志願兵の恋 3
満員の通勤電車で突然、永田が腕を掴まれたのは一年前のことだ。
「おい、何してんだ!」
そう言って右腕を握ってきたのは、いかにも正義感の強そうな、四角い顔をした中年のサラリーマンだった。
「何もしてませんよ」
努めて冷静に答えながら、永田は内心で焦った。
どうすべきか。どうすれば横にいる女の子を守り続けられるだろうか、と。
彼女のお尻を若い男が触っているらしいと気付いたのは、電車がひとつ前の駅を出た直後だった。視界の片隅で、ショートヘアの小さな頭がたびたび揺れ動いたのだ。背後の何かから逃れるようにして、何度も、何度も。
気になってそちらを見ると、制服姿の女子高生が泣き出しそうな顔をしていた。
まさか、と思った。まさか自分の眼前で、卑劣極まりない犯罪が行なわれているというのか。けれど視線を下げると、たしかに女の子のお尻付近に手があった。賢しいことに、掌ではなく手の甲が向けられた状態で。しかも今は微妙に隙間を空けている。いつか見た、痴漢は現行犯で捕まえるしかない、と書かれたネットニュースを思い出した。
腹立たしいが、今は女の子の保護を優先しようと決めた永田は、「すみません」と周囲に声をかけ、彼女と痴漢の間へ強引に身体を滑りこませた。女の子が、ハッとした顔で見上げてくる。
そっと目を合わせて、「大丈夫だよ」と口パクで伝えようとした瞬間だった。
少し離れたところから、中年のサラリーマンが自分の腕を掴んできたのだ。
「おまえ、この子のケツ触ってただろう!」
「触ってませんよ」
大声を上げるサラリーマンに、永田は舌打ちを堪えつつ答えた。これではなんのために、女の子を守ることを優先したのかわからない。
自分だってサラリーマンと同じように振る舞うことはできた。だが満員電車の、それも男性も沢山いるなかで、「お尻を触られた」「痴漢行為にあった」と衆知されることが、十代の女の子にとってどれほど恥ずかしいことか。
商売柄、カフェに来る女子高生もよく目にする永田は、彼女たちが見た目以上にナイーブで、か弱いことを知っている。伝えたい気持ちを我慢していたり、何かに向かって立ち上がる勇気が出なかったり。どれだけ活発に見えたとしても、中身は思春期の女性なのだ。ましてやこの子は、何度も身体を触られながら、泣き出しそうな顔でずっと耐えていた。
だから少なくとも、車内ではことを荒立てたくなかった。どこかの駅で痴漢の男が降りたら、そこで初めて奴に声をかけ、駅員に引き渡すつもりだった。
なのに。
「嘘をつくな! この子がさっきから後ろを見て、嫌がってたじゃないか!」
「それは俺じゃありません」
うんざりした顔でサラリーマンを見返したところで、電車が止まった。何事かという雰囲気で、まわりの乗客が自分たちを見つめている。
こうなってしまった以上、仕方ない。「あいつです」と、犯人の若い男を指差そうとしたとき。
「あっ!」
ドアが開き、流れる人ごみをかき分けるようにして男が逃げ出した。
「待て!」
追いかけようとした永田だが、サラリーマンに腕を掴まれているため動けない。
「おまえこそ待てだ! この痴漢野郎!」
そうして自分も引きずるように下車させられるなか、犯人は一目散に、改札へと繋がる階段を降りていってしまった。
我に返った永田が首をめぐらせたときには、被害に遭っていた女子高生も、もうどこにもいなかった。
結局その日は、会社を丸一日休むことになってしまった。
上司に連絡を入れ、痴漢の冤罪被害に遭ってしまったと正直に伝えると、「本当か!? 災難だったな。大丈夫か?」と心配そうに言ってくれた。とはいえ、飲食店プロデュースを請け負うだけの中小企業なので、弁護士の手配などをしてくれるはずもない。自分の身は自分で守るしかないと腹を括った永田は、駅員室までやってきた警察に、とにかく潔白を主張し続けた。
「DNA鑑定でも、なんでもしてください。僕は絶対にやっていません。そもそも車内に監視カメラだってあるでしょう」
幸い永田が使っていた路線も、頻発する痴漢行為と、それに準じて増加傾向にある冤罪事件への対策として車内カメラを設置していた。
だが監視カメラの粗い映像で、しかも混みあった車内の状況をはっきりと確認するのは、容易ではなかった。
