専門家の恋 1
「皆さんは、まだ岳ヶ根マジックにかかってないんですか?」
「おい、リリちゃん。まだってなんだ、まだって」
八月の終わり。放課後の空き教室で響く無邪気な声に、ニッシーがすかさずつっこんだ。二十五―二次隊訓練生たちがTTCに入所してから、早一ヶ月が経過している。
「だって先輩から聞きましたよ。訓練生の半分以上は、TTCで恋に落ちるんですよね? で、二年間の超遠距離恋愛を越えて結ばれると、国から感謝状がもらえるって」
「は?」
「…………」
「ええっと」
「……国から感謝状、しか合ってないんだけど」
ニッシーだけでなく一緒にいたタカシ、永田、カズの三人も、なんとも微妙なリアクションとともに固まってしまう。
「ついでに言うと、感謝状は任期をまっとうすれば全員がもらえるからね」
「え、そうなんですか?」
カズの説明に、質問をしたブレザー姿の女子高生が目を丸くする。くっきりした眉の上、おでこのあたりで切りそろえられた、いわゆる「ぱっつん」な髪型がよく似合う女の子だ。
彼女、「リリちゃん」こと向井谷百合は、地元にある県立岳ヶ根高校の二年生で、その名もずばり『地域ボランティア同好会』に所属している。
「ボラ同」と皆が呼ぶ『地域ボランティア同好会』は、近隣の高校が複数合同で活動する、大学で言うところのインカレサークル的な同好会である。名前の通り、岳ヶ根市を中心とした地域でのボランティア活動を行なっており、ここTTCにも週に二日くらいのペースで、四~五名の担当メンバーが年間を通じて来てくれている。
もちろん語学やサバイバル技術を高校生が教えられるわけではないので、所内の清掃や事務員の雑用、食堂での調理といった作業を手伝うだけだが、先輩から代々受け継がれてきた彼らの仕事ぶりはなかなかのもので、食堂のスタッフなどは、「正直、毎日でも来て欲しいくらい」と口にするほどだ。
そんな「ボランティアのボランティア」とも呼ぶべきボラ同のメンバー内でも、一番TTCに馴染んでいるのがリリちゃんなのだった。なんでも両親ともに元コッパツ隊員で、まさに岳ヶ根マジックで結婚したうえ、この地を気に入ってわざわざ都会から移住してきたのだとか。そうした背景もあって彼女自身も、
「二十歳になったら、すぐコッパツ隊に応募します!」
と公言してはばからない。本人の説明によれば、「リリ」というニックネームの由来は、名前の「百合」を英訳したLilyからだそうだ。
――すみません、皆さん。自習が急ぎじゃなければ、リリちゃんの作業を手伝ってあげてくれませんか?
一時間ほど前、語学の授業が終わった永田たちがちょうど四人で歩いていると、同じく廊下にいたマイキーが明るく声をかけてきた。今日は自主学習の日だが、揃って参加予定のなかった面々はふたつ返事で快諾し、リリちゃんがたったひとりで、大量の書類を仕分け中の空き教室へとやってきたのだった。
手の数が一気に五倍になったこともあり、作業は思ったより早く終了した。今は「年長者の経済力を見せてやろう!」と五百円玉を大仰に掲げたニッシーの奢りで、ロビーの自販機で買ったドリンクを、皆で飲みながら休憩中である。ちなみに税金の補助があるからかどうかは知らないが、TTC所内の自販機は一律百円になっている。
「とりあえず今んところ、岳ヶ根マジックの噂は聞かないなあ」
缶コーヒー片手に首を傾げるカズは、ミユのなかに芽生え始めている気持ちをまったく感じていないらしい。永田が小さく苦笑すると、意外にも、たまたま目が合ったタカシも同じ表情を浮かべていた。いつも大人しい彼だが、そのぶん仲間のことをよく観察しているのかもしれない。
「俺はケンちゃんと明日香あたりが、さっそく怪しいと思うぞ」
無精ひげを撫でながら、ニッシーがにやりと笑う。手に持つのは、顔に似合わず缶入りのミルクセーキだ。
「ああ、あのふたり、たしかによく一緒に行動してますね。ヒデ、そのへんどうなの?」
「え? どうって言われても」
カズから振られたものの、永田には答えようがない。健一と明日香はたしかに同じ生活班だが、そういった目で彼らを観察したことはないし今後する気もない。
「俺にはわからないよ。人のプライベートとか別に興味ないし」
「ほほう、じつに〝ザ・永田ヒデ〟って感じの答えだな。さすが若仙人」
「ワカセンニン?」
よくわからない呼び方をしてきたニッシーの言葉を繰り返すと、なぜかドヤ顔で説明されてしまった。
「若いのに仙人みたく落ち着いてるっつーか、淡々としてるってことだ。むっつりスケベの若仙人君」
「……百歩譲って変なあだ名まではいいですけど、人を勝手にむっつり扱いしないでください」
すっかり慣れた適当な人物評に呆れ顔をしてみせると、ペットボトルのレモンティーをすすっていたリリちゃんが、おかしそうな口調で加わってきた。
