志願兵の恋 4
「そんな男がボランティア? しかも、またもや女子高生が近くにいるじゃないか。君、大丈夫かね?」
相変わらずの下劣な笑みとともに、加賀谷がわざとらしくリリちゃんを見る。
しかしリリちゃんは、胸を張って堂々と言い返してくれた。
「何が大丈夫なんですか」
「今、教えてあげた通りだ。彼は痴漢かもしれないんだよ?」
「ヒデさんが、そんなことするわけないじゃない! 大体、あんた自身が冤罪だって言ったでしょう! いい加減にしなさいよ、脂ぎった頭して!」
トラウマというわけではないが、どうしても避けがちになってしまう、女子高生という存在。にもかかわらず、無邪気に接して仲良くなってくれたコッパツ隊の卵。優しいその子が、自分などのために真剣に怒ってくれている。永田の胸は熱くなった。
リリちゃんの反論に、周囲からも次々と同調する声が上がる。
「ヒデ、くだらない言いがかりなんて気にすんなよ!」
「そうよ! ヒデがちゃんとした人だってこと、私たちが一番わかってるから!」
依然として手を握り合ったままの健一と明日香が、加賀谷を睨みつける。
「うちらだって信じてるよ。永田君みたいないい子が、犯罪者のわけないじゃん。あんた、ばっかじゃないの?」
食堂のおばちゃんたちは、おたまやフライ返しを今度は加賀谷に突きつけ、むしろ呆れた口調だ。
「冤罪だし、むしろ永田君は被害者だろう。それをまたこうして、しかも大勢の前で蒸し返すなんてあんた、名誉毀損て言葉を知らんのか?」
腕を組み、厳しい顔で加賀谷に抗議するのは、渋谷米店のご主人である。
もちろん、彼らだけではない。
「ヒデ」
「永田さん」
「ヒデさん」
「永田君」
カズ、ミユ、ニッシー。繋。タカシ、マイキー、リリちゃん。そして雪。
四種類の呼び声とともに、八本の手が永田の肩や背中をそっと支えてくれた。崩れそうに、折れそうになった心ごと、優しく。温かく。
「ありがとう」
振り向いた永田は、涙をこらえて頷いてみせた。嬉しかった。心強かった。
だが一方で、加賀谷は依然として挑発を止めない。ひょっとしたら、ここで誰かに手を出させて、TTC取り壊しのさらなる理由を作るつもりなのかもしれない。
「なるほど。犯罪者予備軍の君たちは、同じ人種同士、固い友情で結ばれているというわけか。お見事だ。まさに、類は友を呼ぶ――」
「黙りなさい」
その声――加賀谷の汚い言葉を遮る、凛とした声を聞いた瞬間。永田の腕に、なぜか鳥肌が立った。
「あなたこそが、本物の犯罪者のくせに」
周囲の温度が急に下がったような、いきなり冷凍室に入れられたような感覚。永田だけではない。カズとミユ。ニッシー。タカシとマイキー。リリちゃんに繋。さらに周囲の人々。皆が皆、ハッとなって動きを止めている。
「加賀谷光男。アース&ハート社。JIAS。外務省……国際協力推進課? 課長の……大久保、かしら」
声は、冷たさとともに言葉を紡ぎ続ける。
「あら、外務副大臣まで? ……ああ、そうか。接待交際費として扱ってるのね。献金? でもこれ、立派な賄賂じゃない」
「!?」
次々と出てくる単語に、加賀谷の顔だけが目に見えて色を失っていく。
「姉さん!」
焦った口調で呼びかける繋に、冷たい声の主――雪はそっと振り返った。
「いいの」
静かに答えてから、彼女は前に歩み出た。声と同じ冷え切った視線を、加賀谷に浴びせながら。その全身を凍てつかせながら。
「賄賂は……計三回、か」
「な!?」
「駄目だ、姉さん!」
弟の叫びを無視して、雪がこめかみにすっと手を当てる。何かに集中するような表情で。
永田の脳裏に、「偏頭痛持ちだから」と語って同じポーズを取っていた、いつかの彼女の姿が甦った。
「原発関連助成金? ああ、三田杉は福島よね。それもネコババするつもり、と」
「な、なぜ……君は……ま、まさか!」
「知ってはいるようね。でも無駄よ。動揺すればするほど、心が揺らげば揺らぐほど、私には見える。感じられる。あなたの頭のなかが」
今や加賀谷の顔は、真っ青になっている。
「本物の犯罪者」と断罪した男に無慈悲な目を向けたまま、雪は淡々と告げた。
「ベト族の、私には」
「えっ!?」
小さく声を上げたのは、マイキーだった。
「ベト族……ユッキーさんが」
