専門家の恋 2
昨日の夜九時頃だったろうか。もはや日課となった風呂上りの散歩がてら、永田はまたトレーニングジムへと足を運んだ。
いつだったか、ここで雪にヨガのポーズを見せられてドキリとしたが、幸い(?)あれ以降はジムで出くわすことはない。あの二日後に空き教室で顔を合わせた際には、「ジムで会ったらまた私の薄い胸、見られちゃうもんなあ」と例によってからかう口調で言われ、しかも隣にいたフランには、怒ったような声でひとつ吼えられてしまったが。
とはいえ、雪と一緒にリラックスした時間を過ごしたくないかと問われれば、もちろんそんなことはなかった。自分以外のメンバーだって、ほぼ全員が同じように思うだろう。
ひょっとして、他の人とも会ってるのかな……。
嫉妬ではないはずだ、と自分に言い聞かせつつジムへの階段を上った永田の耳に、重量感のあるドスンという音が聞こえてきた。
「あれ? タカシ?」
音の方を見ると、トレーニング用のベンチから起き上がったタカシが、大きなダンベルを床に置いたところだった。
「あ、こんばんは」
「筋トレ?」
「はい」
「へえ……って、三十キロ!?」
タカシが下ろしたダンベルには、30kgという文字が大きく彫ってある。つまり両手で六十キロ。
無言で頷くタカシの身体は、よく見るとTシャツの肩や胸が大きく盛り上がっている。そういえばニッシーさんと並んでも見劣りしないんだよな、と永田はあらためて彼の体躯を見つめ直した。そのニッシーは身長が百八十センチもあるうえに、「なんか気が付いたらこうなってた」という、農作業で自然と鍛えられた身体を誇っている。
「いつもここで筋トレしてるの?」
「三日に一度くらいです。どうしても筋肉痛が残っちゃうから」
「へ、へえ」
つまり筋肉痛が必ず出るほど、やり込むということか。
「あ、ごめん、邪魔して。続けて」
「いえ。今ので五セット、ちょうど終わったんで」
「ちなみに一セット、何回?」
「決まってないですけど最低でも六回、だいたい八回ぐらいを目安に限界までやります」
片手で三十キロものダンベルを少なくとも計三十回、これ以上はできないというところまで上げ下げするのがルーティンらしい。
「ええっと、やるのはどんなエクササイズというか、運動というか……」
「ダンベル・プレスです。こういうやつです」
答えたタカシは床のダンベルを持ち上げ、いったん太腿の上に立てるように置いてから、脚ごと持ち上げる形でごろりと横になった。
なるほど、と永田はあらためて感心させられた。この方法なら、仰向けになってからの無理な体勢でダンベルを持ち上げずに済むので、手首や肘などを痛める心配もない。
「凄いな。トレーニング慣れしてるんだ」
「いえ」
永田の感想に謙遜しつつ、タカシはダンベルを胸の上で綺麗に上下させてみせる。その名の通り、ダンベルで行うベンチプレス風の動きだった。
「でも、どうしても鎖骨が動きすぎちゃって」
ダンベル・プレスを何度か繰り返すなかで、タカシがぼそりとつぶやいた。
「は?」
「胸に上手く効かないんです」
「ふーん」
よくわからないが、筋肉に負荷をかけきれないということらしい。というか、トレーニング好きの人は、それを「効く」と表現するのか。
「やってみますか?」
「とんでもない!」
両手を振って即座に断った永田は、ベンチから少し離れた場所に置かれた、透明プラスチックの容器を発見した。
「あれ? それってひょっとして――」
「プロテインです」
さっきと同じ軌道でダンベルを床に戻したタカシが、起き上がって教えてくれる。
「やっぱり筋トレする人は、こういうの飲むんだ」
納得顔で頷いた永田だが、「ああ、そっか」とすぐに思い出した。
「そもそもタカシは、栄養学が専門だもんね」
「ええ、まあ」
「大学院でアミノ酸の研究してるんだっけ」
「はい。プロテイン、つまりタンパク質を構成するアミノ酸の研究です。ヒトとか動物の身体の元になるものです」
「ふーん」
「タンパク質を構成するアミノ酸は二十種類あって、みんな役割が違うんです。市販されてるアミノ酸のサプリメントは、それを単体で抽出したり、目的別に組み合わせているものです。逆に言えば、総合的な身体づくりという点では、こうして元のタンパク質の形で取る方がバランスがいいですし、コストもかかりません」
「なるほど」
さすがは専門家だ。タカシは筋トレを通じて、自身の身体でもそれらの効果をたしかめているのかもしれない。しかも説明しているときの彼は、普段よりはきはきした口調で、実際に研究結果をプレゼンテーションするかのようだった。なんだか微笑ましい気持ちにもなってくる。
「そういえば、タカシがこんなに喋ったの初めて聞いたかも」
「す、すいません」
「謝ることじゃないって。当たり前だけど、本当に詳しくて尊敬するよ。自分の専門分野が好きな気持ちも伝わってくるし」
「どうも」
褒められるのに慣れていないのか、ふたたびいつもの口調に戻ったタカシは、ぼそりと続けた。
「僕、子どもの頃、ちょっとだけ引きこもりだったんです」
「あ、そうなんだ」
控え目な性格だからというのも、あるのかもしれない。もちろん永田に引きこもりへの偏見など欠片もないし、兄貴分のニッシーをはじめ仲間たちも同じはずだ。
「だから、ヒデさんたちの方が全然凄いです」
「?」
何が「だから」なのかよくわからず、永田はきょとんとなった。
「皆さん自分の意見をしっかり喋れて、でも落ち着いてて。凄く大人って感じがします」
「そう? けどニッシーさんは、むしろ落ち着いてないんじゃない?」
逆に褒められたのが照れ臭かったので、とりあえずおどけた口調で返しておく。
するとタカシは真面目な顔のまま、ややボケた答えを返してきた。
「なかには、ああいう人も必要です。アミノ酸だって、ちょっと変わった作用のものもありますから」
「あはは」
声に出して永田は笑ってしまった。タカシにとっては一番わかりやすい例えなのだろう。
「僕も、もっと大人になりたいです。ヒデさんとかカズさんみたいな」
「ありがとう。ちなみに俺とかカズは、まだ普通のアミノ酸っぽい?」
「はい。ロイシンとかイソロイシンて感じです。スタンダードだけど、絶対人に必要とされる感じの」
またしてもよくわからないが、これも褒められているようだ。
「ありがとう」
永田がもう一度、心から伝えると、タカシも小さく微笑んでくれたのだった。




