086 処刑人ケリー
「くしゅんっ」
可愛らしい音を立てて、咲希がくしゃみをした。
「咲希ちゃん、大丈夫? 風邪かな?」
「違うと思うわ。ただ何となく、寒気がしただけよ」
その側で、陽菜は彼女を心配している。先ほどの軽い衝突の痕跡は、もうどこにもなかった。
能見たちのチームは今、菅井たちが拠点にしているアパートの一階に来ていた。もう一方のチームよりも先にカメラの破壊を終えたため、合流地点であるこの場所に戻ってきている、というわけである。
エントランスに立ち、四人は仲間たちの帰りを今か今かと待っていた。
同時刻。
談笑しながら道を進む芳賀たちの前に、紺色の影が降り立った。
アパートの屋上から飛び降りてきたのだろう。着地の衝撃に難なく耐えているところを見るに、その身体能力は人間のそれを遥かに上回る。
紺の影が、ダン、と地面を蹴り飛ばす。目にも止まらぬ速さで駆け、怪人は芳賀たちの眼前にまで迫った。
無警戒だったわけではないが、不意を突かれたことは否定できない。その刺客はどこからともなく、何の予兆も感じさせずに現れたのだ。
敵の気配を察知し、菅井は身構えた。しかし、その姿を視認できない。
(……速い!)
相手の移動速度は尋常ではなかった。そして、目で捉えられない敵に対しては、彼の停止能力は十分に機能しない。
仲間を守るべく、芳賀がとっさに動いた。前に出て、体を張って盾になろうとする。
芳賀の回避能力の場合、正確には目で追えなくとも「これは避けるべき攻撃である」との認識ができれば力は発動する。微かに見える残像を頼りに、彼は高速で放たれた蹴りをかわしてみせた。
ゆらゆらと変則的に体を揺らし、トリプルセブンが敵を翻弄する。彼には普通の攻撃が通用しないことを悟ったのか、紺色の影は後ろへ跳び退った。
高速移動をやめた刹那、その姿が垣間見える。
三葉虫を思わせる、ネイビーブルーの硬質な皮膚。丸みを帯びたボディーライン、胸の膨らみといった女性的な特徴。両手には鋭い爪がそなわっている。
彼女の姿を見るやいなや、唯と和子は恐怖に目を見開いた。
トリプルゼロ――小笠原美音が殺されたあの日、自分たちと彼女は戦った。そして、圧倒的な敗北を喫したのだった。
「久しぶりね、お嬢ちゃんたち。それから、トリプルナインのお兄さんも」
四人目の管理者は、妖艶な笑みを浮かべた。和子、唯、菅井の順に視線を投げかける。
「トリプルセブン、トリプルスリーの二人は初めまして。私はケリーよ」
「……お前も管理者の一人か。俺たちがカメラを壊すのを、邪魔しに来たってわけか?」
唯と和子を庇うように立ち、荒谷が問いかける。対して、ケリーはからからと笑った。
「そうね、確かにそれも目的の一つだわ。でも、本命は別にあるの」
笑みを消し、ケリーが体を沈める。次の瞬間、彼女の体は砲弾のごとく飛び出していた。
「――裏切り者の四人を含む、ナンバーズの処刑よ!」
女性陣の雰囲気が和やかになったことで、武智もようやく話しやすくなったようだ。能見の肩を叩き、にっと笑いかけてくる。
「カメラ壊すのを手伝ってもろて、今日はありがとうな。改めて、今後もよろしく頼むで」
「こちらこそ、よろしくな」
能見もそれに応じる。
以前こそ対立していたが、今の武智は心を入れ替え、他の被験者を守るために戦う決意をしている。そんな真っ直ぐな彼のことなら、素直に信じられた。
「いつか必ず管理者を倒して、奴らの企みを阻止しよう。そして、この街から脱出するんだ」
「せやな」
エントランスから青空を見上げ、武智が頷いた。雲一つない日本晴れだが、海上都市を囲む防波壁により、美しい空は四角く切り取られている。
「あいつらは、ここに閉じ込めた人たちを怪物に変えるつもりや。そんなこと、絶対にさせへん」
すると、上空を黒い影が横切ったのが見えた。
何だろう、と目を凝らそうとしたが、その必要はなかったようだ。飛行体はこちらに向かって、ぐんぐん高度を下げてくる。
アパートの正面へ降り立った荒谷は、慌てた様子だった。
「……管理者が攻撃してきた。お前たちも迎撃に向かってくれ」




