070 心の中の音楽
「でも、どうやって踊るんです? この街には、音楽プレーヤーも楽器も何もないんですよ。曲がないんじゃ、踊れないじゃないですか」
「大丈夫、大丈夫」
ざわめきだした群衆を身振りで落ち着かせ、美音はにこにこ笑っていた。
「人の心の中には、いつだって音楽が流れているのよ。たとえ楽器がなくたって構わないわ。皆の中に眠っている音を響かせればいいの」
そういえば、いつだったか話してくれたことがある。
街に来る前、トリプルゼロこと小笠原美音は音大生で、ピアノを専攻していた。数々のコンクールに出場し、賞をとったことも少なくないという。
ピアノを弾けない環境に放り込まれたことは、ある意味、彼女にとっては死と同義だ。自らの才能を最も輝かせられる舞台を奪われ、元の生活へ戻れるかどうかも分からないのだから。
「皆、『カントリー・ロード』っていう歌は知ってるよね?」
だが、美音は絶望したりしなかった。むしろこんな状況だからこそ、音楽で仲間たちを勇気づけようとしたのだ。
「一緒に歌おうよ。いつか、この街から出られることを祈って」
反対意見は出なかった。
大声で歌えば敵に見つかる恐れがあるため、声量は心持ち抑えることを条件に、ささやかなダンスパーティーが始まった。
美音の指示で、女性が内側に小さな円をつくる。それを囲むように、男性が一回り大きな円をつくる。
やり方は単純である。男女でペアを組み、一通りステップを踏んだら次の相手と交代する。男性側がステップごとに左へずれていき、違った相手とダンスするというものだ。
「ステップは何となくで大丈夫だよ~」
ダンス未経験の者も、美音のゆるふわ笑顔に励まされたようだ。最初は小さな声だったが、徐々に歌声は力強くなり、しっかりとしたメロディーを形成する。
カントリー・ロード
この道 ずっと行けば
あの街に続いてる 気がする
カントリー・ロード
「楽しいね、唯ちゃん」
「……ま、まあね」
唯の隣で、和子は屈託のない笑顔を浮かべている。男性たちにリードされて踊り、唯もまんざらではなさそうだった。
思えば、この街に来てから、気の休まるときなんてほとんどなかった。この瞬間だけは、心を癒すことができるように感じた。
いつか自分たちは、故郷の街へ帰れるのだろうか。血に濡れた道を歩き続けた先に、何が待っているのだろうか。
歩き疲れ たたずむと
浮かんでくる 故郷の街
丘をまく 坂の道
そんな僕を 叱っている
歌詞は二番に入り、皆の歌声も一つにまとまってきた。
「武智くん、ステップめちゃくちゃじゃん」
「あ、ああ。すまん、リーダー」
順番が巡りに巡って、ついに武智は美音とペアになっていた。
細く白い手を握るだけで、緊張が半端ない。美しい笑顔を真正面、しかも近距離から向けられて、武智はガチガチになっている。
「右、左、回ってお辞儀。こんな感じでいいんだよ?」
おかしそうに笑い、美音はさっそく実践してみせた。右足、左足の順につまさきをちょこんと前へ出し、武智の手を取って、その場でくるりと一回転。最後は心なしか顎を引き、うやうやしく一礼する。
一連の動作の全てが優雅で、武智は思わず見とれてしまっていた。
「じゃあね」
バイバイ、と手を振り、美音が次の相手へと移る。
彼女へ何か言おうとしたけれども、上手く言葉にならなかった。
どんな挫けそうなときだって
決して涙は見せないで
心なしか 歩調が速くなっていく
思い出 消すため
「……ねえ、菅井くん」
「何ですか?」
武智のように無様なステップは踏まない。菅井のダンスは洗練されていて、美音のそれといい勝負だった。
彼の手を取って、美音が微笑を浮かべながら一礼する。そして顔を上げ、彼女は一瞬だけ笑みを消した。ひどく真剣な表情だった。
「もしも私に万が一のことがあったら、そのときは菅井くんに後をお願いしたいの」
「やめて下さいよ。縁起でもない」
菅井は眉をひそめた。
「美音さんが他の奴らに負けるなんて、考えられません。それに、今日はせっかくのダンスパーティーなんです。不吉なことは考えず、楽しくやりましょう」
「……そうね。うん、そうだよね。ごめん」
変なこと言ってごめんねー、と彼女は何度も謝ってきた。おかげで、次のダンス相手へ移るのが遅れたほどだ。
今思うと、あのとき既に、美音は何かに気づいていたのかもしれない。
彼女はあらゆる自然現象に干渉できる。空気の流れの僅かな変化、侵入者の体から放たれる微かな体温――そういった細かな事象を察知し、言語化しがたい不安に襲われていたのかもしれない。
これがリーダーと交わす最後の会話になろうとは、菅井は思いもしなかった。
作中で引用した楽曲:「カントリーロード」本名陽子 1995年、初版リリース。
アメリカの歌手ジョン・デンバーが1971年に発表した「Take Me Home, Country Roads」(邦題:故郷へかえりたい)を日本語に訳してカバーしたもの。




