009 雨上がりの空
その夜は、とても早く過ぎた。
段ボール箱の中から治療キットを見つけ、陽菜の怪我を手当てした。薄い味のするウィダーゼリーを一、二個食べ、小腹を満たした。それからユニットバスでシャワーを浴び、二人で交代して仮眠を取った。
とりあえず水道、電気、ガスといったインフラは整えてくれているらしい。飲み水には困らないし、体を清潔に保つこともできる。街の管理者へ、能見はほんの少しだけ感謝した。
「……ごめん、私疲れちゃった。先に寝てもいい?」
「いいよ」
目をこすりつつ言う陽菜に、能見は二つ返事で了承した。あれだけ派手に戦ったのだから、無理もない。能見自身もかなり体がだるかった。
「じゃあ、おやすみっ」
言うが早いか、彼女は布団に潜り込んで寝息を立て始めた。
血が付いたブラウスは洗濯機に放り込まれ、今の陽菜は支給された服を着ている。簡素で装飾のないシャツは、ここでの殺伐とした日々を連想させた。
「……おやすみ」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、能見が応じる。穏やかな陽菜の寝顔を見ているうちに、能見は申し訳ないような気持ちになった。
彼女は多分、「能見が助けてくれた」のだと信じている。いや、結果的には助けたことに違いないのだが、その過程が問題なのだ。あと少しでも雷の照準が狂っていれば、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。陽菜を殺していたかもしれない。
できることなら、この力は二度と使いたくなかった。少なくとも、能見自身が制御できるようになるまでは。
電気を消した部屋の中で、彼は一人、悶々としていた。
翌朝、ウィダーゼリーの食事を終えるとすぐに、陽菜は言った。
「ねえ。もう一度、トリプルセブンのグループと交渉しに行かない?」
「はあ?」
能見は顔をしかめた。一方、彼女の目はきらきら輝き、希望に満ちていた。
「だって昨日の能見くん、大活躍だったじゃない。芳賀さんの部下を一撃で倒しちゃったし」
「それは、まあ、そうだけどさ」
何も知らない陽菜は、危うい勝利を無邪気に喜んでいた。罪悪感を拭いきれず、能見が曖昧な言葉を紡ぐ。
「能見くんも力が使えるようになったんだし、二人で力を合わせれば、きっとトリプルセブンにも勝てるよ。一緒に頑張ろう!」
「……いや、でも」
微笑を向けられても、かえって気まずさが増すばかりだった。能見は彼女から視線を逸らした。
「あいつらに撃たれた傷、まだ治ってないんだろ。今の状態で戦いに行くのは、危険だと思う」
「だからって、このまま放っておいたら、あのグループはどんどん勢力を拡大しちゃう。止められるのは、今しかないかもしれないんだよ」
それに、怪我のことなら大丈夫、と陽菜は笑顔を絶やさなかった。ずきり、と心が痛む。
「今度は能見くんに先に攻撃してもらって、私が援護するから。これなら足手まといにならないでしょ?」
「……違うんだ。俺が心配してるのは、そういうことじゃないんだよ」
黙っていることが、彼女の幸せになると思っていた。けれど、それも今では正しいのかどうか分からなくなっていた。
何より能見自身が、隠し通すことに限界を感じていた。奥歯を噛みしめ、声を震わせる。
「あのとき陽菜さんを助けられたのは、ただの偶然だ。俺は力をコントロールできずに、めちゃくちゃに雷を撃ちまくっただけなんだよ」
「……能見、くん」
陽菜は口を半開きにし、何か言おうとしているようだった。心なしか顔色が悪く見える。
彼女を遮って、能見は吐露した。
「また力を使ったら、今度こそ君のことを傷つけてしまうんじゃないか――そう思うと、どうしようもなく怖くなるんだ。戦うことが、この力に頼ることが恐ろしいんだ」
それが、今の彼の正直な気持ちだった。
長い沈黙が流れ、ようやく陽菜が口を開く。
「ごめんね」
「えっ?」
まさか、謝罪されるとは思っていなかった。怪訝そうな顔をした能見に、彼女は笑いかけた。悲しみを内に秘め、それでもなお、無理に笑顔をつくっていた。
「知らなかった。私、能見くんの気持ちを全然分かってなかった。だから、ごめん」
謝るようなことじゃない。君が責任を感じる必要はない。返す言葉など、いくらでもあったはずだ。
だが、陽菜の儚げな表情を前にすると、彼は何も言えなくなってしまった。
「……よく考えたら私、能見くんの力に頼ろうとしてばかりだった。つらいことを押しつけちゃって、本当にごめん」
それから彼女は、凛とした声音で言った。
「だから、トリプルセブンのところへ乗り込むときは私が戦う。能見くんには力を使わせない」
「何言ってるんだ。無茶に決まってるだろ」
思わず、能見は腰を上げかけていた。
「昨日の今日だ。あいつらだって、無警戒でいるわけがない。陽菜さんだけで対処するのは無理だ」
「でもっ」
感情が高ぶったせいか、陽菜の声が上ずる。見れば、彼女の目は僅かに潤んでいた。
「さっきの能見くん、すごく苦しそうだった。あんなこと、もうさせたくないの」
どくん、と心臓が脈打つのが分かった。
初めて会ったときの彼女は、「セックスしちゃいましたか」「初めては大切な人に」などと問題発言を連発し、能見を狼狽させていた。天然なのか、それともアホなのか判断できず、能見は内心呆れていた。
だが、あれはおそらく、陽菜の一面にすぎなかったのだろう。未知の空間にいきなり放り込まれた混乱が、彼女にNGワードを口にさせたのだ。
本当の彼女はとても純粋で、真っ直ぐな女性に違いない。他人の気持ちを思いやることができ、その痛みを和らげようと心を砕く、優しい人だ。
そこまでして自分のことを思いやってくれる理由は、何なのか。能見には分からなかった。
「陽菜さんは、俺のことが怖くないのか? あのとき、俺は君を殺していたかもしれないんだぞ」
「ううん、怖くない」
涙に濡れた目を、手でぐいと拭う。雨上がりの空のような笑顔で、陽菜は続けた。
「……私は、能見くんのことを信じてるから」
その空に虹がかかるかどうかは、能見次第であるようだった。




