。マイキーさんに」


 ミステリアスな美女だと勝手に思っていたが、雪は話してみるとごく普通の女性だった。柔らかな微笑と明るい声がよくマッチしており、ミユも言っていたように、どこかの女子アナか、お天気お姉さんぽい印象を抱かせる。

 まさにお天気お姉さんよろしく、持っていたペンを軽く立てた雪が、ごく自然に尋ねてきた。


「永田さんってたしか昼間、ヒデさんって呼ばれてましたよね?」


 近くを通った際、カズやミユとの会話が聞こえたのだという。


「はい。秀樹なんで、ヒデ。そのまんまですけど」

「隣のかたのことも、あだ名で呼んでらっしゃいましたよね。お友達と一緒にコッパツ隊に参加ってことですか?」

「いえ、あそこで知り合ったばかりです。隣にいた彼はカズ、森本和茂。生活班は八班で、派遣されるのは、ええっと、グランなんとかっていう南の島だそうです」


 カズに怒られるな、と内心で苦笑すると、驚いたことに雪は即答してきた。


「ああ、グランネシア諸島」

「あ、そうです。よくご存知ですね」

「世界地図を見るの、好きなんです、といっても、本当は日本から出たことすらないんですけど。今回のコッパツ隊が初めての海外で」

「へえ」


 永田は目を丸くした。そんな人もいるのだ。だがたしかに、コッパツ隊の参加条件には海外経験はおろか、渡航歴の有無なども関係ない。特に最年少の二十歳で参加するともなれば、そうした人が他にも複数いるかもしれない。


 ていうかこの人、いくつなんだろう?


 かなり気になるものの、永田はとりあえず別の質問を口にした。


「じゃあ、リンダーラのこともご存知ですか?」

「アフリカですよね。たしか大西洋に面してて、大陸のちょっと上の方でしたっけ」

「はい。凄いな、ほんとに詳しいんだ」

「地図の上でだけですけどね。ペーパードライバーみたいなものです」


 ふふ、とおどける雪の笑顔は、本当に二十歳の女子大生といっても通用しそうなほどだ。「綺麗」と「可愛い」が同居しているような、魅力的な微笑み。


「永田さん、おいくつですか? あ、ご迷惑じゃなければ」


 チャーミングな笑顔のまま、雪の方から訊いてくれた。


「二十五です。今年、なりました」

「あ、じゃあ同い年ですね! 学年は私の方が、ひとつ上になっちゃうけど」

「そうだったんですね。てっきり二十歳そこそこだと思ってました」

「あら、入所早々だし、なんにも出ませんよ?」


 もう一度おどけた雪は、カズと同じような台詞を続けた。


「同期でしかも同い年だから、敬語じゃなくていいですよ。私もそうしますから。……じゃなくて、そうするから」

「あ、うん。ありがとう」


 カズに言われたときと同様、永田も素直に応じる。


「でも、なんて呼べばいい? 日波さん、ニックネームとかは?」

「お友達とかはそのまんま、名前で呼んでくれてるよ。だから『雪』で大丈夫。あとは、ユッキーとかかな。永田君は? ああ、そっか、ヒデか。でもなんか、呼び捨ては申し訳ないなあ」


 自分には呼び捨てでいいと言ったばかりなのに、雪は矛盾するようなことを口にして、可愛らしく小首を傾げている。意外に天然なところもあるのかもしれない。


「じゃあ、俺も日波さんて呼ぶよ。そのうち馴れ馴れしくなって、〝雪〟呼ばわりしたら、ごめん」

「いいよ、そうしたら私も〝ヒデ〟にするから」


 いたずらっぽく笑う彼女に一瞬見とれそうになりながらも、永田も自然と顔がほころんでいた。

 やはりTTC生活の出足は順調なようだ、と嬉しくなった瞬間。

 雪の傍らのブランケットが、()()()()()()


「!?」


 ぎょっとした永田の目を、雪とは別の黒々とした瞳が見つめてくる。


「ワン!」

「あ、永田君も彼に好かれたみたいだね」


 嬉しそうに雪が頭を撫でたのは、大きなレトリーバー犬である。全身が黒いうえに大人しく丸まっていたので、てっきりブランケットだとばかり思っていた。


「よかったね、フラン。また新しいお友達だよ」


 フランと呼ばれた大型犬は、言葉がわかっているかのように、嬉しげな顔で永田の方へ歩み寄ってきた。ふさふさの尻尾も左右に揺れている。


「フラン?」


 フンフンと鼻先を擦り付けてくる姿に対してしゃがみ込みながら、永田は訊き返した。


「うん。フルネームは、フランダッシュ(やま)()

「……何それ?」

「近所の山田さんていう農家で生まれたのを、TTCで引き取ったんだって。三歳のオスで、職員さんたちにはフランって呼ばれてるみたい」

「ふーん」

「コッパツ隊とSN隊の訓練期間は、私たち訓練生が交代で、お散歩とかご飯を担当するんだよ」

「あ! それでか!」


 なぜか詳しくは説明されなかったが、生活班オリエンテーションで配られた係分担表に、《食事当番(お散歩/ご飯)》という謎の文言が記載されていたのを永田は思い出した。


「この部屋に入ろうとしたら、先にフランが寝てたから私もびっくりしちゃった。それで慌てて職員室へ伝えにいったら、フランはみんなの家族ですから、って教えてくれて」

「へえ」


 みんなの家族という言い方は素敵だな、と永田は素直に思った。きっとフランはTTCのマスコットとして、毎回の訓練生たちに愛されているのだろう。


「よろしく、フラン」

「ワン!」


 永田の挨拶に答えて、フランはさらに大きく尻尾を振ってくれた。

 同い年の美女と可愛いマスコット犬。

 明日も風呂上りは遠回りしようと、永田は思った。

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