「う~ん。言われてみりゃ、たしかにこっちの男っぽく見えるなあ。けど、あんたの位置からでも、手を伸ばせば彼女のケツは触れたんだろ?」
「知りませんよ、そんなの。本当に指一本触れてないんですから」
誘導尋問まがいの台詞に、慎重に返すだけでも一苦労である。というか、仮にも市民を守る警察官がその言葉遣いはどうなのだ。誤解したうえ、いきなり腕を掴んできた失礼なおっさんと同レベルではないか。
苛立ちと不安が重なり、永田の心身は疲れきっていた。昼前から始まった事情聴取は、もう三時間以上も続いている。もしや自分は、本当にこのまま冤罪の被害者になってしまうのだろうか。前科者になってしまうのか。
ようやく救いの神が現れたのは、本格的に不安が頭をもたげてきた、夕方近くになってのことだった。
「失礼します」
別の警官の声とノックに続いて、部屋の扉が開いた瞬間、自然と声が出た。
「あ!」
扉の向こうに立っているのは、痴漢被害に遭ったあの女の子だった。背後には、ご両親らしき男女の姿も見える。憔悴した永田の顔を見た彼女は、また泣きそうな顔になりながらもすぐに宣言してくれた。
「違います! この人じゃありません! この人は、私を助けてくれたんです!」
幸運なことに、彼女の顔は監視カメラの映像でもくっきり映っていた。かくして、このひとことが無罪証明となり、永田は辛くも犯罪者とならずに済んだのだった。
「ごめんなさい。こんなことになってるなんて、私、全然知らなくて……」
駅員室に招き入れられた女の子は、両親が見守る前で、ぽろぽろと涙を流し続けた。
「放課後に、SNS、を、見てたら」
堪え切れなくなったらしく、しゃくり上げながら必死に言葉を続ける。
「駅で、痴漢の、冤罪っぽい、事件が、起きてるって……。それで、お父さんと、お母さんにも、連絡して、急いでここに……。本当に、本当にごめんなさい!」
「申し訳ありませんでした」
「うちの子が、その場できちんと声を上げていれば」
ご両親まで、土下座するほどの勢いで深々と頭を下げてくる。
「いえ、気にしないでください。悪いのは全部犯人なんですから。それに、わざわざ来てくださって助かりました。どうも警察は、僕を信じてくれてないみたいですし」
最後の台詞だけはわざとらしく言ってやると、さっきまで尋問していた警官が、ばつが悪そうに視線を逸らした。
それでじゅうぶんだった。卑劣な痴漢行為にあった女の子が守られて、自分も罪人にならずに済んで。あとはただ、早く自宅に帰ってシャワーを浴びて眠りたかった。
しかし。事件は、このまますんなりと終わらなかったのである。
翌朝。普段通りに出勤した永田は、「何はともあれ、よかったな」と声をかけてくれた上司から、広げた新聞を見せられた。地方欄を飾る大きな見出しとともに。
《県内で、また痴漢冤罪事件》
新聞が伝えているのは、まさしく昨日あった自分の事件だった。もちろん永田の名前などは出ていないし、見出しの時点できちんと《冤罪》と記されてもいる。
だが「はい、そうですか」とはいかないのが世の中なのだ。
その日以来、永田は同僚たち、特に女子社員が自分に対して、薄いバリアーのようなものを張っていると感じるようになった。決して、表立って避けられるようなことはない。けれど間違いようのない事実だった。具体的には、自分にかけられる軽口が以前より格段に減ったり、オフィスですれ違う彼女たちが不自然に目を逸らしたり、といったことだ。
さらには、以前ならふたり一組で訪問していたクライアント先にも、なぜか永田だけが行かされたり、ついには担当を外されるような事態まで起き始めた。
ああ、と永田は悟った。
白いものも、見る人が色眼鏡をかけてしまえば簡単に色がつくのだと。
以前はこまめに帰っていた小田原の実家からも、自然と足が遠のいた。家族には話していないが、いらぬことを吹き込む輩がどこにいるかもわからないし、そんなくだらないことで、両親に肩身の狭い思いもさせたくない。
結局、事件から三ヵ月後に永田は会社を辞めた。コッパツ隊に応募したのは、会社を辞めた当日、電車の中吊り広告で訓練生募集のポスターを見たからだ。
まったくの偶然だが、ポスターに気付いたのは、腕をつかまれたあの駅に停車したタイミングでだった。




