06 涙が覚ます夢
柔らかくも温かい感触に、なるべく意識を向けないようにしてサンオイルを塗っていく。
作業そのものは五分足らずで終わった――というか、気恥ずかしかったので能見が早めに終わらせた――のだが、軽く撫でただけなのに「んっ」「あうっ、そこダメっ」などど陽菜が破廉恥な声を出したため、能見はものすごく緊張していた。数分の時間が永遠にも感じられた。
塗り終わってほっとする間もなく、陽菜は能見の手を引き、波打ち際へと走った。
「能見くん、早く早くー!」
「お、おい、そんなに急ぐなって」
「ごめんごめん」
無邪気な笑顔を向けられて、思わずどきりとする。やっぱり、どうしようもなく可愛い。
泳げない芳賀は、「我関せず」といった風に浜辺で日光浴している。それ以外のナンバーズのメンバーは皆、浅瀬でわいわいはしゃいでいた。
水着姿が恥ずかしいのか、もじもじしている唯。そんな彼女を引っ張って、泳ぎに行こうとしている和子。
周りの海水浴客(女性)を観察し、「あの人はスタイルがええな」「あれも一部の性癖には刺さりそうや」などと批評していく武智。「普通にキモいからやめろ。友人として恥ずかしい」と警告する菅井。
荒谷と咲希は、互いに水を掛け合っていちゃついている。彼らを真似ようとしたのか定かではないが、腰まで海水に浸かるやいなや、陽菜は能見へ思い切り水をかけてきた。
「えいっ☆」
「おわっ⁉」
不意打ちを受け、能見は避けられなかった。塩辛い水が顔にかかり、目をつぶる。
「こういうの、カップルっぽくて憧れてたんだよね。よーし、もっとやっちゃおう! えいえいっ☆」
頬を赤く染め、口元を緩める陽菜。いつになく可憐で美しいその表情に、思わず目を奪われた。
(……何だろう、この感じ。めちゃくちゃ楽しい)
ぱちゃっ、ぱちゃっ、と続けざまに水を浴びせられる。腕で顔を庇いつつ、能見は苦笑していた。
久しぶりに心の底から笑えた気がする。海上都市でのデスゲーム、管理者との熾烈を極める戦いの中で一か月ほどを過ごしてきて、こんなに心が休まる瞬間はなかったかもしれない。
よく分からないことだらけだ。なぜか海上都市ではない場所に来ているし、咲希は元気になっているし、おまけに陽菜との距離感が縮まっているし。
けど、それでも構わないような気がしてきた。夢のようなこの時間を、目いっぱい楽しみたい。陽菜や皆と一緒に、楽しい思い出を共有したい。今は素直にそう思えた。
「よーし、俺も!」
やられてばかりでは男が廃る。陽菜へ水を浴びせ返し、能見は笑った。
「きゃあ」
咄嗟に手で顔を覆う。細い腕を下ろし、陽菜が照れたように微笑む。
「……ふふっ。楽しいね、能見くん」
「ああ。すごく楽しい」
この時間が、永遠に続けばいいのに。
戦いから離れ、能見は与えられた休息に酔っていた。何度も水を掛け合い、二人は幸せそうに笑い合った。
そのとき、頬に熱い液体が滴るのを感じた。
海水とは明らかに異なる。陽菜に水をかけられたせいで、能見は全身びしょ濡れだった。その冷たい水とは違う温もりが、頬のある一点へ断続的に伝わっている。
(何だろう)
手を伸ばし、熱の正体を確かめようとした瞬間、急速に景色が遠ざかっていった。
陽菜の笑顔。仲間たちの姿。他の海水浴客たちの喧騒。寄せる波の音。それらすべてが、能見からどんどん遠くに消えていく。色彩豊かで、様々な音に溢れていた視界はブラックアウトし、完全な暗闇と化す。
海上都市のアパートから、この不思議な世界へ放り込まれたときと同様だ。
気がつくと、何も見えなかった。
はっとして目が覚めた。闇の中で瞼を開く。
アパートの部屋で布団に包まり、能見は今まで眠っていたようだった。いつもと変わらない、海上都市の日常風景である。
(――夢でも見ていたのか? 俺は)
ただの夢にしては、妙にリアルだった。喫茶店の見知らぬ男女の会話、海辺ではしゃいでいた皆の様子が鮮明に思い出せる。
そこまで考えて、能見はようやく気づいた――何か熱いものが頬に滴った感触が、まだ消えていないことに。
明かりを消した室内の暗さに、徐々に目が慣れてくる。
「……んっ」
彼から数センチしか離れていないところに、陽菜が寝ていた。能見のいる方向、つまり真横を向いてまどろんでいる。
けれども、とても気持ちよさそうに眠っているようには見えない。口元はぎゅっと引き結ばれ、痛みや苦しみに耐えているようだった。
彼女の双眸には涙がいっぱいたまり、それが時折、ぽろぽろとこぼれ落ちていた。能見の頬に滴った熱い液体も、おそらく陽菜が流したものだろう。
誤解のないように記しておくが、能見と陽菜は布団を並べて寝ているわけではない。一メートルほどの間隔を開けて布団を敷き、就寝するようにしている。それにもかかわらず近くまで転がってきたということは、相当寝相が悪かったということだ。
悪夢にうなされ、無意識のうちに現実でも身をよじったのだろうか。
「……能見、くん」
ゆっくりと陽菜の唇が動く。自分の名前を呼ばれて、能見は思わず身を硬くした。
「行かないで。能見くんっ」
目を閉じたまま、彼女はか細い悲鳴を漏らした。辛そうに歪められた表情を見ていると、何だかこっちまで胸が締めつけられるようだった。
たぶん、陽菜は悪い夢を見ているのだ。それも、能見がどこか遠くへ行ってしまうような、耐えがたく辛い夢を。




