TTC 1
海外ボランティアの訓練所を舞台にした青春ストーリーです。
©Lamine Mukae
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力になりたい。守りたい。助けたい。
困っている誰かを見たとき、そう思うのは人として当然の意志だと思う。
だから動いた。心に従った。自分の意志で。
まるで、志願兵のように。
それが「ボランティア=volunteer」という言葉の語源だということを思い出したのは、予想だにしない結末を受け止めてからだった。
◆◆◆
窓の外には、緑色の風景が続いている。
トンネルを抜けるとそこは――などということもなく、電車はもう三十分以上も田んぼのなかを走りっぱなしだ。運行本数の少ないこのローカル線は、時刻表によればちょうど一時間に一本で、朝夕の通勤・通学時間帯でも、それがせいぜい三本に増える程度だった。
日本列島のほぼど真ん中。アルプスの山並みに挟まれた、まさに「ザ・地方都市」。
八月一日。自身が向かう街、長野県岳ヶ根市についてのそんな印象を、永田秀樹はがらがらの車内であらためて実感していた。
それにしても、本当になんにもないな。
厳密に言えば何もないわけではない。高原に位置する岳ヶ根市は、目の前に広がる稲作の他に葡萄や林檎などの生産も盛んで、国内産の日本酒やワインのほとんどが、この街で製造されるそうだ。とはいえ、それ以外の産業が発展しているわけでもないし、周辺地域も含めた山岳部では、むしろ昔ながらの生活様式を守って暮らす人たちも、まだ存在するのだとか。
人口は三万ちょっとだっけ。
数字を思い出しながら、街のことを自分が存外予習している事実に、永田は小さく苦笑してしまった。
「あとはTTCか、やっぱ」
農業どころか産業ですらない、海外ボランティア訓練施設『岳ヶ根トレーニングセンター』。略称「TTC」。
ひょっとしたら岳ヶ根市ではもっとも有名かもしれない、そして自身がこれから九十日間を過ごす場所の名を、今度は口に出して永田はつぶやいた。
岳ヶ根駅は、予想通りの小さな駅だった。田んぼの合間に小さな花も見えるようになってきたところで、電車がゆっくりと停車する。
「現在の時間は無人駅となっております。切符はお降りの際、車掌にお渡しください」というアナウンスとともに永田が降り立ったホームは、もう目の前が改札だった。通り抜けた右手には、小ぢんまりした待合室が設けられていて、覗いてみると《登(下)山届提出箱》と書いたポストが置いてある。
そういえば、中央アルプスの登山口なんだよな。
またしても街についての予備知識を思い出しつつ、永田はゴロゴロとスーツケースを転がして、駅舎前のロータリーへと向かった。少しだけ風はあるものの、暑さは東京とまったくと言っていいほど変わらない。高原都市なので涼しいイメージを勝手に抱いていたが、昨夜ネットで調べてみたら、今日の岳ヶ根市の最高気温はなんと三十三度と表示された。山の方に行けばまた違うのだろうけれど、この時点ではTシャツにショートパンツという格好で正解だったと思う。
ああ、やっぱり早かったな。
ロータリーに出た永田は、軽く肩をすくめた。
バス停がひとつと、あとはタクシーが数台並んでいるだけのロータリーには、自分と同じような人間は誰もいなかった。
それも当然で、集合時間を考えれば、もう一本あとのバスでもじゅうぶん間に合うのだ。しかも永田たちが利用するTTC行きのバスは、電車と同じく一時間に一本しかない。歩いても辿り着けなくはないが、同期生となる仲間の多くは一時間後のバスで来るのだろう。かく言う永田自身も、そうする予定だったところを、どうせ早朝から家を出るなら、と早めの電車に乗っただけの話である。
ま、いいか。
遅れるよりはましだと自分を納得させ、《岳ヶ根トレーニングセンター行》と車体脇に電光掲示されたバスに近づく。するとすぐ、ドア脇に立っていた運転手が、笑顔で声をかけてきた。
