146 目を覚ませ、闇と戦え
『陽菜さんの照準補助がない状態じゃ、俺はお前を一発殴ることすら難しい。お前なら、確実に俺を仕留められるはずだ』
『芳賀は今までずっと、グループの皆をまとめ上げてくれていた。お前の力なら、俺は信じられる』
自我を失う前、能見が最後に託してくれた言葉が、脳内で反芻される。ナイフを握った手に、汗がにじむのを感じた。
確かに、回避能力を使える芳賀ならば、今の能見にも対抗できるかもしれない。どれほど威力が高くなろうとも、能見の力は近接戦闘、および紫電による攻撃の二パターンしかない。移動速度が上がったとはいっても目で追えないほどではなく、攻撃を視認し、かわすのは十分可能だった。
相手の攻撃を避け、隙を見て少しずつダメージを与えていく。そんな繰り返しを行えば、能見を倒せるかもしれない。
シュー、シュー、と息を吐き出し、紫の怪人は敵の出方を窺っていた。対する芳賀は、ナイフの切っ先を能見へ向け、微動だにしない。
「どうした。かかってこないのかい?」
眉をひそめ、芳賀が問いかける。
挑発されたように思ったのか、怪人は唸った。右の手のひらを突き出し、そこから雷撃の槍を放とうとする。バチバチと音を立てて紫電が生成され、狙いを芳賀一人に絞る。
「……グウッ」
しかし、攻撃を繰り出す寸前で、怪人の動きが鈍った。右腕を下ろし、苦しそうに頭を抱える。
(何だ?)
芳賀は訝しんだ。そして、はっと目を見開いた。
愛海の最期については、能見と陽菜から聞かされている。
怪人化して暴れた彼女は、能見の電撃によって体が痺れ、無力化された。その後、彼らが菅井たちのグループに襲われて窮地に陥ったとき、愛海は敵の注意を引きつけて能見たちを守ろうとしたという。逃げるだけの力が残っていたのに、彼女は我が身を犠牲にして、大切な友達を守り抜いたのだ。
(もしかして、愛海さんのときと同じなのかもしれない)
能見の中に、人の心が残っている。その可能性に気づき、芳賀は愕然とした。体から力が抜け、固く握っていたはずの短刀は、いとも簡単に手の中から滑り落ちた。
能見の心はまだ消えていない。破壊衝動に溢れた自分の中の闇と、戦い続けているのだ。
「……無理だ。僕にはできない」
気づけば、芳賀はがくりと膝を突いていた。もはや戦意喪失しており、回避能力を発動する意思すらなかった。
「板倉が暴走して、自分の手で処分を下したとき。愛海さんを助けられなかったとき。あのときのことを悔やまなかった日はない。もう一度同じことをしろだなんて、僕には無理だ」
『俺たちが最初に出会ったときのことを思い出せ。お前、俺を殺そうとさえしてたじゃないか。あれをもう一度やるだけだ』
「ずるいじゃないか、能見。そんな台詞」
熱い雫が、彼の両目から大地へ落ち、染み込んでいく。
この街に来てからというもの、芳賀はずっとリーダーとして生きてきた。皆をまとめ上げるにふさわしい振る舞いをし、士気を向上させるため自ら率先して動き、部下の手本となった。弱気な素振りを見せたことなどなかった。
その芳賀が、初めて人前で涙を見せた。
「……ああ、そうだね。あの頃の僕は愚かだった。実力で勝ち上がり、上位百人に入って生き残れたらそれでいいと思っていた。管理者を倒したいという君たちの願いを、叶わぬ夢だと笑ったりさえした。けど、今は違う」
なおも苦しみ、悶えている能見を、彼は正面から見据えた。
「板倉の一件で管理者のしていることに疑問を感じ、僕は彼らと戦うことを決めた。もう誰も切り捨てず、すべての被験者を守ろうと考えを改めた。――だから能見、僕は君のことも守りたいと思う。君を手にかけるなんて、絶対にできない」
「そんな嫌な役回り、俺だってごめんだぜ」
乾いた声が響く。
驚いて皆が振り返った先には、菅井の姿があった。彼もまた、意識を取り戻していたのだ。
腹部の傷は完治していない。アパートの外壁へもたれ、菅井はかろうじて立っていた。断続的な痛みに顔を歪めながらも、能見へ向けて懸命に語りかける。
「……能見。お前は俺に言ったよな。罪を償ってやり直せって。これが、お前の言う贖罪なのか」
「グ、オオッ」
意志が通じたのだろうか。紫の怪人は片膝を突き、呻いた。
『いくら力が強くなったとしても、俺はスチュアートのようには姿を消せない。もしものときは、お前の停止能力で俺を止めてくれ。……色々任せちゃって悪いな。その代わりにってわけじゃないが、美音さんの無念は俺が晴らしてみせる』
「お前を手にかけたら、俺たちはスチュアートに屈していた頃と同じになってしまう。奴らに命じられるがまま、林愛海を倒したときと同じだ。そんなこと、俺にはできない」
残された力を振り絞って叫んだのち、菅井は苦しそうに倒れ込んだ。何度か激しく咳き込み、涙の滲む目で能見を見上げる。
紫の怪人は、まだ苦しんでいた。彼の中では、獣の心と人間の心が争い、互いに主導権を握ろうとしていた。
「……お願い、能見くん。目を覚まして」
パートナーがもがき苦しむ姿を、これ以上見たくなかった。ぎゅっと目を閉じ、陽菜が祈るように叫ぶ。
「姿が変わっても、愛海ちゃんは人の心を取り戻せた。だから能見くんも、管理者の邪悪な力なんかに負けないで。姿は変わっても、能見くんは能見くんだよ!」




