06 トリプルエイトの過去
「あら、あちらのお客様、どうされたんでしょう?」
「カップルの彼氏の方が別れ話を切り出して、彼女が泣き出しちゃったとかですかね?」
「それっぽいですね」
洋服店の店員たちに噂されていたとはつゆ知らず。ようやく唯が落ち着いたようなので、能見は「ついでに服も見ていこう」と提案した。ベンチを借りて一休みするだけでは、店にとって迷惑な気もした。
婦人服を中心に扱っている店だったので、唯が服を選ぶのを手伝うことにする。
これまで覗いてきた店の中では一番良心的な価格設定で、大学生でもアルバイトを頑張ればギリギリ買えそうな値段だ。ここに来て、ウインドウショッピングではなく、購入するという選択肢が現実味を帯びてくる。
「清水には、こういう明るい感じの服も似合いそうだけどな」
清楚ではつらつとした印象を与える白のブラウスが、マネキン人形に着せられている。それが目に入って、能見は深い考えなしに呟いてしまった。
直後、激しい後悔に襲われる。
(……いや、今の言い方は良くなかったか? これじゃ、まるで「清水が普段暗い感じの服ばかり着ている」みたいなニュアンスじゃないか)
また彼女のメンタルを傷つけてしまったら、冗談抜きでヤバい。焦る能見だったが、幸い唯は不快に思った様子もなかった。
「ここでは買わなくてもいいかな。海上都市から持ち帰った服の中に、いい感じのも多かったし」
ブラウスをちらっと見てから、苦笑しつつ首を振る。
衣服などの日用品の支給は、「管理者」がもたらしたごく僅かな恩恵の一つだ。千人もの被験者に配布する都合上か、安価そうな無地の衣類ばかりだったけれど、シンプルで飾らないデザインは嫌いではなかった。戦いを経て破れたり傷ついたりしたものも多いが、そうでないものは能見も何着か持ち帰った。
「――ねえ。能見って、秘密は守れるタイプ?」
持ち帰った無地のシャツについて思いを巡らせていると、出し抜けに声を掛けられた。上目遣いにじっと見つめられ、ちょっと緊張してしまう。
「な、何だよ。藪から棒に」
何だか距離が近い。唯の唇の艶やかさを妙に意識してしまうし、甘くて良い香りも漂ってくる。
「うん、まあ、能見だもんね。大丈夫か」
能見の答えは答えになっていないし、唯もなぜか一人で納得している。悪戯っぽく微笑み、ひょいと体を離した。
スチュアートら管理者によって、被験者は皆何かしらの能力を与えられている。「サウザンド・コロシアム」計画を潰したのちも、能見はそのことを公表せず、被験者たちが人間としてまっとうに生きていける未来を切り拓いた。あるいは、唯はそういう功績を認めてくれたのかもしれない。
「菅井さんたちには話したことなかったんだけどさ。私、本当は彼氏がいたことあるの。高校二年生のときに、一度だけ」
正確には「彼氏」とは呼べない関係だったけど、と唯が悲しげに目を伏せる。
「彼にとって私は、何人もいる遊び相手のうちの一人でしかなかった。でも、私はそれに気づけなくて。気づかずに捨てられて、笑い者にされて。正直、結構しんどかったよ」
「辛かったな」
上っ面だけの同情ではなく、能見は心からそう思った。
ひどい話だ。隠れプレイボーイの芳賀でさえも、ここまで典型的なクズではないはずである。たぶん。
「私が不良っぽいファッションを好むようになったのは、その人の影響だったんだと思う。……ううん、それだけじゃない。もう恋愛で傷つきたくなくて、無意識に他人を遠ざけるような、威嚇するような感じの服を選んでいたのかもしれない」
彼女にとって、パーカーやダメージジーンズ、布マスクには重い意味が込められていたのだろう。明かされた過去を知り、能見は初めてそれに気づけた。
しかし今、唯はもう以前の彼女ではない。不良というよりシティーガール、ダークというよりクールな印象を与える、灰色のチュニックに青のギャザースカートという出で立ちだ。高校時代の呪縛から解き放たれ、少しずつ本来の自分を取り戻している。
「今はもう、大丈夫なんだな?」
「うん」
はにかむように唯は笑った。
「海上都市で色んなことがありすぎて、なんかもう、昔のことにいつまでも囚われてるのが馬鹿馬鹿しくなっちゃって」
「……そうか。良かったな」
眩しそうに目を細めて、能見も笑みを返した。前を向いて生きる彼女が、何だかとてもたのもしく感じられた。
『能見くーん! 買い物終わったよ!』
「分かった。今向かってるから、ちょっとだけ待っててくれ」
『はーい。時速五十キロで来てね!』
「無茶言うなよ」
スマートフォンを耳に押し当てながら、炎天下の表参道を歩く。能見のすぐ後ろを唯がついていく。
唯には服を買うつもりがなさそうだし、さて次はどこの店へ行こうか――と悩んでいたところ、陽菜から電話がかかってきたのだった。「早く早く!」と急かしてくる彼女をなだめつつ、急いで渋谷に戻っている最中である。
「……ふう」
やっと陽菜から解放された。通話を終了してスマートフォンをポケットに押し込み、能見がやれやれと息を吐く。
何だかんだで別行動というかたちになっているが、一応、初デートなのだ。彼女のテンションが上がりまくっているのも分かる。
「恋人に振り回されるのも大変そうね」
「その大変さを楽しむんだよ」
おかしそうに笑っている唯に、能見は苦笑してみせた。
洋服店で話し込んでいるうちに、いつのまにか時間が経っていたらしい。結局服を一着も買わないまま店を出た二人は、早歩きで渋谷駅を目指していた。店員からすれば、迷惑な客だったかもしれない。
それにしても、渋谷という街は坂が多い。よくもまあ、こんな不便そうな土地を大都会にしようだなんて思いついたものだ。昔の人はすごい。
暑い日差しがギラギラ照りつける中、二人は高低差のある道を急いだ。上ったり下ったりを何度か繰り返しているうちに、駅周辺の繫華街が見えてくる。
「……ありがとうね、能見。私なんかの、つまらない身の上話を聞いてくれて」
出し抜けに、シャツの袖をくいっと引っ張られた。不意を突かれて歩調を緩める。
能見が振り返ってもなお、唯は袖をつまむ手を離そうとしなかった。恥ずかしいのか、決して視線を合わせようとしない。
「能見と話してて、改めて思ったの。片想いのままだったけど、あの街で荒谷さんみたいな素敵な人に会えてよかった。私、後悔してない。だから、ありがとう」
「別に大したことはしてないって」
ちょこんと袖をつまんでいる手を優しく振りほどき、能見は謙遜した。
「さあ、急ごうぜ。陽菜さんたちが待ってる」
「そうね」
二人は顔を見合わせ、こくりと頷いた。そして、駆け足で目的のファッションビルを目指した。
本来なら、陽菜と二人きりで初めてのデートを楽しむ予定だった。けれど、こういう展開も全然ありだと思う。
なぜなら、一人の悩める女の子の力になれたからだ。
屈託のない笑顔で、隣を走る唯。彼女の横顔をちらりと見て、能見は胸が熱くなったように感じた。
今までも、そしてこれからも。清水唯は過去を乗り越え、今を生きていくのだ。




