④メイウッド侯爵、丸眼鏡の従僕を褒められる
ダドリー・メイウッドは、人生最大の悩みを抱えていた。
人生といっても、まだ二十三年しか生きていないのだが――。
彼は、自分が、女性よりも男性に魅力を感じてしまう性癖の持ち主なのかもしれない――ということに、最近気づいてしまったのだ。
貴族学院に通っていた頃や、紳士クラブに頻繁に出入りしていた頃のことを思い起こし、自分にそういう性癖の兆候があったかどうかを確かめようとした。
しかし、思い当たることはなかった。
最近、王宮の侍従に赤い薔薇の花束をプレゼントするという、それらしい行動をしたが、あれは思いつきでしたことで、深い意味はなかったと思っている。
アリシア王女に婚約を破棄されたことが、思いの外深い心の傷となって、女性全般を嫌いになってしまった――、ということはない。
メイドのアリスとは、これまで同様、仲良くやっているし、知り合いのご婦人方とも、以前と変わらぬ、ほどよい距離を保った交流が続いている。
だが、ならばなぜ、こんなにもジーンのことが気になるのだろうか?
ジーンは、男である。十八歳の青年である。
年のわりに世事に長けていて、おまけに腹黒な一面を持つ食わせ者である。
確かに、トピアリーのウサギのように愛らしく見えることもあるが――。
自覚はなかったが、婚約破棄に始まって、マートン侯爵家、スタイナー侯爵家と続いた男女間のごたごたにうんざりして、男同士の絆を心の拠り所にしたいと願うようになったのかもしれなかった。
「どうなさったのですか、ダドリー様?」
書斎の書棚を整理していたジーンが、突然振り向き、ダドリーに声をかけた。
書見台越しに、彼の背中を見るともなしに見ていたダドリーは、今日も狼狽えた。
「先ほどから、ページをめくる音が全く聞こえませんが――」
「あ……、ああ、ちょっと考え事をしていたのだ。その……、妹のクラリスは、今頃どうしているかなあと――」
「クラリス様は、隣国のバルニエ王国に御留学中なのですよね?」
「そうだよ。彼女は、わたしと違って容姿にも才能にも恵まれ、いずれは女性官吏として活躍が期待されている逸材だ。わたしは、彼女の将来のために、財を蓄え、領地を安定させ、確かな人脈を築こうと努力してきた。だいたいは上手くいっていたのだが――」
あの婚約破棄騒動が起きてしまった……。
ダドリーは、十年前、国王の命により、第四王女アリシアとの婚約が決まってからは、我が儘な彼女に振り回されつつも、良き婚約者となるべく心を砕いてきた。
自分が当主となってからは、王家の姻戚となることで、クラリスの後ろ盾になれると考え、いっそうアリシア王女を大切にしてきた。
しかし、こうなってみて、ダドリーにはよくわかった。
自分は、別にアリシア王女を好きではなかったのである。
婚約者として、それらしく振る舞っていただけのことだ。
そんな彼の本心に、アリシア王女も気づいてしまったのだろう。
真実の愛の前に、こんな婚約は破棄されて当然だった。
だが――。
「わたしが婚約破棄されたことを知って、クラリスはがっかりするだろうな……」
珍しく、しんみりしながら、ダドリーは呟いた。
いつの間にか、書見台の前に来ていたジーンが、クククッと喉を鳴らした。
ダドリーが目を上げると、ジーンは、あの、形の良い唇の端をきゅっと上げる独特の笑顔でダドリーを見ていた。
ダドリーは、今度こそ本当に心臓が跳びはねそうな気がして、両手で胸を押さえてしまった。
「むしろ、安心されるのではないでしょうか? 愛するお兄様が、自分のために、意に沿わない結婚をする必要がなくなったから――」
ジーンはすっと手を伸ばして、書見台に載っていた書物を手に取ると、再び書棚の前へ戻ってしまった。
そして、彼にしては少し饒舌になっていたことを後悔したのか、その後は、書斎にいる間中、一言もしゃべることはなかった。
* * *
ダドリーは、その翌週は、ターナー伯爵夫人のサロンに招かれていた。
ご令嬢たちによる、ピアノの演奏会のようなものが開かれるとのことだった。
なぜ、自分がそのような集まりに呼ばれたのか――、ダドリーには、なんとなく見当がついた。
どうやら、王女から婚約破棄された彼に同情し、新しい婚約者候補のご令嬢を紹介しようと、ターナー伯爵夫人は考えてくれたらしい。