「むっつりは違いますけど、たしかにヒデさんていつも冷静ですよね。私のことも、きちんと大人みたいに扱ってくれるし。逆に最初の頃は、避けられてるのかって思っちゃいましたもん」
「そ、そんなことないって。ごめん」
「いえ、むしろ落ち着いてて穏やかな人なんだって、すぐわかりましたから」
にこにこと首を振ったリリちゃんは、ボトルを両手で抱え直して「でも」と続けた。
「こうやって恋バナとかしてると、皆さんも高校生みたいですね。しかも男子っていうより女子っぽいかも」
喜ぶ感想ではないはずだが、ニッシーだけは「おお、そうか。ありがとう」などとご機嫌になっている。彼の場合は、とりあえず若く見えるというだけでOKのようだ。
「ていうかリリちゃんこそ、黙ってれば俺らの同期っつっても通用するんじゃねえか?」
「ほんとですか?」
「ああ。だって仕事ができるうえに、やたらとここに馴染んでるじゃん。今日は晩飯も、一緒に食ってくんだろ?」
「あ、はい! 食堂の皆さんが、用意してくださってるそうです」
ぱっつん前髪を揺らして、リリちゃんは元気に頷いた。彼女たちボラ同への感謝として、逆にTTCからは、運営団体であるJIASのロゴ入りタオルやTシャツをプレゼントしたり、学校や家族の了解を得て、こうして月に一、二回、夕食をふるまったりしている。
「初めて会ったときなんて俺、お疲れ様でーす、とか普通に言っちゃったしな」
「あはは、覚えてますよ。この人、絶対に私のこと訓練生と勘違いしてる、って思いましたもん」
「そりゃ、あれだけ堂々と廊下を歩いてりゃなあ。しかもジャージ姿だったじゃん。だからてっきり、ユッキーやミユと同じぐらいだろうけど何班の人だっけ、って……な、なんだよ?」
「……ニッシーさん。それ、褒めてます?」
「え?」
いつの間にかリリちゃんの目が、器用に三白眼になっている。
「ユッキーさんやミユさんと同じに見えるって、ルックスじゃなくて年齢ですよね?」
「あ、いや、その……」
「ていうか、あんな美人でも可愛いくもないって自覚はしてますけど」
「そ、そんなことないぞ、うん」
「こう見えても十七歳ですっ! 罰としてニッシーさんだけ、デザートのプリンなしにするよう調理室に言っておきます!」
「ちょ……!? なんだよ、そのパワハラ!」
「先にセクハラしたのは、ニッシーさんでしょうが!」
夫婦漫才じみた会話に、他の三人は失笑するしかない。永田たち二五―二の訓練生たちともすぐに打ち解けたリリちゃんだが、とりわけニッシーとは波長が合うようで、こうしていつも元気なやり取りをしている。はたから見ると、しっかり者の姪っ子に叱られるおじさんという感じだ。
「私が本当に歳が近いのは、タカシさんとかですから。ねえ?」
「あ、うん」
急に振られたタカシだが、彼らしく朴訥に頷いた。
「なんだよリリちゃん。タカシが好みなのか? 訓練生の卵のうちからマジックにかかるのもいいけど、こいつとかヒデみたいなむっつりタイプは止めといたほうがいいぞ」
「だから、なんでそこで俺が出てくるんですか」
「だっておまえ、いつも風呂上りのユッキーと密会して濡れた髪の匂い嗅いだり、ジムでストレッチの補助するふりしておっぱい揉んでるって――」
「してませんよ! 誰が言ってるんですか、そんなこと!」
「俺だ」
「…………」
堂々と胸まで張ってみせる十歳上のおっさんに、永田はさっき以上に呆れた視線を投げておいた。まったく。
「日波さんに会うのは、たまたまですよ。約束とかしてるわけじゃないし。ていうか風呂上りの散歩のときは、他のみんなにも会ってます。昨夜はそれこそタカシにも会ったし。ねえ?」
「はい」
必死に弁明しつつタカシにも証言を求めると、例によって、かすかな微笑と朴訥とした答えだけが返ってきた。だが、ぶれないこの姿には、むしろ笑顔にさせられる。タカシと話すとなんだかほっとするというか、癒されるような雰囲気を感じるのだ。それは、彼の専門分野とも無関係ではないのかもしれない。
こう見えて、と言うと失礼だが、関西の有名私立大の大学院生であるタカシは、なんと栄養士の資格を持っており、所属の研究室ではアミノ酸が人体に及ぼす有益な効果などを調べているのだという。他にもぽつぽつとしてくれた話をまとめると、将来的には管理栄養士になって、食を通じて人々の健康をサポートする仕事に就きたいらしい。コッパツ隊員としての派遣先は中米のサン・コスタ共和国で、活動予定内容もたしか学校給食に関係するプロジェクトだと言っていた。
素朴な「いいやつ」だよなあ。
隣のおっさんと似た体格の、けれども中身は正反対の若者に笑顔を返しながら、永田は意外な場所で出会った昨夜のことを、もう一度思い返した。




