専門家の恋 3
数日後、そのタカシが災難に見舞われた。
事件が起こったのは自主学習の、『任国で紹介しやすい日本の家庭料理』なる講座でのことだ。講座を主催したのは、主婦ながらSN隊に参加する中年女性数名のグループで、名前の通り発展途上国でも比較的入手しやすい、じゃがいもや人参、鶏肉などを用いた日本の惣菜料理の作り方をレクチャーするという内容である。ぱっと見の敷居の低さに加えて、「任国で紹介しやすい」という文句が功を奏したのか、当日は雪やミユら女子だけでなく、カズに永田、ニッシーと男性陣の参加も多かった。
そんななか、なぜかタカシも講師役のひとりとして、会場である実習室の教壇側に立っていた。なんでも主催者たちが、タカシが栄養士ということをどこからか聞きつけ、当日だけの参加で構わないからと頼んできたらしい。大人しい性格ながら、永田が感じたようにこの分野への愛情が深い彼の方も、「僕でよければ」と素直に引き受けたのだという。
が、結果としてこれが災難の元となってしまった。
いざ実習が始まりと、どこかのタレントのような巨漢の中年女性がやたらと場を仕切り、残りの数名は完全に下働き扱いだったのである。
唯一の男性講師であるタカシも例外ではなく、
「ちょっと野々村君、まな板すぐ洗って!」
「ほら、生ゴミ! きちんと分別しといて!」
「皿! 大きいのふたつ! ぐずぐずしない!」
などと、まるで板前の丁稚よろしく、上から目線でこき使おうとする。
「おいおい、なんだあのババア? ガマガエルみたいな見た目のくせに」
「超感じ悪いですね。ていうか、ガマガエルに失礼ですよ」
講座が始まってすぐに、ニッシーはもちろん、優しいミユまでもが露骨に不快な表情を浮かべた。
「タカシ、大丈夫かな」
「心配ね。タカシ君だからキレるなんてことは、絶対ないだろうけど……」
永田と雪も、心配そうに顔を見合わせるしかない。
「これ以上ひどくなったら、俺たちの方からも事務所に報告しなきゃな。もちろん何もなくても、終わったらみんなでタカシをフォローしよう」
すぐに対処法を提案してきたのは、やはりカズである。「そうね」と雪もすぐに頷いた。ふたりの向こうではミユとニッシーが、まだ不機嫌に言葉を交わしている。
「ていうか任国で紹介しやすいとか言ってるけど、こっちにあるようなカレールーって、逆に途上国にはないんじゃないですか?」
「つまり、あいつが偉そうに人前で喋りたかっただけか。この講座は外れだったな」
するとふたたび、まさに偉そうな声が聞こえてきた。
「野々村! あんたコッパツ隊なんでしょう? もっとハキハキしなさいよ。仕事が早いのはわかるけど、そんなんじゃ現地のクロンボたちを指導できないでしょ!」
ついには呼び捨てである。しかも彼を迎え入れてくれる現地の人々のことを、言うにこと欠いて「クロンボ」呼ばわりだ。
「もう我慢ならねえ! タカシもガマババアなんぞに遠慮しねえで、ガツンと言ってやれってんだ!」
業を煮やしたニッシーが、勝手なあだ名をつけるとともに、教壇の方に向かおうとしたとき。
「あっ!」
そのタカシが、めずらしく驚いた声を発した。
「何おかしなもの作ってるのよ! こんな付け合わせ、うちの猫ちゃんにだって食べさせられないわよ!」
なんと、彼がかたわらのバットに入れようとしていたオレンジ色の物体を、ガマババアが勝手に捨て始めている。
「ひどい!」
「おい、あんた! いい加減に――」
ミユとカズも一歩踏み出そうとした瞬間、さらに別の、それも激しい怒声が響き渡った。
「何しとんじゃ、コラァ!」
一瞬、永田はニッシーだと思った。だが違う。ニッシーの背中は、自分の目の前にある。というか、そもそも声が違う。
少し高い声は、女性のものだった。
実習室内の全員が振り向いた先、部屋の後方から声の主が教壇へと歩いてゆく。
「たいがいにせえよ、ババア? パワハラに差別発言、挙句の果てには、人の努力を踏みにじるような真似しくさりよって。マジ許せんわ」
束ねた黒髪とぱっちりした目。首からぶら下がるIDに記された、ニックネームの手書き文字。
「ま、マイキーさん!?」
ニッシーがあんぐりと口を開けた通り、怒声を発したのはまぎれもなくマイキーだった。自主学習講座には、TTC所員の誰かが必ずオブザーバー役で付き添ってくれるのだが、そういえば今回は彼女が担当で、部屋の後方にちょこんと座っていた。
昂然と胸を張ってガマババアに近づいたマイキーが、ぶよぶよの腕をわしづかみにする。
「ババア、ちょっと体育館裏……じゃなかった、会議室にでも来いや」
「え?」
「アホ訓練生に所員みずから、教育的指導をしてやろうってんだよ! グダグダ言わずにさっさと来い!」
「な、なんです!?」
動揺しつつもなんとか抵抗を試みるガマババアだったが、直後に脂肪で覆われた喉から、裏返った悲鳴を上げた。
「ひいっ!!」
ぎょっとして彼女が見つめるのは、腕を掴まれているのとは反対のマイキーの手だった。
「ちょ……! ま、待って!」
重ねて漏れる悲鳴のなか、マイキーはいつの間にか持っていたそれ――小型の果物ナイフを、慣れた手付きで軽やかにもてあそんでみせる。
「おかしなもん捨ててええんやろ? なら、あんたの指も切り刻んで、捨ててもええかもなあ?」