いまだに、自分の隠された性癖に疑いを抱きながら、ダドリーは、ジーンが操る馬車に載って出かけていった。
「まあ、メイウッド侯爵様! ようこそおいでくださいました。そちらが、今、社交界で評判の『理想の従僕』でございますわね? 会えるのを楽しみにしておりましたのよ!」
ターナー伯爵夫人は、好奇心たっぷりの眼差しでジーンを見た。
広い音楽室に集まっていた四人のご令嬢とその侍女たちも、ジーンに熱い視線を送ってきた。
(えっ? なんだ、今日の目当ては、わたしではなくてジーンということか? まったく、ご婦人方というものは、流行に敏感というか、物見高いというか――)
ダドリーが振り返ると、地味なお仕着せのジーンが、平然と立っていた。
妙な丸眼鏡のせいで、相変わらず細かい表情は読めないが、照れても困ってもいないことは確かだ。
演奏会は滞りなく終わり、お決まりのティータイムとなった。
「やはり、本物の『理想の従僕』は違いますわね。丸眼鏡が、板についていますもの。地味で無口なだけなら真似できますけど、あの丸眼鏡が醸し出す知性は、簡単には真似できません。あの者は、どういう経歴の持ち主なのですか?」
ターナー伯爵夫人の言葉に、ご令嬢たちが、みな頷いていた。
ダドリーは、はっとした。
彼は、ジーンの名前と年齢以外、何も知らないのだ。
細かいことはフレッドがわかっていれば良いと考えて、ジーンに尋ねたことさえなかった。
出身地は? 学校は? 家族は? 趣味は?……何一つ答えられない。
丸眼鏡が醸し出す知性? そんなものは意識したこともなかった。
確かに、書斎の書棚を整理しているとき、片付けるふりをしながら歴史書や哲学書に熱心に目を通していると思ったことはあったが――。
この地味で無口で丸眼鏡の従僕は、何者なのだろう?!
伯爵夫人の質問にきちんと答えることはできず、もちろん、ジーンに直接答えさせることもできず、ダドリーは次第に、ここにいることに苦痛を感じ始めた。
そのとき、一人のご令嬢が、壁際に控えるジーンに声をかけた。
「従僕さん、あなたのご主人様がお困りのようよ! あなたは、ご主人様に代わって、何かこの場を盛り上げる話題をお持ちかしら?」
先ほどの演奏会で、ほかのご令嬢とは別格の腕前を披露した、イブリン・ウェズリー侯爵令嬢だ。
父親が外務大臣を務めていることもあって、まだ二十歳だというのに、人を威圧するような態度や高飛車な物言いで、社交界を牛耳っている。
ウェズリー侯爵令嬢の挑戦的な眼差しを、丸眼鏡越しにしっかり受け止めると、ジーンがまたあの謎の微笑を浮かべながら言った。
「旦那様、わたくしがピアノを弾くことをお許しくださいますか?」
「えっ? あ、ああ、そうだな……、ご、ご令嬢たちのお耳汚しにならないよう、気をつけるのだよ」
「はい」
ジーンは、ピアノの前に移動すると、手袋を外し、懐にしまった。
ダドリーは、内心はらはらしていた。
ああは言ったものの、屋敷にあるピアノはほこりを被っており、もちろん、ジーンが弾くところなど見たこともない。
案の定、イブリンに焚きつけられ、とんだ大役を引き受けざる得なくなったジーンを、伯爵夫人やご令嬢たち、そして侍女たちまでもが、気の毒そうに見つめていた。
しかし、その思ったよりも華奢な指が、最初の一音を奏でた途端、部屋の空気が変わったのだった。
* * *
「メイウッド侯爵様、今日は、お忙しい中、ご足労いただきありがとうございました。それと、思ってもみなかった素晴らしい演奏を聴かせていただいて――、まだ胸の震えがおさまりませんわ! 是非、またお越しくださいませ。もちろん、『理想の従僕』もご一緒にね」
ご令嬢たちが、すでに去った音楽室で、ダドリーは、ターナー伯爵夫人と別れの挨拶を交わしていた。
ジーンは、馬車の準備をするために先に退出していた。
「もし、あの従僕を手放す気になったら、真っ先にわたくしにお知らせくださいね。必ず好条件で召し抱えますから、絶対にほかの方に譲らないでくださいね」
「は、はい……。しかし、当分の間は、いえ、もしかすると生涯、あの従僕を手放すつもりはありませんので、ご期待にはそえないことと思います」
きっぱりと言い切り、ダドリーは、伯爵邸を後にした。