030 死体が消えた
能見たち四人の元へ戻るのではなく、芳賀はアパートの外へ出た。エントランス付近で、待ち合わせていた相手と合流する。
「やあ、待たせたね」
「……い、いえ! そんなことないです」
ポニーテールの女性、林愛海はうつむき、もごもごと言った。
芳賀が能見たちと戦って敗れたとき、彼女は看病を担当していた。そのときに「お身体をお拭きしましょうか」と爆弾発言をしてしまったことを、愛海はいまだに後悔している。
(もしも、またトリプルセブン様の前で恥をかいてしまったら……私、このグループから追い出されるかも⁉)
もっとも、彼女を追い払おうなどと、芳賀は露ほども考えていなかった。能力に目覚めていないとはいえ、看護学校時代の経験を活かし、愛海は負傷者の手当てを行ってくれている。十分に優秀な人材であり、手放す理由がなかった。
少々思い込みが激しいのが、玉に瑕なのだけれども。
「それじゃ、行こうか」
「は、はいっ」
気弱そうな表情を浮かべている彼女を見やり、芳賀はさっさと歩き出した。慌てて、愛海もその後に続く。
二人が目指しているのは、先日、板倉が暴れた食料貯蔵庫である。
アパートが立ち並ぶ中、その倉庫がある一画だけ建物の高さが低く、ぽっかり凹んでいる。そこへ食料の詰まった段ボール箱を運び込み、芳賀たちは貯蔵庫として使っているのだった。
「遺体の保存状態は?」
「びっくりするくらい良いですよ」
芳賀に追いつき、愛海が隣に並ぶ。
「腐敗が全然進行していなくて。普通なら、まずありえない現象です」
「……そうか」
芳賀が険しい顔をする。
やむを得ず板倉を倒したのち、芳賀は彼の死体をすぐには捨てさせなかった。どういうメカニズムで板倉の体が変化したのか、いずれ確かめたいと思っていた。そのためには、遺体を保存しておく必要がある。
トリプルスリーこと荒谷匠、トリプルツーこと綾辻咲希とやり合っていて、このところはなかなか時間が取れていなかった。ようやく余裕ができたので、医療知識のある愛海を連れ、死体の調査に向かっている次第であった。
板倉の死体が全くと言っていいほど腐っていないのは、奇妙である。愛海いわく、異臭もほぼしないということだった。
「やはり板倉は、人ではない何かに変わってしまったということなのかな」
「そうかもしれません」
遺体が安置されている倉庫が近づくにつれ、愛海は不安を隠せなくなったようだ。声を震わせ、縋るように芳賀を見上げる。
「……トリプルセブン様。私、怖いです。いつか私も板倉さんと同じようになるんじゃないかって思うと、怖くて仕方なくて」
「気持ちは分かるけど、怯えてばかりいても何も始まらないよ」
ぽん、と彼女の肩を優しく叩き、芳賀は微笑んだ。彼は自信家でナルシスト気質のようなところがあるが、仲間を思いやることにかけては一流だった。
「そうならないように、板倉が変わった原因をこれから探りに行くんじゃないか。大丈夫。何があっても、僕が君を必ず守り抜いてみせるから」
「トリプルセブン様……」
恋する乙女のように、愛海がぼうっとして芳賀を見つめる。頬には朱が差していた。
本人は知らなかったが、中性的で整った顔立ちの芳賀は、グループの女性メンバーから密かに人気を集めていたのだった。
「あのっ、お気遣いありがとうございます!」
「気にしなくていいよ、これくらい」
ぺこぺこ頭を下げる愛海を適当にあしらいつつ、芳賀は倉庫の入口へ辿り着いた。
「それで、遺体はどこに?」
「あっちです」
段ボール箱が積まれているのとは反対側の壁際を、愛海が指さした。展開された空の段ボールが、何個か重ねられている。おそらくはあの下に、板倉の死体が横たえてあるのだろう。
「腐敗は進行していないということだし、解剖して調べてみても良いかもしれないね」
準備はできてるかい、と愛海を見やる。緊張した面持ちで、彼女はこくこく頷いた。右手にはナイフが握られている。
「体の構造が人間とは違うので、勝手が分からないかもしれませんけど。でも、やれるだけ調べてみます」
「頼んだよ」
話しながら、空の段ボールを重ねた一画へ歩み寄る。だが、近づくにつれて芳賀は違和感を強めていった。何かがおかしい。
直後、その正体に気がつく。遺体に被せられているはずの段ボールが、妙に軽そうに見えるのだ。重量感がまるでない。
「……愛海さん、ちょっと下がっていて」
「えっ?」
ナイフを手に近づこうとしていた彼女を、手で制止する。きょとんしている愛海をよそに、芳賀は段ボールへ近づき、ばっとそれを引き剥がした。
厚紙の下には、何もなかった。
板倉の遺体は、文字通り消失していたのである。
「……どういうことだ? これは」
掴んでいた段ボールを取り落とし、芳賀は後ずさった。
まさか、死体が自然消滅したわけではあるまい。何の痕跡も残さずに消えるとは考えにくい。
となると、残る可能性は一つ。何者かが、板倉の遺体を持ち去ったのだ。
「一体、誰がこんなことを」
ふと、管理者という単語が脳裏をよぎる。この街の真実から自分たちを遠ざけるため、彼らが死体を回収したのかもしれない。
「……う、うーん」
研ぎ澄まされていた芳賀の思考は、愛海の呻きによって中断された。頭を手で押さえ、彼女はふらついていた。
「私、またミスしちゃいました。もう、ダメかもしれません……」
そう呟いたかと思うと、白目を剥いて倒れる。とっさに芳賀が体を支え、何とか頭を打つことは避けた。
実は芳賀は、板倉の遺体管理を愛海に一任していた。つまり彼女は、自分の管轄下で死体が消えるという、とんでもない失態を演じてしまったことになる。
次にミスをしたら追い出されるかもしれない、と思い詰めていた愛海にとって、今回の事件は大ショックだった。衝撃と混乱のあまり、彼女は気を失ってしまった。
「愛海さん、しっかりしてくれ。おい、愛海さん」
肩を揺すっても目は開かず、応答もない。
とりあえず、板倉の件は後回しだ。気絶した部下を介抱すべく、芳賀は彼女に肩を貸し、急いでアパートに戻った。




