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翌日
―コンコン
「ん…っ」
ノックの音で目が覚める。近くの時計を見ると午前7時だ。こんな時間に起きることは滅多にないし、そもそも両親はノックをしたりしない。基本的に私が部屋から出たいときに出るし、大体起きる時間や寝る時間が一定なので理解されている。ということは…。
「綾菜ちゃん、起きてるかな…?」
隣の兄の部屋に泊まっている葉月さんの声だった。声を出さないように手で口をおさえる。
大丈夫大丈夫。部屋には鍵が掛かっているし入ってこれない。ジッと我慢していれば諦めてどこかに行くだろう。物音を立てないように静かにしていると、ドアから遠ざかっていく足音が聞こえた。無意識に身を固くしていた身体から力が抜ける。
それにしても何の用だったんだろう…。兄の友達とはいえ警戒心は拭えない。慎重に、できればあまり接触がないように。
―そう思っていたのはフラグだったということか
部屋から出てリビングに行くたびに声を掛けられる。無視したいところだけど、母に窘められて結局少し話してしまう。基本的に葉月さんが話すことに相槌を打てばいいだけ。だんだんその会話の時間が長くなっているようにも思えたけど、彼の話はとても興味深かった。
「…美術、ですか」
「そう!まあ絵画を観に美術館へ行ったりするのは勿論だけど、僕が好きなのは体験型アート!」
「体験型アート…?」
「自分がまるでアートの一部になったかのような体験ができるんだよ。僕のオススメは直島かな。あそこは面白いアートがいっぱいあるしね!」
「直島…」
直島といえば瀬戸内海で芸術の島として知られている。そしてそこには私の好きなモネの睡蓮五点が自然光で楽しめる地中美術館がある。建物は安藤忠雄が建設したとても有名な美術館。一度は行ってみたいと思っているものの、中々行く機会がない。
「あ、そういえば…。ちょっと待ってて!」
そういうとリビングから出て行ってしまった。すぐに戻ってきた葉月さんの手には一枚のポストカードがある。
「はい、これ」
それは1889年に描かれた『睡蓮の池』のポストカードだった。神奈川県箱根にあるポーラ美術館に収蔵されている睡蓮シリーズの1枚。中央に日本風の橋が架かっていて、水面には色鮮やかな睡蓮があり、その周りは緑に囲まれている。圧倒的な緑の多色さやそこで輝く色鮮やかな睡蓮に心を奪われて、幼い頃に訪れた時ずっとそこから離れなかったという。そろそろ閉館と言われて離れる時に大泣きしたせいで慌てて美術館を出てきた、なんて両親に苦笑された話を思い出す。そんな大事な絵をなんで今まで忘れていたんだろう。
「優斗がこの前神奈川行ったときに買ってきたらしくて。これ渡してってさ」
受け取った睡蓮の絵をジッと見てしまう。何度見ても、この絵が好きだ。力が抜けたように笑うと、それを見た葉月さんが嬉しそうにしている。この人は何で、私のことでこんなに喜んでくれるのだろう。
「ね、地中美術館に僕と行ってみない?」
「え…?」
「考えといて」
そういうと葉月さんはリビングから出ていった。1枚のモネのポストカードからこんなことになるなんて思ってもいなかった。だけど…。手元にある『睡蓮の池』を見ていると私の心の中にある感情が「行きたい!」と叫びだしている。けど、外は怖い。大事に握りしめたポストカードを手にただ突っ立っていた。