142 追いかけっこは終わりだ
「え? 何なの、あれ」
「あっ、そっか」
ぽかんとしている唯とは対照的に、陽菜は一人合点していた。表情は引き締まっているものの、ぽんと手を叩く所作がほのぼのとして可愛らしい。
「たぶん能見くんは、あれをたどっていけばスチュアートのところに行けるって思ったんだよ。うん、きっとそうだと思う」
「……そ、それくらいは私にも分かるってば! 私が言いたかったのは、あの通路はどういう構造物なのかってことなんだけど」
若干むきになって、唯が弁解する。
マイペースで天然な陽菜と話していると、調子が狂う人は多い。彼女もまた例外ではなかった。
「下水道じゃないですよね? それか、電線管とか」
和子は首をかしげた。
「そんなものをたどっても、敵を追跡できるわけないだろう」というツッコミを誰も入れないくらいには、場の雰囲気は緊張していた。
能見の意図を察しているのは陽菜だけで、他二名はおどおどしている。やはり、ずっと一緒に戦ってきたパートナーには分かるらしい。
地割れによって生じた、巨大な穴。その中へと、能見は躊躇なく身を躍らせた。チューブ状の通路の上部へ着地し、そこへパンチを叩き込む。砕けた壁から、紫の怪人が通路内へと侵入し、姿を消す。
穴の縁へ駆け寄り、陽菜たち三人は中を覗き込んだ。能見はもう既に走り去り、スチュアートの追跡に向かったようだった。
彼が通路内を走っていたことから、和子が言ったような下水道や電線管の類ではないと推測される。金属板で造られた、シンプルな構造のそれは、人一人がちょうど通れるくらいの高さと幅を有していた。
この通路こそが、管理者の潜伏先へつながるヒントになりうる――能見と陽菜は、そう信じていたのだった。
今まで管理者はどこからともなく現れ、来たときと同じように撤退していった。彼らの拠点を探そうと試みても、失敗続きだった。どこに彼らが潜んでいるのか、どこから出現するのかが分からず、リーダーの芳賀は特に悩んでいた。
おそらく管理者は、この地下通路を利用していたのではないか。海上都市全体へと張り巡らされた通路は、スムーズな移動を可能にする。高い身体能力を持つ彼らなら、すぐに目的地へ向かうことなど簡単だったはずだ。
厚く堅牢な人工地盤を壊して、ようやく現れた地下通路。厳重に隠されていたそれを、能見は拳の一撃で露出させたのだった。
(……頑張ってね)
彼の勝利を願い、陽菜はもう一度指を組み合わせた。そして目を閉じた。
(たとえ姿が変わっても、能見くんは能見くんだよ。私は、ずっと能見くんのことを信じてるから)
碁盤の目のように並んだ画面の、半数以上がブラックアウトしている。薄暗い部屋に足音が響いた。
モニタールームへと帰り着いたとき、スチュアートは冷や汗をかいていた。倒れ込むようにデスクチェアーへ腰を下ろし、荒くなった呼吸を整える。
「トリプルシックスめ、人間の分際でふざけた真似を」
彼としては珍しく、冷静さを失いかけていた。悪態を吐いてから、デスクの引き出しからガラス製の小瓶を取り出す。
「『0』番を我が身に投与するというリスクさえ、私は冒したんだぞ。それなのに、なぜこの私が敗北する? ……ありえない。絶対にありえないっ」
スチュアートは、残っている限りの小瓶をすべて机上に並べていった。それぞれに「0」から「9」までの番号が振ってある。言うまでもなく、瓶の中の薬品を示しているナンバーだ。
彼の動作や表情はヒステリックで、狂気すら感じさせた。敗北を受け入れられず、怪人はパニックに陥りかけていたのだ。
「こうなったら、最後の手段だ。予備の薬剤をありったけ投与して、トリプルシックスをも凌ぐ完全な生命体へと進化してやる」
過剰な投与を試みれば、どんな副作用が出るか分からない。自我を失ってしまう危険性もあった。けれども、今のスチュアートはそれさえも恐れなかった。彼自身が人間に負けることこそ、一番恐れていたことだった。
(さて、問題は何から投与するかだね。まずはこれかな)
最初に手に取ったのは、「9」番の瓶だった。この薬剤は肉体変化に加え、物体の運動に干渉する力を付与する。トリプルナイン、菅井颯のような停止能力を得られれば、能見の攻撃にも対処できるかもしれなかった。
(いや、最善手はこちらかもしれない)
次に目を向けたのは、「7」番の瓶だった。
考えてみれば、停止能力を使えたところで、効果時間が短ければあまり意味がない。最も「9」の力を発揮できる菅井でさえ、唯のブーストなしでは五秒しかもたないのだ。それよりも、敵の攻撃を回避するトリプルセブンの力を得た方が良いのではないか。
しかし、スチュアートは迷った。一度は掴み上げた瓶を、再びデスクへ置いた。
(回避能力にしてみても、攻略法がないわけではない。かわすこともできないほど広範囲に攻撃を行えば、一定のダメージを与えられる)
津波によって芳賀を薙ぎ払ったときのように、どうあがいても回避不能な状況をつくれば攻撃は通る。そして能見には、それができる。辺り一帯に紫電を降り注がせれば、スチュアートの回避は意味をなさなくなる。
このときばかりは、頭脳明晰であることが仇となった。
どんなに強そうに思える能力でも、スチュアートはその攻略法を知っている。ゆえに、どの選択肢を取ろうとしても、即断即決というわけにはいかなかった。「もしかすると」というネガティブな予測が頭をよぎり、自信をもって決断できないのだ。
(……最強であるはずの「0」番を投与しても、トリプルシックスには勝てなかった。どうすればいい? 何を投与すれば、あのモルモットを駆逐できる?)
焦燥がさらなる混乱を生み、スチュアートは頭を抱えた。やみくもに振り回した手がいくつかの小瓶に当たり、床に落下する。砕けた瓶は透明な液体をまき散らし、沈黙した。
これほどまで取り乱すのは、彼が生を受けてから初めてのことだった。見下し続けてきた人間を恐怖したことは、今までにない経験だった。
いや、今の能見は本当に「人間」なのだろうか。彼はもう、そんな領域にはいないのではないか。スチュアートはパニックになっていた。
(勝つための方法を考えろ。考えるんだ。私は管理者の中でも最も優れた頭脳を持つ、スチュアートだぞ。これしきの逆境をはねのけるなど、造作もないはず――)
そのとき、ギイッ、と軋むような音がした。モニタールームの出入り口が開け放たれ、一つの人影が踏み込んでくる。
「なぜだ」
乾いた声で、深緑の怪人は呟いた。侵入者を凝視し、彼は表情を引きつらせていた。
「なぜ、ここが分かった。どうして君がここにいる?」
「お前を追ってきたからさ」
現れた紫色の怪人は、端的に答えた。宿敵の姿をじっと見て、静かに続ける。
「追いかけっこは終わりだ、スチュアート。今度こそお前を倒す」