「コッパツ隊のかたですね? よろしければ、スーツケースは下のトランクにどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
人の好さそうな年配の運転手は、「横にしても大丈夫ですよね?」と確認し、永田のスーツケースを丁寧な手つきでトランクに押し込んでくれる。
「ありがとうございます」
重ねて礼を述べた永田は、そこでふと小首を傾げた。ゴロゴロという音が、ふたたび聞こえてきたからだ。もちろん自分のものではない。
「?」
振り返ると、ロータリーの反対側にあるコンビニエンスストアに向かって、やはりスーツケースを転がした一人の女性が歩いてゆくところだった。永田のものよりひとまわり小さな、ペパーミントグリーンのそれが可愛らしい。軽装だし、まず間違いなく登山客ではないとわかる。
自分と同じくTTCを目指す人か、もしくは旅行者だろうか、とふたつの可能性が頭に思い浮かんだ瞬間。
声が、聞こえた。
――優しそうな人。
「え?」
ハッとしてスーツケースから視線を移すと、女性も同じような反応とともに、こちらを見つめていた。思わずたがいに会釈してしまう。今の声は彼女だったのだろうか。
ロータリーを挟んでたたずむ女性は、自分と同い年くらいに見える。小さな顔を縁取るボブカットと、すっと通った鼻梁。知性を感じる切れ長の目。
綺麗な人だな。
素直な感想を抱くと、脳内のつぶやきが聞こえたかのように、恥ずかしげに微笑まれてしまった。続けてもう一度頭も下げてくれるので、こちらも慌てて、さっきよりしっかりとお辞儀を返す。
このときの光景を、永田はずっと忘れることはなかった。
『国際開発援助隊』――「コッパツ隊」の略称で知られる海外ボランティアは、世界各地の発展途上国に日本国外務省が派遣する、れっきとした国策のひとつである。
任期は二年間。派遣国からの要請内容によって人数や職種は変わるものの、一国あたり最低ひとり、最大で十五名程度のボランティアが年に三回、選抜試験とTTCでの九十日に及ぶ国内合宿訓練を経て、公務員用の緑色のパスポートとともに世界中へと派遣されている。その歴史は古く、前の東京オリンピックが開かれた年に制度が始まって以来、じつに六十年、全世界九十カ国で、延べ四万人を超える隊員が活動してきたという。
二十五歳になったばかりの永田も、会社を辞めたのを機に選抜試験を受験したところ、なぜかすんなり合格。あれよあれよという間に、西アフリカはリンダーラ共和国への派遣が決定したのだった。
まあ、何ができるかわかんないけど。
《村落開発隊員》と書かれた自身のコッパツ隊合格通知を見て、ささやかな喜びとともに、そんな感想を抱いてしまったのも正直なところではある。
《村落開発隊員》や《青少年指導隊員》というのは、ひとことで言えば「なんでも屋」だ。看護師や建築家のような専門技能を持たず、派遣場所で求められる雑多な要望に、身体ひとつで答えて活動する職種。それを「ボランティアの原点」と見るか「税金の無駄遣い」と見るかは、実際に現地入りしてみないとわからない。
ちなみに、発展途上国でのボランティアというと「砂漠で井戸掘り」や「野戦病院での救急活動」などをイメージする人も多いが、最近はその手の活動はほとんど存在しない。もちろん生活インフラ関連や医療現場からの需要はあるが、専門性の高いオーダーに対してはコッパツ隊ではなく、外務省が正式に業務として発注する『専門員派遣』という、よりグレードの高い制度が対応するからだ。
一方で、そうした「業務」ではないものの、じつはコッパツ隊員にもお金は支払われている。日本よりも遥かに物価が安いとはいえ現地での生活費用と、さらにそれとは別に『国内積立金』として、派遣中は月々十数万円が自動的に振り込まれるのである。