「すみません、すみません!」
「なんにせよ、ちょっとツラ貸してもらおか」
「ごめんなさいっ!」
「ごめんで済むなら警察いらんわ、ボケ! おら、きりきり歩かんかい! これだからデブは嫌なんじゃ!」
ボスッ! と音が聞こえたと思ったら、華麗な回し蹴りがガマババアの尻にヒットしていた。完全に主導権を握ったマイキーが、そのままずるずると彼女を連行してゆく。
ふたりの姿が実習室の外へと消えたところで、ようやく空気が動き出した。
「……マイキーさん、だよね?」とミユ。
「……うん」と雪。
「多分」と永田。
カズとニッシーも、あ然とした声で続く。
「ええっと……裏マイキーさん、みたいな?」
「つ、つまり、ダークサイドか。暗黒面ってやつか……」
あ然とする仲間たち以上に、タカシは教壇で固まっていた。
十分後。気を取り直した講師陣により、カレーではなく和風ポトフを作ることに実習は急遽変更されたが、横暴な人間もいなくなった講座はむしろスムーズだった。落ち着きを取り戻したタカシも他の良識派の人々とともにテーブルを回って、彼らしい朴訥な、だが的を射た適切なアドバイスを伝え始めている。
和やかな雰囲気がすっかり実習室全体に馴染んだところで、後方の扉が開いた。
「ごめんなさい、皆さん。先程はお騒がせしました」
本人が語るところの「教育的指導」を終えたらしきマイキーが、明るい顔で戻ってきた。目尻を下げて屈託なく笑う姿は、完全に普段通りだ。
「……暗黒面じゃないな」
「〝表〟に戻ってますね」
ひそひそとささやきあうニッシーとカズに、本人から明るい声がかけられる。
「どうしました? ふたりとも顔が強張ってますけど、お料理を失敗しちゃったとか?」
「め、滅相もございません! ねえ、ニッシーさん?」
「はいっ! 頑張っているのであります!」
なんで軍隊みたいなリアクションになっているんだ、とはさすがに誰もつっこまない。永田もさり気なく、小さな手にナイフが握られたままじゃないか確認したほどだ。
だが、マイキー自身は不思議そうに小首を傾げただけで、「じゃあ、引き続き頑張りましょう!」とガッツポーズなどしながら、教壇の方へと行ってしまった。
そこに戻っていたのは、タカシである。
「さっきはごめんね、タカシ君。大丈夫だった?」
「は、はい」
頷いたタカシの頬がなぜか赤い。
まさかキッチンドリンカーってわけじゃないよな、と永田が馬鹿なことを考えていると、隣の雪がわざとらしくつぶやいた。
「いいなあ、純情な男の子。鈍感と純情は違うもんね」
「なんの話?」
きょとんとする永田を見て、雪はおかしそうに笑う。
「でもタカシ君なら、たしかに年上の方がお似合いかも」
「え!? それって――」
ようやく理解した永田だけでなく、ニッシーとカズも意外な顔をしているが、ミユだけは微笑ましい表情でうんうんと頷いている。女性陣は、とうに察していたということか。
教壇の上では、すでに耳まで赤くなっているタカシのそばで、マイキーが無邪気に続けていた。
「タカシ君、栄養士さんだもんね」
「はい」
「あんな偉そうなババ……じゃなかった、おばさんなんかより、君がこうして教えてくれた方が、絶対みんなのためになるよ」
「ど、どうも」
「この前食べさせてもらった、プロテイン入りのスコーンも超美味しかった! 言われなければプロテインじゃなくて、普通のココアパウダー使ってると思ったくらい」
「ありがとうございます」
「さっき捨てられちゃったのは、これ?」
にこにこと、マイキーはタカシが手に持ったバットを手で示した。
「あ、はい。人参の和風グラッセです。もう一回作りました」
料理の話になったからだろうか、タカシの口調がほんの少しだけ、キリッとしたものに変わる。
「一般的なグラッセに、ちょっとだけ日本酒とみりんを加えてあります。どの任国もコッパツ隊や専門員さんの事務所に行けば、それぐらいは手に入るって聞いたので」
「へえ。でもたしかに、私が研修で行ったアフリカとか南米でも、専門員さんのところにはお醤油とかみりんは常備されてたなあ」
「はい。これなら、マイキーさんも食べられると思って」
「え? 私?」
「スコーンを食べてくれたとき、仰ってましたよね。人参が苦手って」
「じゃあひょっとして、私のためにわざわざ?」
「はい。この講座、マイキーさんがオブザーバーだって聞いたから」
「わあ、嬉しい! ありがとう!」
リリちゃんではないが、高校生カップルのような会話に「おい、なんかいい感じじゃねえか?」とニッシーがにんまりする。もちろん周囲も同じ気持ちだった。
ふたたびミユが、弟を見つめるような笑顔で口にする。
「タカシ君、素直でいい子だもんね」
「このまま、流れで告白とかしちゃったりして」
続いた雪の台詞が現実のものになるとは、周囲の誰もが予想していなかった。
赤く顔を染めたまま、タカシが恥ずかしそうにマイキーを見る。
「マイキーさんに、苦手なものをちょっとでも美味しく食べて欲しかったんです」
「優しいなあ、タカシ君。なんか年下の子に好かれてるみたいで、ほんとに嬉しいよ」
「はい、好きです」
「え?」
「マイキーさんが、好きです」
エアポケットのような空白の後、なぜか大きな拍手が実習室全体に湧き起こった。




