02 小さな奇跡
「まあとにかく、良かったじゃねえか。緑川も俺も元気そうで」
ズズズーッ、と派手に音を立てて、永井はカップの中の液体を飲み干した。
ミルクや砂糖をドバドバ入れまくった結果、かつてブラックコーヒーだったものは薄茶色に変貌している。そんな、いかにも健康を害しそうな悪魔の飲み物を、彼は文字通り一気飲みしたのだった。
「ぷはーっ、美味い。ここのコーヒーは絶品だな!」
「……さっきは『人間が飲むものじゃない』と酷評していたのに、よくそんな無責任な発言ができるわね」
満面の笑みでカップをテーブルに置く永井を、冴はドン引きして見つめていた。
コーヒーをこれほどの大音量ですする人も、悪魔的な量の砂糖を投入する人も、彼女が今までの人生で初めて目にするものだった。それに怒涛の手のひら返しが加わり、「永井大和」という人間の奔放さを嫌というほど表している。
この男にちょっとでも惹かれてしまったのは、正しい選択だったのだろうか。
(けれど、彼と一緒にいれば、良くも悪くも退屈しない人生を送れそうなことは確かかしら)
何とはなしにそう考えてから、冴は我に返った。赤面し、思わず自分の頬に手を当てる。帯びた熱を必死に冷まそうとするかのように。
(「一緒にいる」って何よ⁉ そ、それじゃまるで私、私が――)
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「何でもないわ」
動揺は一瞬のことだった。心配そうな顔の永井を、冴がポーカーフェイスできっぱりと受け流す。彼女はあくまで、冷静で理知的なキャラを貫くつもりである。
「なら良かった。じゃあ、店を出る前に連絡先だけ交換しとこうぜ」
「……れ、連絡先⁉」
だが、冴の努力はわずか数秒で水の泡となった。予期せぬワードが耳に飛び込んできて、危うくカフェラテを吹き出すところだった。クールな表情も一瞬で崩れ去り、再び顔に朱が差す。
まさか、ここでアプローチをかけられるとは思わなかった。連絡先を教えたそばからデートに誘われて、あんな展開やこんな展開になるかもしれない。夢と妄想は無限大に膨らむ。
なお、「異性から連絡先を聞かれた」だけでここまでドキドキしてしまうことで、冴の男性経験の少なさが露呈していると言っても過言ではない。けれどもあいにく、本人にそういう意識はない。
「ええと、それはつまり、変な意味じゃないでしょうね」
「何がだよ。連絡先は連絡先だろ。他になんか意味あるか?」
変な奴だな、と呟き、永井はスマートフォンの画面を見せてきた。そこにはラインのQRコードが表示されている。
「海上都市にいた頃はスマホもパソコンもなかったけど、街自体が狭いから、走り回れば一応伝達はできた。でも、こっちに来てからもそれじゃあ通用しねえよ。東京って街は馬鹿みたいにでかいし、今日みたいにまた緑川と会えるかも分からねえ。だからさ」
突き出されたスマホを前に、冴はガチガチに固まっていた。
「ほら、さっさと俺のライン追加してくれよ。友達と連絡先を交換しておくのは、当たり前のことだぜ」
けれども、その一言でどうにか硬直から抜け出せた。
「友達……。そ、そうよね。まずは友達から始めればいいわ」
緊張した面持ちで、ビジネスバッグからスマートフォンを取り出す。まるで何か神聖な儀式をするように、冴は永井が表示させたQRコードを丁寧に読み取った。
「緑川? 何を緊張してるんだ?」
怪訝そうにしている永井。彼へ人差し指をずばっと突きつけ、彼女は恥じらいも隠さないまま宣言したのだった。
「と、とにかく。これからも改めてよろしく、ということで良いのかしら」
「いや、俺は最初からそのつもりなんだけど。何を期待してたんだよ、てめえは」
口ではそう言いつつも、永井もどこか照れた様子だ。革ジャンのポケットへスマートフォンを押し込む所作が、何だか慌てているように見える。
冴が彼に対して抱いているのと似た感情を、永井も胸の内に秘めているのかもしれない。
なお、若い二人の微笑ましい将来を見守ろうと、彼らの会話劇に喫茶店の常連客は聞き耳を立て、時折くすくすと笑っていた。幸か不幸か、本人たちが気づくことはなかったらしい。
永井と冴が別れたのは、渋谷駅の改札前だった。
人がひしめき合う駅構内を、苦労して進んでいく。復興を遂げた街には、以前とすっかり同じ賑わいが取り戻されていた。
「さようなら。また、どこかで会えたら会いましょう」
さっきまでの動揺が嘘だったかのように、冴はクールに告げた。くるりと踵を返すと、長い髪をなびかせて歩き出す。
耳が少し赤くなっているように見えたのは、気のせいだろうか。
「おう。とりあえず、就活に一区切りついたら連絡してくれ。頑張れよ」
またいつかな、と軽く手を振って、永井は彼女を見送った。
二人が乗る電車の方面は真逆で、また冴の実家は門限が厳しいらしい。したがって、「途中まで一緒に帰る」という選択肢はなかった。
改札を抜けて、目的のホームへ向かう。山手線の車両に乗り込み、吊革を掴む。
乗り合わせた女子高生たちが、甲高い声でげらげら笑っている。サラリーマンたちは上司の愚痴を行ったり、飲み会の予定を立てたりしている。そんな有象無象を適当に聞き流しながら、永井は先ほどの冴の様子について考えていた。
(緑川のやつ、今日はちょっと挙動不審だったな。どうしちまったんだろう?)
永井が何か言うたびにビクッとしたり、顔を赤らめたり、忙しい様子だった。「もしかして対人恐怖症じゃねえだろうな?」と、永井は的外れなことを考える。
まだ若く不器用な彼らは、ときにすれ違いながらも距離を縮めていくのだろう。そしていつか、特別な関係を築くのかもしれない。
(……まあ、今度会ったときにでも聞いてみるか)
本人に直接尋ねようとする辺り、やはり永井は馬鹿なのだろう。
その馬鹿の頬にも、ほんの僅かではあるが赤みが差していた。冴との再会は、間違いなく彼の中の何かを変えていた。
これは、ある夏の日に街の片隅で起こった、小さな奇跡の物語である。