名目上は「帰国後の再就職活動や、国内生活再スタートのための準備金として」となっているが、形はどうあれ途上国で二年間生き延びれば二百万円以上ものお金が溜まるというのは、決して無視できない。身も蓋もない言い方をすれば、ボランティアというよりは海外への出稼ぎという見方もできてしまうのが、コッパツ隊という制度なのだった。いつの時代も志願者が一定数以上確保されているのには、こうした理由もあるようだ。
――たしかに、お金があるに越したことはないしなあ。
自身はそれが目当てというわけではないが、出稼ぎ目的が不純だとは、永田も別に思わない。専門員同様に病気や、何よりも死の確率が、日本よりも格段に跳ね上がる環境で二年も暮らすのだ。たった二百数十万円のために命を賭けるのだから、逆に外務省から感謝されてもいいくらいかもしれない。
……などと、バスの出発を待ちながら考えていると、意外にも乗降口に人影が現れた。今度は男性である。
「こんにちは!」
男性は、にこやかな挨拶とともに、最後尾にただひとり座る自分のところへと歩み寄ってきた。
「コッパツ隊訓練生のかたですか?」
「ああ、はい」
「よかった。僕は森本和茂。名古屋から来ました。同期として三ヶ月、よろしくお願いします!」
歯磨き粉のコマーシャルに出られそうな笑顔で、森本という男性は右手を差し出してくる。「よろしくお願いします。永田秀樹です」と手を握り返しつつ、永田はぽかんと彼の顔を見つめてしまった。
ひとことで言うならば、「バブリー」。
お金のことを考えていたからというわけではないだろうが、森本のルックスはまさにその時代、永田がネットやテレビでしか見たことのない、日本が実体のない好景気に浮かれていたという、八十年代後半から抜け出してきたかのようだった。
額縁の大きな眼鏡に、海苔みたいに濃い眉。前髪は波乗りができそうな形に整髪料で固められており、パステルカラーのポロシャツに合わせたハーフ丈のチノパンツは、よく見るとタックが三つも入っている。
「トレンディドラマ……」
バブル景気とセットで覚えた単語が、思わず口をついて出た。
「あ、この格好ですか? はは、そうなんです。僕、昔のトレンディドラマが大好きで。自分も眼鏡キャラなんで、『君のハートを告訴する!』の小杉万里っぽくしてみました」
ドラマのタイトルも役者名もさっぱりなものの、朗らかに語る彼の表情からは、本当にそれが好きな様子が伝わってくる。だが決して、馴れ馴れしい印象は受けない。
明朗。快活。爽やか。
「お隣、いいですか?」という笑顔に頷き返しながら、永田の脳内にポジティブな単語が次々と浮かび上がった。同時に、ああ、と納得する。
こういう人が、コッパツ隊に行くんだろうな。
自分は決して「こういう人」でないし、正直なりたいとも思わない。けれども彼のような朗らかさは、やはり不快ではない。
「名前が和茂なんで、カズって呼んでください。永田さんは? ニックネームとかありますか?」
明るく訪ねられ、自然に答えていた。
「ああ、うん。僕も同じです。秀樹だからヒデ。ヒデでいいですよ」
「わかりました。あ、差し支えなければ、お歳も伺っていいですか?」
その質問で、彼が何を求めているのかが理解できた。見た目こそバブリーだが、中身は本当に人当たりのいい若者のようだ。
「二十五です。カズさんは?」
「おお、同い年ですね! 二〇〇〇年生まれですか?」
「はい」
「じゃ、学年もおんなじだ」
嬉しそうに頷いたカズは、予想通りの台詞を続けてくれた。
「さん付けなしで、カズでいいですよ。あと、よければタメ口にしませんか。三ヶ月間、同じ釜の飯を食うんだし」
「わかった。じゃあ僕――いや、俺もヒデで」
「OK、ヒデ。あらためてよろしく!」
「よろしく、カズ」
もう一度彼と手を握り合った永田は、久しぶりに屈託なく笑えている自分に気が付いた。