042 第二の悲劇
「……君には失望したよ、能見」
つかつかと歩み寄ったかと思うと、芳賀はいきなり能見の胸倉を掴んだ。怒りを隠そうともしていなかった。
「君たちなんかに、彼女の世話を任せたのが間違いだった。無茶をさせて体調を悪化させるなんて、最悪という言葉じゃ足りないくらいだよ」
「……すまない」
対して、能見はうなだれ、謝罪の言葉を述べるばかりであった。
「俺が至らなかったせいだ。本当に申し訳ない」
反論することもできたはずだ。以下のように述べることは簡単だった。
『何で俺だけを責めるんだよ。陽菜さんだって一緒に世話してただろ』
『そもそも、今回の散歩は俺が言い出したことじゃない』
『気持ちは分かるけど、まずは愛海さんの手当てが先じゃないのか』
だが、言い訳めいたことはしたくなかった。それに、陽菜の提案を否決しなかった自分にも責任はあるのだ。
「二人とも、今は喧嘩してる場合じゃないでしょ。早く治療をしなきゃ」
責めるようにこちらを見ている陽菜に、二人は我に返らされた。
「……ああ、そうだね。それが正論だ。くそっ」
掴んでいたシャツを離し、芳賀が忌々しげに地面を蹴りつける。残りの文句はあとでたっぷり言ってやる、と言わんばかりであった。
「とにかく、アパートへ引き返そう。話はそれからだ」
芳賀との口論を一旦切り上げ、能見は陽菜たちに続こうとした。ところが、あろうことか、愛海本人がそれを拒んだのである。
はあはあと息を荒げつつも、彼女はアパートの方へ足を向けようとしなかった。熱を帯びた目で陽菜を見つめ、懸命に訴える。
「違うんです。私が欲しいのは、日陰で休むことじゃありません」
「えっ?」
きょとんとしている陽菜へ、愛海は懇願した。
「……お願いします。何か冷たいものを飲ませて下さい。喉が渇いて、体が熱くて死にそうなんです」
『さっきから、腹が減ってしょうがねえんです。どうも体が熱くって、冷たいものを取らねえと死にそうだ』
奇しくもそれは、板倉が残した言葉に酷似していた。
愛海の症状は、彼が人でなくなる直前に見せていたものと一致した。
板倉が怪人化した現場に居合わせていたのは、芳賀だけだ。ゆえに、能見と陽菜はさほど訝しんでいなかった。
「それなら、倉庫にストックしてあるゼリーでも食べるか」
能見の誘導で、三人が倉庫の中へ入っていく。その光景が、芳賀にはスローモーションのように見えた。
同じだった。あのとき、多量のウィダーゼリーを摂取した板倉は、悶え苦しみながら化け物へと変わったのだ。
どうして板倉が変貌してしまったのか、正確な理由はまだつかめていない。だが、あの悪夢を繰り返してはならないという強い思いが、芳賀を突き動かした。板倉と同じ行動を取らせれば、愛海の辿る運命は悲惨なものになりかねない。
「……やめろっ。彼女にゼリーを与えてはダメだ」
芳賀は叫び、段ボール箱の山へ向かう愛海を止めようとした。肩に手を置き、強引に引き戻そうとする。
彼が何をしようとしているのか、なぜウィダーゼリーを食べさせてはいけないのか、能見たちはまだピンと来ていなかった。それもそのはずで、彼らは芳賀の口から板倉の身に起こったことを聞いてはいても、当時の詳しい状況までは知らされていなかったのだ。
わけが分からず、二人は呆気にとられて立ち尽くしていた。
「説明はあとでする。とにかく、今ゼリーを摂取させるのはまずいんだ」
ちらりと能見たちへ振り返り、芳賀が早口で言う。
それから愛海の肩を引き、無理やりこちらを向かせた。彼女はあくまでも抗い、歩みを止めようとしなかった。
「部屋に戻って、代わりに水を飲もう。愛海さんも、それでいいだろう?」
「……嫌です」
しかし、返ってきたのは頑なな否定だった。
トリプルセブンこと芳賀の命令には素直に従い、愛海は彼を尊敬していた。ややもすれば愛していたかもしれない。大人しくて従順な彼女が、初めて芳賀へ逆らった。
これも板倉のときと同じだった。普段はリーダーへ媚びへつらっていた彼だが、怪人へ変わる前は反抗的な姿勢を示していた。ますます不吉な予感が強まった。
「私は今すぐに食べたいんです。アパートに戻るまで待つなんて、できません」
言うが早いか、愛海は芳賀を突き飛ばした。
「うわっ」
予想以上に強い力で押され、芳賀は仰向けに倒れてしまった。
回避能力を発動する暇すら与えられなかった。というより、かわす必要性がある「攻撃」だと認識していなかった。
華奢な女性の腕力などたかが知れている、と侮っていたのである。能力に目覚めていないはずの彼女に、男性を軽く突き飛ばせるほどの力があるとは思いもよらなかった。
転倒した芳賀をよそに、愛海は段ボール箱へ走り寄った。力任せにガムテープを剥がし、中からウィダーゼリーを数個取り出す。愛おしそうにそれを見つめたかと思うと、貪るように吸い始めた。
何かに取りつかれたように、無我夢中でゼリーを吸い続ける。次から次へとパックを空にし、新しいゼリーへ手を伸ばす。彼女の目はらんらんと輝き、血走っていた。
ただならぬ事態に、能見たちもさすがに異様さを感じた。
「一体、どうしたんだよ。今日の愛海さん、何だかおかしいぞ」
眉をひそめ、能見が彼女へ近寄ろうとした瞬間であった。目を見開き、愛海は手からゼリーのパックを取り落としていた。
「ああっ。痛いです。体が焼けるように痛いです」
細い指先が、ぴくぴくと痙攣するように震える。
「……トリプルセブン様、助けて」
それが、彼女が人として発した最後の言葉になった。
全身の皮膚がどろどろになって溶け、その下から桃色の新しい皮膚が現れる。セミの幼虫を思わせるそれは、ぶよぶよとして気味が悪かった。
頭部は蟻に似ていた。人よりもはるかに大きな目が、能見たちを見つめている。
とうとう恐れていたことが起きてしまった。
林愛海という、一人の女性の人格は消滅した。今ここに残っているのは、管理者に似た異形の怪人だけである。