続いた台詞に、穏やかな微笑を取り戻した雪が振り返る。
「はい。私と繋は、ベト族の血を引いています。伊庭の山奥出身ですから」
見慣れた笑顔に少しだけほっとした永田は、雪の実家が岳ヶ根の隣にある伊庭市、それも「山の方」だと、教えてもらったことがあるのを思い出した。同時に、彼女が加賀谷に向けた言葉も。
――私には見える。感じられる。あなたの頭のなかが。
「まさか」
自然とつぶやいていた。まさか、ベト族とは……。
目と口をぽかんと開けた自分の顔を、雪が悲しそうに見つめたとき。
「中央アルプスの山岳部、つまりこのあたりには、狩猟や酪農で昔ながらの生活を守り続ける土着の部族が、今も少数ながら暮らしているんだ。北海道で言う、アイヌの人たちみたいに」
彼女を労わる表情で、やはり前に進み出たのは潮春だった。
「彼らはベト族と呼ばれ、地域全体でとても大切にされている。けど若い世代には、麓の岳ヶ根市や伊庭市で学校に行ったり仕事をしたりと、一般的な市民として暮らす人も多い。ちなみに〝ベト〟というのは、昔の言葉で〝土〟を意味するんだそうだ。土とともに、土地の霊とともに生きる人々。これが、名前の由来らしいよ」
仰る通りです、というように雪が柔らかく頷く。潮春も同じ仕草を返して続けた。
「ただし、ベト族が敬われるのには他にも理由がある。一族の、特に女性のなかに、ごくまれに受取人が現れるからだ」
『受取人』という言葉自体は知らなくとも、それがどういう存在なのか、永田には即座に理解できた。ずっと彼女のことを見てきたから。意識してきたから。
行方のわからなくなった、詩織ちゃんの居場所を察したこと。
サコエモンに餌をあげているのが、タカシだと指摘して見せたこと。
ニッシーが既婚者だと、早々に気付いていたこと。
カズとミユの気持ちを、確信を持って把握していたこと。
雪が示した数々の言動は、その受取人の能力ゆえだったのだ。勘が鋭いなどというレベルではなく、実際に心を読み取れるような力を持っているのだろう。
「いわゆるシャーマンとか、大昔の巫女さんと同じ能力らしいです。俗に『テレパス』や『精神感応』って言われるたぐいの。もっとも、本人がその気にならなければ力は使えないですし、僕も含めて他の家族はさっぱりですけど」
穏やかな声で繋が補足してくれた。彼もまた、カズとミユがたがいに素っ気無くなった原因を推理してはいたが、あれは単純にロジックに基づくものだったらしい。
「あなたも岳ヶ根の人間なら、私たちについて噂ぐらいは知っているでしょう」
呆然とする加賀谷に、雪がもう一度冷たい目を向ける。
「他人の心を覗き、ときとして逆に、そこへ入り込むことすら可能な力。受取人に対して嘘は許されない。拒絶も許されない」
加賀谷は必死に何かを言おうとするが、分厚い唇は酸素を求める魚のように、ぱくぱくと開閉するだけだ。
「この力を尊ぶあまり、恐れるあまり、かつては親兄弟ですら奴隷のように使役することが許された、社会の外側にある存在。それが私たち。それが、私」
射抜くような視線のまま、雪は続ける。
「あなたなんかと違って、永田君はこれっぽっちの犯罪行為も犯していない。そんなこと、力を使うまでもなくわかることだけど」
切れ長の目から発せられる光がさらに強く、冷たくなる。
「ひいっ!」
突然悲鳴を上げた加賀谷が、バインダーを放り出して耳に両手を当てた。
「な、なんだこれは! 勘弁してくれ!」
必死に耳を押さえ、のたうちまわる彼の姿に、周囲の人間が怪訝な顔をする。だが永田だけは、目を見開いていた。
あのときと同じだ。
雪と初めて出会った、岳ヶ根駅のロータリー。あの場所で、頭のなかに直接響いた声。
――優しそうな人。
何かの拍子に力を使ってしまっただけなのかもしれないが、雪は受取人の能力で、永田に抱いた良い印象を伝えてくれたのだ。
そして今は、力を攻撃的に使っている。きっと加賀谷の脳内には、彼女が念じる言葉(具体的にどんなものかまではわからないが)の数々が、凄まじい大きさで響き続けているのだろう。
「わ、わかった! 好きにしていい! だから、だからもう止めてくれ!」
両耳を抑えたまま激しく首を振った加賀谷は、ついには土下座するようにぺたんと座り込んだ。ポマードと混ざり合った汚い脂汗が、こめかみのあたりをだらだらと流れ落ちている。
