1.はじまり、はじまり
壁の軋む音がして、目が覚める。
隣のおじさんが出ていったのだろう。
カーテンの隙間から見える外の風景は、まだ真っ暗だ。
隣の名前も知れないあの人は、こうして日の登らぬ午前3時頃、決まって外に出掛ける。
仕事に出ているのか、それきり夕方まで帰ってこない。
このボロアパート全部屋に響くくらい勢いよく扉を閉めるから、俺の中ではもはや、毎朝の風物詩と化している。
鍵を締める金属の擦れる音に、遠ざかっていく足音。造りが安いから、何から何まで、外の音が入ってくる。
車通りの多い昼の喧騒は嫌いだが、静けさの中で響く彼の生活音は、何故か嫌いになれなかった。
恐らくは、俺と違って、歩みに目的があるからだと思う。
動きの一つ一つは、妙齢ゆえに、そうきびきびしてはいないが、それでも実直というかなんというか、世代のことを考えると頑固とも言えるかもしれないけれど、とにかく強い意志を感じたのだ。
だから、憧れるようにいつもその音を心待つ。
無責任だけど、託しているのだ。
誰とも知らぬ、おじさんに、俺は託している。
何を?
馬鹿みたいだけど、僕の分まで生きること。
けれどそれも今日で終わりだった。
今まで、たくさんの希望をありがとうございました。
受け手のいない感謝は慣れている。これをこの部屋で、何度も扉越しに続けてきた。
だからか、最後の最後で欲が出てくる。
「出来るなら、ちゃんと誰かにお礼を言ってから死のう」
ドラマじみた展開は求めない。何かの対価に、挨拶のようにあっさりとでも、感謝を伝えたくなった。それだけだ。
腐りきった体を起こす。
何時間も寝っぱなしで身体は所々が軋んで痛む。
ああ、もはやいつからこんな生活だったのかすら思い出せない。
仕事の選択が間違っていたのか、俺が愚鈍だったのか。
いつからか評価とか印象とか、要らぬものを考えすぎて、ストレスでいっぱいになった時期がある。
人と関わる事に根本から向いてなかったのだろう。そうして、気づけば社会からフェードアウトしていた。
きっと、隣のおじさんへの憧れは、世間とか、名も知れぬ誰かへの申し訳なさもあるのだろう。
大層な部品でも無かったが、小さくとも何かの歯車ではいたかったのだ。
何とか玄関まで体を動かす。外出はいつも、どんな運動よりも大変で、根気のいる作業だった。
「ここから、近いコンビニ……」
目的地はそこにしよう。
歩いて五分くらいの所に、手近なところがある。
それでも自分で歩ききれるか不安で、杖代わりにまだちゃんと働いていた頃に買った傘を持った。
誰かに何かを貰うことも無かったから、いつしかのクリスマスに、街の活気につられて自分へのプレゼントに買ったものだ。
普段はゲームとか漫画しか、自分への褒美に買ったことは無かったから、本当に気まぐれだったのだと思う。
けれど、思いの外自分でも気に入って、嫌いだった雨の日が楽しみになった思い出がある。
まるで小学生の子みたいなエピソードで、思い出しておいて恥ずかしくなった。
扉を開けて、外に出る。時刻は4時。
辺りに人の気配はなく、とても静かな夜だった。
アパートの敷地を出て、歩道に出る。
そこで、待っていたみたいに雨が降り始めた。
「ーーー困ったな。
こいつを使えるから嬉しいけど、そしたら杖が無くなる」
逡巡の末、傘を差す。
こいつは、杖じゃ無くて、雨を凌ぐものだから。
少ない体力の配分を気にするように、ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。
街灯があえかに、等間隔で道を照らして。
余計な雑音を消すように、雨音だけが響いている。
今日だけは、なんだか世界に受けいれられている気分だった。
たった5分の道のりでも、たるんだ身体には重労働だ。
何とかコンビニに着いた頃には、息が切れていた。
深呼吸をして、整える。
買うものはもう、決まっている。
今は11月。季節は秋かもしれないが、ここ数年は冬みたいに寒い。
だから、温かい飲み物を買うと決めていた。
……これから、とても寒くなるだろうから。
店内に入る。
小さな入店を歓迎する声が聞こえた。
ホットの飲み物コーナーに向かう。
苦いより、甘い方が、労いというか弔いになる気がして、微糖の缶コーヒーを手に取る。
そういえば昔もこんな風に、疲れが溜まった時は決まって甘いコーヒーにしていたな。
レジへ持っていくと、肉まんのディスカウント広告が目に入った。
どうせなら、奮発しよう。
「……す、すいません。これとあと、肉まん1つ」
「はい、224円です」
「あ、ありがとうございます!」
「…は、はい。ありがとうございました〜」
どもった恥ずかしさより、伝えられた喜びが勝つ。
やっと、やっと誰かに直接感謝を言えた。
これで、もう問題無い。
もう、後悔は無い。
…………無いんだ。
店を出る。
傘は、傘立てに差したまま、置いていくことにした。
あそこに置いておけば、きっと他の誰かが使うだろう。
雨に濡れながら、国道沿いの大橋へ向かう。
身体は次第に濡れていき、服が大層重くなる。
冷えていく身体に、なんとか最後まで頑張ってもらうため、肉まんと缶コーヒーをかき込んだ。
缶はまだ熱を残していたから、コートの中で胸に抱いておく。
死に際の足掻きなのか、不思議と歩みは快調で、気づけば目的の橋の中間に着いていた。
手すりに手をやって、下を覗く。
余りにも遠い海面がみえた。ここから落ちたら間違いなく死ねるだろう。
海を死場にしたのは、誰にも迷惑をかけないからだった。
ビルから飛び降りないから道路を汚さないし、線路に身を投げないからダイヤも乱さない。
首を吊らないから部屋も綺麗で曰くがつかない。
死んだ後は、微生物とかが分解してくれるだろう。
だから、ここにした。
本当の意味で、誰一人にも迷惑を掛けたくなかったから、ここにした。
雨足は強くなる。覚悟は揺らがないが、低体温で飛び降りる体力も失っては元も子もない。
最後の気力を振り絞って手すりに登る。
遠くの空で、雷が鳴って、一瞬空が分厚い雲越しに光りを見せる。
その荒々しくも猛々しい光景に、無力さと畏怖を覚える。
自然の前では、こんなにも人はちっぽけだ。
けれど、恐れなくても、本来そこから生まれた生命だ。
だからただ、帰るだけだ。元いた所に、還っていくだけ。
もしもう一度、最近流行りの物語みたいに、俺の意識を持ったまま生まれ変われるなら。
特別な恩恵もスキルも無くていい。
ただ黙々と、人生に必要な事を自分の力で積み上げて。
自分の苦手を押し殺すのではなく、自分の好きな事を謳歌出来る生き方をしたいと、強く思った。
まぁでも、このまま転生したら、人生につまづく度に動悸が起きて、どこかで魔物に襲われて終わりだろうな。
ーーー手向けの感傷はそこまでに。
俺は最後の最後で、
ほんの少しだけ前を向けた。
目線は、雷鳴轟く空にする。
そうすれば落ちる時、飛んでいる様に思えるかもしれない。
深く、深く息を吸う、止める。
そして、暗い暗い海の底へと、身を乗り出した。