04 フィンガースナップ
気がつくと、全身汗びっしょりになっていた。
人生で初めて経験した命のやり取りは、かなりの緊張を菅井に強いていたらしい。新宿歌舞伎町では日常茶飯事だった喧嘩が、急に生易しいものに思えてくる。
恐る恐る目を開けると、青年の動きがぴたりと止まっていた。
ほっとしたのも束の間、それは再び動き出した。反射的に横へ転がって避けると、小太りの男はそのままの勢いで窓ガラスへ激突した。
「……ぎゃあああああっ!」
この部屋にはベランダがなかった。窓の向こうには、虚空が広がっているばかりだった。
ガラスを突き破り、その破片が体中に刺さった状態で、彼は悲鳴を上げて落ちていった。
体が僅かに震えている。よろよろと立ち上がり、菅井は割られた窓へ駆け寄った。
自分のいるアパートが何階建てなのかは分からないが、男はさほど高いところから落ちたわけではなさそうだ。せいぜい、二階か三階だろう。
いずれにせよ、彼はまだ生きていた。地面に激突しても命に別状はなかったらしく、「い、い、痛いよお」と倒れたまま泣き叫んでいる。
どうやら、菅井には物体の動きを止める力が与えられたようだった。本能的にそれを発動し、窮地を脱したらしい。
「悪く思わないでくれよ。俺はただ、お前の攻撃を避けただけだ」
そう呟きつつも、菅井は青年のことを少し気の毒に思った。
窓から離れると急に疲労感が襲ってきて、へなへなと座り込んでしまった。
あの街で菅井が経験した最初のバトルは、このように不慣れで不格好なものだった。
何とかニキビ面の青年を撃退できた。けれども、窓が大きく割れた部屋に居続けることはできない。これでは寒さを凌げないし、簡単に侵入されそうだ。
(ガラスが割れた音を聞いて、他の被験者が寄ってくるかもしれない。そうなる前にここを離れよう)
段ボールからナイフと拳銃を取り出し、必要最低限の食糧と衣類をジャケットの内ポケットへ押し込む。外が薄暗くなるのを待ってから、菅井は闇に紛れるようにして部屋を抜け出した。
多くの被験者は、彼と同様の経験をしたことだろう。能見と陽菜のように、同室の者と友好的な関係を築けたケースの方が例外なのだ。
幸い、廊下に人影はなかった。音を立てないようにそろりそろりと階段を降り、アパートの一階を目指す。
建物の外を目指したのは、「ひとまず状況を把握する必要がある」と感じたからだ。謎の声が言っていた「人工都市」がどういう構造になっていて、自分はその中のどこにいるのか――とにかく、情報が圧倒的に足りなかった。
アパートの外に出て、改めてその外観を見やる。壁を白一色に塗られた殺風景な建造物が、横にずらりと並んでいた。
何か目印をつけておかないと、自分がどのアパートから出てきたのか分からなくなりそうだった。それくらい無個性な建物だった。
(……まるで、俺たちを収容するためだけに造られたみたいだ)
嫌な想像が頭をよぎる。はるか遠くにそびえている高い壁も、被験者を外界へ逃がすまいとしているようだった。
もう少し辺りを探ってみようか、と思ったときだった。黒い影が一つ、上方から迫ってくる。
「――隙ありやで!」
威勢のいい関西弁とともに、銀の刃が夕日を受けてきらめいた。
「不意打ちを禁ずる」というようなルールは、このデスゲームに設けられていない。できるだけ多くの被験者を倒し、生き残った者が勝利者となる。閉ざされた街から脱出する権利を得る。
いかにもスポーツマンといった風の、体格の良い青年。彼がアパートの二階部分に潜み、獲物が通りかかるのを待っていたことは不自然ではなかった。むしろ、生存戦略としては合理的だ。
「……ずいぶんと汚い手を使うんだな」
だがあいにく、菅井はそういうやり方が気に食わなかった。さっきの小太りの男といい、正々堂々と戦わない男は好きではない。
怪人化した愛海を確保するため、のちに能見と陽菜の前に立ちはだかったとき、菅井は戦う前にきちんと名乗った。美音がスチュアートに不意を突かれ絶命したときも、卑劣な戦法をとった怪人へ怒りを爆発させた。菅井颯は、騎士道精神を重んじる男だ。
「そっちがその気なら、全力で行かせてもらうぞ!」
青年が飛びかかってくる寸前に、菅井は殺気を感じ取っていた。ぱっと顔を上げ、右手を敵に向けて突き上げる。
「何っ⁉」
素早い反応に、青年が驚いた素振りを見せる。「アッパーカットを放ってくるのだろう」と推測したのか、空いた左手で体を庇おうとした。
しかし、菅井の狙いは徒手空拳による格闘ではない。自分の持っている唯一にして最大の力、「停止」を発動することだ。
掲げた右手の、中指と親指をこすり合わせる。刹那、パチン、と微かな音が響いた。フィンガースナップ――俗に「指パッチン」とも呼ばれる動作である。