「当然よ。あなたたちの企みは全部、警察とマスコミに知らせるから。そのバインダーを置いてさっさと消えて。そして、もう二度とTTCに近づかないで。所長、あなたも同罪です。すぐに正式な処分が下ると思います」
雪の台詞が終わらないうちに逃げ出す加賀谷と、すべてを聞き終えてから、とぼとぼと玄関の外へ消えていく高松。ふたりの姿は、最後まで対照的だった。
数秒置いてから、わっという歓声が上がった。
「ユッキー、凄い!」
「かっこいい!」
「これでTTCは、守られたんだよね!」
「ありがとう!」
溢れる称賛のなか、けれどひとりだけ唇をかむ者がいる。
「姉さん……」
周囲が落ち着くと同時に、繋の悲しげなつぶやきが響いた。
「どうした、繋?」
「まだなんか、心配事か?」
カズとニッシーの問いに、繋はどう答えていいかわからないといった顔を向ける。
「皆さんはこれでいいかもしれません。でも……でも、姉さんは」
「いいよ、繋。あとは自分で言うから」
何かを続けようとした繋を、雪はそっと遮った。どこまでも優しい声で。加賀谷と高松を容赦なく追い払った受取人のそれではなく、弟を思いやる姉の声で。
穏やかに微笑んだ雪は、周囲を見渡して言った。
「この通り私はベト族の、しかも受取人です。そして潮春さんが仰ったように、今の時代は私たちベト族も、多くが普通に暮らしています。東京や大阪といった大都市に出て普通にサラリーマンをしている人や、結婚して家庭を持っている人もいます」
ふたたび始まった解説に、笑顔を向け合っていた仲間たちがきょとんとなる。すっかり軽くなった空気を愛おしむように、笑ったまま雪は続けた。
「でもそれは彼ら、彼女らが文字通り普通だから。普通の人間として、周囲にも受け止められているから」
「日波さん」
思わず声をかけた永田は、雪の笑顔が違うことにいち早く気付いていた。
日波さんの笑顔じゃない。
なんでもないとき。日々の、なんでもないこと。ささやかな喜び、ささやかな楽しさ、ささやかな幸せを受け止めるときの雪の笑顔は、もっと朗らかで、楽しげで――。
「駄目だよ」
どうしてそんな台詞を口にしたのかは、わからない。まさか自分まで、受取人になってしまったわけでもないのに。
言葉がさらに連なっていく。
「駄目だ、そんなの」
心のままに。
「駄目だって! 俺は、嫌だよ!」
心が動くままに。
「君ともう会えないなんて!」
さっき以上にぽかんとなった空気のなかで、静かに振り向いた雪だけが答える。
「ありがとう」
刹那、雪の笑顔が変わった。雪の笑顔に変わった。永田が大好きな、自分をからかうような微笑。あのいたずらっぽい笑み。
ひとつだけ違ったままなのは、切れ長の目が真っ赤なことだ。
「そう。受取人は、受取人だと知られてはいけないの。存在を明らかにして、人と交わってはいけないの。当然よね、こんなに危険な力なんだもの」
雪は語る。永田だけを見つめて。
「だから力のことを、自分の出自を知られた受取人は、ベト族の村へ帰らなきゃいけない。二度と村から出てはいけない。村のなかで暮らし、村のなかで子を成し、土地の霊や山の霊の声を聞きながら、部族を守ることに専念させられる」
「日波さん……」
「日波っていう名字の由来でもあるんだよ。大地の声を受け止める器。雛形。雛たる身。雪って名前は、それでも普通の社会に出てゆけるように、受取人の力なんて宿さず、普通の女の子として生きてゆけるように、って両親が付けてくれたの。ちょうど雪の日に生まれたからって、村の人たちにはごまかしながら」
しんとなった玄関ロビー。誰もが言葉を失った空間に、雪の告白は消えていった。
「だから、ごめんね」
「そんな……」
いつの間にか、雪の目尻に大きな雫が浮いている。それでも彼女は微笑み続けた。永田のために。いつもそばにいた男性のために。
「あなたと会えて、みんなと会えてよかった。普通の人として過ごす最後が、TTCでの生活で本当によかった。だからもう――」
「駄目だ!」
もう一度永田が叫んだのと、雪が玄関に向かって走り出したのはほぼ同時だった。
――大好きだよ、ヒデ。
あのときと同じように、頭のなかに声が響いた。




