12 それぞれの夢へと
「この後、ピアノのレッスンがあるから」ということで、奏は新宿駅から帰るそうだ。
さっきは「姉ほどの才能はない」と謙遜していたが、教育学部で音楽の先生を目指していることを考えると、普通の人から見れば相当上手いはずだ――少なくとも、子供の頃に少しだけピアノを習っていただけの自分よりはずっと。
菅井は近くのバーでのバイトがあるので、もう少しこの辺で暇を潰すつもりである。が、特にやることもないので、駅まで彼女を送っていくことにした。
「平日だというのに人が多いな」
「夏休みだからじゃない?」
他愛のない会話をして、人混みの中をすり抜けていくうちに、改札前に着く。
けれども、すぐに解散にはならなかった。改札からやや離れた位置で、不意に奏が立ち止まる。
「……菅井っち!」
くるりとこちらを向き、彼女は人差し指をずばっと突きつけてきた。それから、ニッと笑ってみせる。
「うち、いつか絶対、音楽の先生になるって夢を叶えてみせる。子供たちに音楽を教えて、未来へ新しい音楽を繋いでいく。それが、うちがお姉ちゃんのためにできる精一杯のことだと思うから」
「そうか。頑張れよ」
素敵な夢だ、と菅井は思った。こちらも親指を立てて応じる。
あの街で、美音は管理者スチュアートの手にかかって命を落とした。かけがえのない才能が失われた。
その事実を変えることはできない。だが、彼女の想いを生かすことはできる。
響いた音の余韻が残るように、美音が奏でようとしていた音は未来へ受け継がれる。次の世代、また次の世代で、新しい音が生まれていく。奏が目指しているのは、きっとそんな未来なのだろう。
「うん、頑張る!」
周りの視線が気になって恥ずかしくなったのか、急に奏は手を下ろした。頬がほんのり赤く染まっている。
「ねえ、菅井っちの夢は何なの?」
「俺の?」
出し抜けに問われ、菅井は少し驚いた。
「別にこれといった夢はないさ。毎日を生きていくので精一杯で、とてもじゃないが将来のことを考える余裕はない」
「え、そんなに貧乏なの⁉ 可哀想……」
「いや、そういうわけじゃないぞ」
同情の眼差しを向けられて、慌てて否定する。実際は、授業とサークルとバイトで忙しいだけである。
人生の意味は何だとか、生きがいとは何だとか。そんな小難しいことを考える暇もなく、ただ毎日がそれなりに楽しくて充実していればいいやと思っている。どこにでもいる、ごく普通の大学生のルーティンだ。
だが、そんな日常が当たり前ではないことを、菅井は嫌というほど知っている。海上都市を脱出して無事に日本へ戻って来れたからこそ、今の生活があるのだ。
「だけど、漠然と考えてることくらいはある。いつか、世界中の人々が笑えるような世界になればいいなって」
「うーん、本当に漠然としてるね」
奏は「腑に落ちない」と言いたげな表情だった。
「『管理者』とかいう怪人はもう全部倒されたんでしょ? 街もすっかり復興したし、今だって十分平和な世の中だと思うけど」
「管理者を造ったのは人間だった。人には善と悪、二つの側面がある。他者の命を救うことも、奪うこともできる。人間のそういう悪い部分が働きすぎないように、俺も自分にできることをしたいんだ」
菅井は美音から、人の優しくすることの大切さを教わった。長谷川のような、どちらかというとクズに近い人間に対しても慈愛の心をもって接していた彼女は、グループの全員から慕われていた。
俺も美音さんのように、皆の笑顔を守って生きていきたい。今ではそう思っている。
「具体的にはどうやって?」
「……そうだな。まずは接客のバイトを頑張って、お客さんを笑顔にするところからかな」
「何それ。めっちゃ庶民的じゃん」
ぷっと吹き出し、奏はおかしそうに笑った。
「この近くのバーで働いてるんだ。よかったら、今度飲みに来ないか?」
「ダメだよ。うちら、まだ未成年だし」
客引きをやっていた頃のセールストークをついつい発揮してみたが、振られてしまった。パッと見派手そうなのに、そういうところは真面目なのがちょっと面白い。
「何笑ってるの」
「笑ってないよ。見間違いだろ」
と、長話になりかけたところ、奏が腕時計に視線を落として「やべっ」と声を漏らした。
「あーっ、ごめん、菅井っち! うち、そろそろ行かなきゃ。三分後の快速に乗り遅れたら、レッスンに間に合わなくなっちゃう」
改札に向けて一歩踏み出しかけて、奏は首だけで振り向いた。ぺろっと舌を出し、悪戯っぽく微笑む。
「今はお互い忙しいと思うけどさ。いつか、夢が叶ったらまた会いたいな」
「ああ。約束だ」
奏の夢を叶えるための方法は、比較的はっきりしている。教員採用試験に受かり、晴れて先生になれたら、そこがゴール地点だ。
菅井の場合はよく分からない。一口に「皆を笑顔にする」といっても、方法は色々ある。何をもって夢を叶えたとするのかも不明瞭だ。
だが、いつか見つけてみせるつもりだ。将来どういう仕事に就いて、何をして人の役に立つのか。その答えを探すのも含めて、菅井に与えられた宿題だと言えるだろう。
「そのときは、俺の店に飲みに来てくれ」
「いつまで飲み屋でバイトしてるつもりなの。フリーターになるわけじゃないんだし」
「それもそうか」
顔を見合わせて苦笑する。まあ、どこかおすすめの店で飲むことになるだろう。
最後までグダグダした会話が続いてしまったが、何とか約束を取りつけ、今度こそ二人は別れた。
改札を抜けた奏の後ろ姿が、どんどん小さくなる。猛ダッシュで駅のホームへ急いでいるのだ。
彼女を見送ると、菅井も踵を返して歩き出した。
時間も余りそうだし、いつもより少し早めに出勤しようかなと思う。彼が勤務しているバーは、開店前の準備や清掃の人手が足りなくて困っているのだ。
皆を笑顔にするという菅井の夢は、まだ序章にすぎない。あるいは、彼がこれから歩む人生全体を通して叶えられるものなのかもしれない。
(見ていて下さい、美音さん。たとえ不器用でも、俺は俺なりのやり方であなたの意志を継いでみせます)
夢への一歩を踏み出すべく、菅井はバーへと向かった。




